第二話「フレアイとキッカケ」 1
この異世界に召喚され、しばらく経ったある朝。小鳥の楽しげなさえずりによって、ワタシは目を覚ました。
「ん……」
重たい瞼を開くと、先日取り付けられた黄色いカーテンから、眩しい日差しが布越しに差し込んでくる。もう少し眠りたい気持ちも山々だったが、机の上に置かれた時計に視線を向けると、既に七時半を回っていた。様々な要因によってガッチリ組まれたスケジュールに振り回されていた現実と違い、エリュシールでの生活はそこまで時間に追われていない。隊員唯一の女性であり、なおかつ特殊な事情が絡んでいる事も相まって、今のワタシは少々の寝坊くらいなら許される身分だったりする。だから、未だ靄のかかった思考の中で、後もう少しだけ眠ろうと考えた。
しかし、布団を身体にくるめたところで、ふとある事を思い出す。
――あ、でも今日はフーレンスさんに呼ばれてるんだっけ。
確か、部屋に来るよう告げられた時刻は午前九時だった筈。副隊長から直々の呼び出しとあっては、下手に睡眠を取って遅刻するわけにもいかない。後一時間ちょっとなら、身だしなみを手早く整えてギリギリ間に合うといったところか。
五分だけ眠るかどうか結論を出すまでに、結局五分はかかってしまっていた。
「……起きるか」
自分に言い聞かせるように呟き、溜息を吐きながら上体を遅延とした動作で起こす。一度、二度と大欠伸をしてカーテンを引くと、日光の輝きがいっそう増した。未だ睡魔に悩まされる頭を起こそうと目元を擦りつつ立ち上がり、机の上の水差しから中の液体をコップへと注ぎ、口の中に含む。途端、寝起き特有のネバネバした港内に水分が澄み渡っていった。
寝間着から正装に着替え、最低限の外出準備を済ませて食堂へと向かい、料理の載った盆を受け取って自分の部屋へと戻った。スクランブルエッグとトーストで腹を満たし、ミルクで喉を潤わせる。少しのんびりとした時間を過ごした後、余裕を持って兵舎を出た。若緑色をした植え込みに囲まれた道を歩いていくと数人の隊員とすれ違い、軽く会釈をし合う。まだ殆ど交流していないので、顔や名前を知っている者もごく僅かだが、彼らの方では、ワタシという存在は結構な有名人らしい。やはり唯一の女隊員という事で珍しがられているのだろう。それ以上の感情も――というのは有り得るが、自分でこういった事を考えるのは少しはばかられるので心の隅に置いておく。
エリュシール本部に入り、見知った顔のいなかった談話室を通って、二階へと向かう。副隊長用の部屋をノックすると、しばし間を置いて、
「どうぞ」
と、前にも聞いた落ち着いた声色が返ってきた。ドアノブを回し扉を開くと、肘掛け椅子に背を預けているフーレンスが読んでいたらしい古い装丁の本をパタンと閉じるのが目に入った。いつか山積みになっていた事務机の書類は全て綺麗に片づけられていて、朝の涼しげな風が開け放たれていた窓から室内に流れてきている。応対用のテーブルの上には赤みがかった茶の入ったティーカップ二つと、クッキーの入った木編みのカゴが置かれている。ワタシの来客を知っていたため、気を遣ってくれていたのだろうか。
「どうですか、ここでの暮らしは」
ワタシにソファに座るよう促し、自身も対面に腰掛けてから、フーレンスは開口一番そう訊ねてきた。
「部隊にも、だいぶ慣れましたか?」
ワタシは首を縦に振った。異世界に来て当初は色々と分からない事だらけで四苦八苦していたものの、日にちが経つにつれて右往左往する事も無くなった。与えられる仕事も町中の見回りを初めとした比較的安全で同行者のいるものばかりで、あまり気負わないで済む。本当は町で騒ぎを起こしている者や凶悪犯を逮捕するといった任務もあるみたいなのだが、全く剣も槍も扱えず戦力にならない事が影響もあってか、今危険な事件に関わったりはしていない。今のところは、比較的安全な生活を謳歌出来ているといえる。
――まあ、一つだけ引っかかっている事はあるんだけどね。
頭の隅にちらついた厄介事に、頭が自然と重くなった。
とにかく。先ほど浮かんだ懸念に関してはひとまず置いておき、ワタシは副隊長の投げかけてくる生活に関しての質問に一つ一つ答えていった。
「そうですか、取りあえず無事に過ごせているようで安心しました」
幾つかの問答の後、フーレンスは安堵の笑みを浮かべてホッと一息つくと、その白い手でテーブルの上を示し、
「どうぞ、遠慮なく召し上がって下さい」
と、茶や菓子を勧めてくる。
「あ、はい」
小さく頭を下げ、ワタシはカゴへ腕を伸ばした。一人暮らししていた頃のように、本当に遠慮なくバクバクと口の中に放り込めば引かれる事間違いなしなので、小さな焼き菓子を一つ摘み、努めて上品に嗜む。舌の上で、クッキーの控えめな甘さが溶けていった。続けて、赤みがかったお茶の方へも手を伸ばす。しかし、カップを口元に近づけてみると、
――あれ?
