第三話「影の後継者」 2
突然のノックに、自然と体が強ばっていた。そこまで心配する必要はないと理性では分かっていても、もしや、という気持ちが脳裏にこびりついて離れない。
――まさか、フードを被ったアイツじゃ。
ミナーシェが帰ってきたと思って振り向いた後の衝撃は、そうそう簡単に忘れられるようなものではなかった。
もし、嫌な予感が的中していたら。無意識のうちに、布団を強く握りしめていた。
早鐘のように鳴り続ける心臓の鼓動を感じつつ、ワタシはドアを凝視していた。
やがて、ノブがガチャリと回される音がして、扉が開く。
まず、艶のある長い緑髪が目に入ってきた。
「あっ、起きてましたか」
入ってきた人物――フーレンスは、ワタシが目を開いている事に気がつくと、その顔に穏やかな笑みを湛えたまま、申し訳なさそうに口を開いた。ほっそりとした両腕には花瓶を抱えている。その中に生けられているのは、黄色い花だった。
「すみません。ノックに反応が無かったものだから、まだ意識を失っているとばかり思っていたんです」
「い、いえ……ワタシも、今起きたところだったので」
会話を続けているうち、張り詰めていた緊張の糸がプッツリと切れたのを感じた。
――良かった……フーレンスがいてくれるなら、ひとまず安心よね。
エリュシール副隊長である彼がいるなら、相手の方もそう簡単には手出ししてこないだろう。
「どうですか、具合の方は」
椅子に腰掛けたフーレンスは、花瓶をテーブルの上へ静かに置きながら訊ねてきた。ワタシは正直に答える。
「……結構、悪いです」
「どんな感じですか?」
「何だか、体がダルくて、熱くて。頭もぼーっとしちゃうっていうか」
「無理もないですよ。私がここに到着した時も、君はもの凄い熱でうなされていましたから」
「……あの、ワタシって、どうしてここに?」
「ミナーシェが君をここまで連れてきたんです」
彼の説明によると、謎の人物が逃走したのを確認してから、ミナーシェはワタシを背負い、この場所まで急いで運んだのだそうだ。その後、青年はエリュシールの本部に伝言を携えた人間を送り、その連絡を受けてフーレンスはやってきたのだという。
二人の他、ルトレーもここにやってきているのだそうだ。コップが四つあったのは、その所為なのだろう。
「あの、それじゃミナーシェとルトレーは?」
「彼らは外で警護にあたっています。例の襲撃者が、いつまた現れるか分かりませんから」
「……二人だけで大丈夫なんですか?」
「彼らなら心配ないですよ」
フーレンスは不安がるワタシを宥めるような優しい声色で言った。
「それに、あまり目立ち過ぎるとこの場所を発見される恐れがありますから。人員は最小限に留めざるを得ないんです」
――あー、そういう事情なんだ。
「水、飲みますか?」
「あ、頂きます」
水差しを持ち上げて勧められ、ワタシは自分のコップを差しだした。注いでもらった水をちびちびと飲みながら、
「綺麗な花ですね」
花瓶に生けられているのは、現実では見た事が無い植物だった。花の外観は説明しにくいものの、チューリップとアジサイを足して二で割ったような感じだ。黄色い花弁は小さく気品があり、それでいて可憐に咲き誇っているような印象を受ける。
月並みな言い方だが、本当に美しい花だと思った。
「ああ、コレですか」
同じくコップを口に含んでいた彼は、温かな眼差しを植物に向けて、
「母が好きだった花です。香りも良いから、ここの者に頼んで買ってきてもらったんですよ。少しは沈んだ気持ちが和らげば、と思ってね」
「そんな……」
彼の優しい心遣いに、ワタシは強い感銘を受けた。元の世界でも、こんなに気を配ってくれる紳士に出会った事は無かった。会社にいる男共は全くデリカシーの無い奴ばかりで、病気で欠勤したワタシの元に届いてくるのは上司からのネチネチ小言くらいだった。
――やっぱワタシ、帰りたくないかも……。
