第二話「フレアイとキッカケ」 5
「あの……?」
恐る恐る、ワタシは目の前の老婆へ話しかけた。だが、身じろぎ一つしない。ベッドの上で危険に曝されている赤ん坊の事さえ、目に入っていないようだ。昼間の穏やかで親しみやすい雰囲気は、微塵もみられない。
――一体、どうしたっていうの……?
火事のショックやら酸素が薄まったやらで、頭をやられてしまったのだろうか。だが、それも何となく違う気がする。
まるで、自分の心をどこかへ置き去りにしてしまったような、そんな表情。
――とにかく、まずはここから逃げないと。
頭を振って、ワタシは気持ちを切り替えた。このままでは、そう遠くないうちに全員が焼け死んでしまう。この室内にも火が浸食しているし、二人が無事だったのが奇跡的なくらいだ。
まずは、あの子を火の手から守らないと。そう考え、ワタシはシーツの上で激しく泣きわめいている赤子の方へ近づいた。
その時だった。急にガタッと椅子の揺れる音がして、反射的に振り返ろうとする。だが、そうする前に、ワタシの体は絨毯の上に押し倒された。両肩を掴む腕はその年齢からは想像出来ないほどに強く、起きあがろうとしても阻まれてしまう。
「お、お婆さん……!?」
何が何だか訳分からず、自身を組み伏せている老婆に、ワタシは呼びかけた。彼女は何も答えず、不気味なほどに無表情な顔を向けてくる。生気のこもっていない冷淡な瞳を見て、ワタシは直感した。
――正気じゃない……。
「あ、あの! 離して下さい!」
叫びながら、相手を体から遠ざけようとした。だが、幾らもがいても、老婆の手が肩から外れない。
そうこうしているうちに、聞こえてくる泣き声がいっそう激しくなる。慌ててみると、ベッドの端に炎が燃え移っていた。
「お婆さん! このままじゃあの子が……」
「お前、何でいるんだよ!」
「え!?」
突然の声に、ワタシは部屋の入り口へ視線を向ける。ローブを焦がしたルトレーが、目を丸くしてこちらを見つめていた。
「それに、これは……」
「アンタが一人で勝手に突っ走るから、追いかけてきたんじゃない!」
ワタシは息を荒げながら、
「それより、お婆さんの様子がおかしいの!」
「なっ……!」
状況を理解したらしい彼の瞳に、動揺が走る。
「婆さん! 何やってんだ!」
駆けてきたルトレーは老婆の体を掴み、強引にワタシから引き離した。だが、彼女は白目を剥きながら暴れ、彼の束縛から逃れようとする。しばらくの間、ルトレーは何とか彼女を宥めようと説得していたが、やがて、
「……ワリい、時間がねえんだ!」
と、何やら呪文を唱え始める。詠唱が進むにつれ、老婆の動きはだんだんと鈍重になっていき、彼が口を噤んだ頃には気を失っていた。
「何をしたの?」
「魔法で気絶させたんだ」
ルトレーは額に珠のように浮かぶ汗を拭いながら答えた。
「このままじゃ埒があかなかったからな」
「じゃあ、取りあえずは大丈夫なのね」
「大丈夫なんかじゃねえよ。早くここから脱出しねえと……」
「そ、そうね」
ようやく老婆の手から解放されたワタシはベッドに駆け寄り、泣き叫ぶ幼子を抱き上げた。そのまま窓の外を確認したものの、下は火の海で、とてもじゃないが飛び降りれるような状況では無かった。ルトレーの方はぐったりとした彼女を背負って、一瞬だけ顔をゆがめた後、
「ほら、とっとと逃げるぞ」
と、鈍重な足取りで部屋を出ていく。赤ん坊を抱えたワタシもその後に続いた。
ワタシ達は脱出出来る場所を探し回る。時間が経つにつれ、建物のあちこちが崩れさっていき、息も苦しくなっていく。ただ、ルトレーが水魔法で周囲の安全を確保してくれていたお陰で、炎に進路を阻まれて立ち往生になる危険性が無い事だけが救いだった。