最初はてっきり普通の紅茶とばかり思っていたのだが、鼻孔を擽る香りがまるで違う。果実に似た甘美な匂い。
「これはアップルティーですよ」
虚を突かれたワタシの様子に気がついたのか、同じくティーカップを持ち上げていたフーレンスは穏やかな微笑と共に口を開いた。
「私の好きなブレンドで、都の外から取り寄せているんです」
「はあ、そうなんですか」
ミナーシェといい、彼といい、茶を愛飲している人が多いなと思いつつ、アップルティーを一口飲む。香り同様に甘い、という事は無かったものの、確かに格式高い味のような気がした。ただ、ワタシはお茶の善し悪しが分かるような人間ではないので、
「美味しいですか?」
という率直な問いに、
「はい、美味しいです」
という安直な答えしか返せなかった。しかし、紳士的な風格を漂わせている目の前の男は頬を緩めて、
「そうですか、お口に合ったようで良かった……ところで、城の者達から接触があったとミナーシェから聞きましたが」
「えっと……」
ワタシはカップの口に唇を触れたまま、天井を見上げて記憶を辿っていった。
「はい、後をつけられました。外に出てる時ですけど」
城下町の見回りをしている際、一般庶民のそれより遙かに高級そうなマントを羽織った集団に尾行された経験がある。まるで監視されているようで気味悪く、それで同行していたミナーシェに低い声で相談した。すると彼は、
「後ろの人達は城の魔術師さんですよ」
と、朗らかな態度を崩さずに平然と教えてくれたのだった。
「大丈夫ですよ。マナミさんの話を聞いて、取りあえず様子を見に来たんでしょう。あまり気にしなくてよいと思います」
その旨を詳しく伝えると、エリュシール副隊長は、
「ふむ……」
と、神妙な面持ちで考え込む。吹き抜けてくる微風に長い緑髪は僅かに揺れ、テーブルの上に向けられた茶色い瞳は不思議な輝きを放っていた。
ややの沈黙の後、彼は口を開いた。
「ミナーシェの言う通り、心配の必要は当面ないでしょう。ですが、十分に注意して下さい。彼らは貴女に対して、並々ならぬ興味を抱いているでしょうから」
彼の真剣味を帯びた発言に、ワタシは緊張しつつ頷いた。
「じゃあ、私からの話は以上です。だいぶ時間を取らせましたね、すみません」
「いえ、そんな」
会話を続けながら、ワタシ達はお互いにソファから立ち上がった。
「今日は確か」
と、彼は視線を左右に巡らせて、
「ルトレーと共に巡回をするんでしたよね?」
「……あ、はい」
その名前を聞いた時、ワタシは全身に気怠い感覚が回っていくのを感じた。それが表情か何かに出ていたのだろう。フーレンスは不可解そうに目を瞬かせたが、すぐに元の穏やかな表情を取り戻すと、
「町の治安を守る事は、私達の大切な役目です。彼と連携して、頑張って下さいね」
と、優しげな激励をかけてきた。
別れの挨拶を交わし、部屋を後にする。ワタシは二階の通路をゆっくりと歩きながら、誰にも聞かれる事のない深い溜息をついた。
「連携……ねぇ」
そう。ワタシの懸念事項は、彼――ルトレーに関しての事なのだった。