「本当に、ありがとうございます」
「はは、気に入ってもらえたなら嬉しいですよ」
それからしばらくは、先の強烈な出来事も忘れていられるような、穏やかな話題が続いた。
しかし、ワタシの気持ちが平静くらいまで落ち着いた頃、
「ところで、大まかな話はミナーシェから聞きました」
と、表情を僅かに険しくしたフーレンスが、深刻な口調でそう切り出してきた。
「ただ、貴女からしか聞けない事も多いですからね。ミナーシェが君達を尾行していたと思われる人物を追ってから、何が起こったのか。差し支えなかったら教えてくれませんか」
「あ、はい……」
ワタシが全てを話し終えると、副隊長は腕組みをしながら下を向いて考え込み、
「ふむ、やはり私達の知らないところで、妙な事態が起きているようですね」
「あの、ちょっといいですか。あれからずっと気になって事があって」
「ん、何ですか?」
顔を上げ、真っ直ぐな視線を向けてきた彼に対し、ワタシは先ほど抱いた疑問を口にした。
「その、例のマントとフードを羽織った人物の事なんですけど。どうして、ワタシを狙ってるんでしょう?」
「……それは」
一旦、フーレンスは答えるのを躊躇うような素振りを見せたものの、やがて意を決したように、
「恐らく、君の持っている力を欲して、でしょうね」
「でも、ワタシ、自分がどんな力を持っているかなんて知らないんです。自分の事、普通の人間だって思ってて、元の世界でもそうだったし。あんな事が起きなかったら、ずっと気がつかなかったと思います」
「私も知りませんでした。いや、私だけじゃなく、隊長も皆もそうだったでしょう」
「でも、それじゃおかしいですよね」
だんだんと募っていく不気味な感覚を遠ざけたくて、ワタシは自然とベッドから起き上がり、口から発せられる声も大きくなっていた。
「だって、あの人はワタシがどんな力を持ってるか知ってて」
「マナミさん、落ち着いて下さい」
彼は諭すような口調で言うと、ワタシの両肩を優しく掴み、上体をゆっくりとベッドの上へと戻した。その動作を受け、再び取り乱していた気持ちが、だんだんと収まっていく。
「……すみません」
「いえ、貴女が言いたい事は、大体察しがつきますよ」
フーレンスはその顔にずっと浮かべていた微笑みを消し、一つ小さな息を吐いた後、些か戸惑いのこもった声色で言った。
「……例の相手は貴女の身に秘められた力について『知って』いた。つまり、貴女が特殊な術式によって異世界から召喚された事を認識している可能性が高い。そう言いたいのですよね?」
「……はい」
その通りだった。ワタシの出自を知っているのは、城の一部の人間達と、エリュシール内部の者のみ。となると、あの襲撃者はそのどちらかに属していると考えられるのだ。
ただ、疑うべき人間は更に限定される。というのは、相手が知っていたのは『ワタシの身に秘められている力』ーーつまり、召喚に使用された術式についての内容だ。例の古代書の内容をしっかりと把握出来ていた人物達の誰か、という事になる。
――つまり、城の魔術師達かルトレー……。
だが、まさかルトレーがこれまでの計画を行ったとは考えにくい。確かに仕事不熱心な傾向はあるものの、性格は極めて純粋な彼が、あれだけ命を賭けて救おうとした老婆を自分で危険に曝していたとは、どうしても思えないのだ。
となると、敵は城内部の人間。
この推理を話すと、フーレンスはしばし間をおいて、コクリと頷いた。
「そうですね、私も、大体は同じような考えだったんです」
「あっ、そうだったんですか」
自分の意見が受け入れられそうだったので、ワタシはどこかホッとした。
「けど、今度は私の方から、君の耳に入れておかなければならない情報があってですね」
「え?」
意味深な発言に首を傾げると、彼はコホンと咳払いした後、改まった調子で口を開いた。
「マナミさんは、影の継承者……という集団を知っていますか?」