そして。一階に降りたワタシ達はようやく、外へと通じる脱出口を発見した。家の奥に位置していた裏口の扉だ。幸い、ここだけは瓦礫に道を防がれずに済んでいた。
「先に行けよ」
「何言ってんの。アンタが先に行きなさいよ。お婆さんを背負ってるんだから」
滝のように汗を流している少年に、ワタシはそう促した。赤子を抱いているだけのワタシより、疲弊している彼が先をいく方が良いと思ったからだ。
「馬鹿な事言うなよ、いいからとっとと……」
「足がフラフラなアンタが後ろにいると、倒れてしまわないか不安なのよ。ほら、早く」
「……分かったよ」
折れたルトレーは老婆を背負い直した後、ゆっくりと扉の方へ歩き始める。彼が空いている方の手でドアノブを回すと、外の世界の光景が眼前に広がった。
一歩一歩、ルトレーが踏みしめながら歩いていく。その後ろを、ワタシは少し間をおいて進み始めた。
――やっと、この暑苦しい場所から解放されるのね……。
だが、安堵の気持ちが胸中に入ったのも束の間。
急に騒音が轟いたかと思うと、天井が崩壊し、ワタシの頭上へと降り注いできた。
「ええっ!?」
動揺の叫びを上げつつ、反射的に身を退く。その判断がマズかったのかもしれない。
振り向いたルトレーと目があった次の瞬間には、ワタシの進路は崩壊した家屋の一部に断たれてしまっていた。
「そんな……」
無意識のうちに、呟きが洩れてしまう。茫然自失となったワタシの目を覚まさせたのは、耳に届いた赤ん坊の叫び声だった。
――そうだ、落ち込んでなんかいられない。
我に返ったワタシは目の前の障害物を取り除こうと、空いている右腕を伸ばす。しかし、細やかな残骸は何とか取り除けても、それ以上は無理だった。
――やっぱり、別の道を探すしか……。
そう思って引き返そうとした矢先、今度は廊下の向こう側が盛大な音と共に二階部分で埋まってしまう。遂に退路まで断たれてしまった。
「どうしよう……」
更に、炎の勢いが激しさを増し、ルトレーのいなくなった為に周囲も安全でなくなっていた。広がり迫ってくる火の海を見て、ワタシは反射的に体を屈め、全身で赤ん坊を守るように覆う。
――せめて、この子だけは何とか、助けないと……。
心を発憤させ、体中を襲う熱気と心中を支配する恐怖感を何とか紛らわそうとする。しかし、それらを完全に拭い去る事なんて、とうてい出来るわけが無かった。
更に、肺まで苦しくなっていく。どうやら、酸素も極端に薄まってきているらしい。
――このままじゃ、死んじゃうかも……ね。
朦朧とする脳内で、ワタシは頭の中で独り呟いた。そして、とうとう燃え盛る炎が、床に倒れるワタシの首筋を撫でる。
文字通り、撫でる。
――あれ?
あんまり、熱くない。意外な感触だったので、ワタシは驚いた。ひょっとすると、温度を感じる身体機能まで麻痺してしまっているのかもしれない。もしそうであるなら、死亡してしまう一歩手前というところなのだろう。もはや逃げる気力すら失っていたワタシは、抱きしめている幼子だけにはしっかりと力をこめて、両目を閉じた。
しかし、どれほど時間が経っても、ワタシの体が炎に焼かれる様子は無かった。
――どうして?
今にも途切れてしまいそうな意識を何とか繋げつつも、疑問が頭を駆け巡る。その時だ。すぐ側で、コツコツ、と足音が聞こえてきた。ワタシは閉じていた両目を開く。眼前に、真っ黒な靴とマントの裾が見えた。
――誰?
「……どうやら、間違いではなかったらしい、な」
それは、まるで変声機で強引に作り替えたような、不気味な声だった。しかし、その姿をしっかりと目で確認する前に、ワタシは遂に気を失ってしまったのだった。