第二話「フレアイとキッカケ」 4
「ここも大丈夫そうね」
赤みがかった空がだんだんと暗くなっていき、都に夜の帳が下り始めた頃。町中の喧噪から遠く離れた人通りの少ない路地裏を歩きつつ、ワタシは背伸びをしながら言った。ずっと歩きっぱなしだったので、足はひどく重く、そしてパンパンに張っている。最初の頃に比べればだいぶ慣れてきたとはいえ、それでもやはり、事務職にどっぷりと浸かっていたワタシの体は連日続く肉体労働に悲鳴を上げ続けていた。椅子に座ってただキーボードを叩いていれば良かったあの頃が、ひどく昔の事のように思えてくる。実際には、まだ一ヶ月も経っていないのだけれど。
「なぁ、もう帰ろうぜ。早く休みてえよ」
「駄目よ」
クタクタに疲れきり、うなだれるような体勢で歩いているルトレーに、ワタシは厳しく言い放った。
「まだ、見回らなきゃいけない場所が残っているじゃない」
「うー、面倒くせー」
「男なんだから、シャキっとしなさいよ。町の安全を守るのがワタシ達の仕事じゃない。サボった事がバレたら、タダじゃ済まないわ」
「へいへい、分かってるよ」
彼は不服そうに顔をしかめながらも、しぶしぶといった調子で頷いた。召喚士という如何にも薄暗い室内で働いていそうな職業のせいか、外見上はそう見えないものの、ルトレーはワタシ同様に運動が苦手らしい。長時間歩く羽目になる見回りを極端に面倒くさがるのも、元々のスタミナ不足が原因なのだろう。
――けど、ここは心を鬼にしないと。
このグータラ隊員の心根を叩き直すという使命感を心中で強め、ふと空を仰いだその時。ワタシは奇妙な灰色の雲が漂っている事に気がついた。
「あれ?」
目を細めて、じっと観察する。いや、あれは雲なんかじゃなく。
「煙……か?」
ワタシの視線に気がついたらしい少年が、疑問系で口を開いた。
「そうね、ワタシもそう思う。けど、何かあったのかしら?」
煙がもくもくと立ち上っているのは、この場所から遠く離れた、民家が連なる居住区の方角だ。夜に冷え込むとはいえ、今の気温は快適なくらい、まさか焚き火をしているとは思えない。なら、どこかの家族がバーベキューにでも興じているのだろうか。
そんな事を考えながら路地を出て、表通りに戻る。途端、慌てた様子でどこかへと駆けていく人々の姿が目に入った。彼らの慌てた様子から察するに、やはり何らかの異変が起こっているようだ。
「おい、どうしたんだ」
「それが……マズい事に、なって」
ルトレーが知り合いらしい青年に声を掛けると、足を止めた彼は息を荒くしつつ言った。
「いきなり、火が、どんどん家に燃え移って。殆どの人は、避難したんだけど、まだお年寄り達が大勢残ってて」
ごめん。今、急いでるから。最後にそう言い残し、青年は再び走り出して通りの向こうへと姿を消していった。その背を見送った後、ワタシはルトレーへ視線を移す。そして、驚いた。何故か、彼の顔がひどく青ざめていたのだ。
「まさか……」
譫言のようにそう呟いた後、ルトレーは突然に地面を勢いよく蹴った。
「あ、ちょっと! 待ちなさいよ!」
とっさに制止の言葉を投げかけたが、勿論聞く筈も無い。
――もう、一体何が何なのよ!?
訳が分からないまま、ワタシは彼の後を追って駆けだした。しかし、幾ら運動嫌いの体力無しとはいえ、相手は男。日頃ろくに運動もせず、休日は菓子を貪りダラダラする毎日を送っていた女が容易に追いつけるわけもない。とにかく、差がついて相手の後ろ姿を見失わないよう、心臓が悲鳴を上げ、息が切れて肺が苦しくなっても、懸命に足を動かして走り続けた。
そのうち、視界に映る煙がだんだんと大きくなっていく。彼が火事現場へと急行しているのは明白だ。しかし、一体どうして。
疑問が頭を渦巻く中、痺れにも似た感覚の走る足を押して角を曲がったところで、勢いよく燃え盛る紅光が視界に入ってきた。ようやく火事現場に到着したらしい。間隔を開けずに連なり合う軒の殆どに炎が燃え移っていて、このままいけば全焼は免れないだろう。早く消防車が来れば、と考えたところで、ここが現実世界ではない事を思い出した。車が存在しないのに、消防車がやってくる筈が無い。
――じゃあ、コレ一体どうすんのよ……。
胸騒ぎを抱きながら、眼前の惨状を見つめる。ワタシ同様、遠巻きから騒ぎを眺めている人間は大勢いたが、消化作業にあたっている者は数少ない。殆どが魔術師のようで、どうやら魔法で生成した水で鎮火を試みているようだ。必死で頑張っている彼らと見物客の間では、王国の騎士達が焼かれている家屋に近づこうとする人々を懸命に押しとどめていた。
そして、その密集地帯の中にようやく青髪の少年を発見し、ワタシは小走りで彼の元へと駆け寄った。
「おい! どけよ!」
「そういう訳にはいかん!」
「俺はエリュシールの人間だ!」
「たとえそうだとしても、これは我らの管轄だ!」
「るっせー!」
「ちょっと! 何やってんのよ!」
取っ組み合いのような形でもみ合う中年の騎士と若い召喚士の間に、ワタシは割って入った。
「アンタ、少し頭を冷やして……」
「そんな悠長なコト言ってられるかよ!」
血走った眼で怒鳴りつけられたので、無意識のうちにビクッと仰け反ってしまった。だが、ワタシのこの反応が、血の上っていた彼を僅かながら冷静にしたらしい。ルトレーは荒い息をつきながら顔を逸らして、
「あそこは婆さん家なんだ……このままじゃ……孫だってまだ……」
瞬時に、どういう経緯だったのか察した。
「たとえどんな理由があるとしても、お前を通すわけにはいかん」
だが、騎士は厳格な調子で言葉を続けた。
「後少しで、城から応援の魔術師達がやってくる。それまで大人しく……」
「待ってなんて、いられるかよ!」
「あ! 待て!」
一瞬の隙をついて、ルトレーは兵士達の包囲を突破し、激しく炎上する住居の中へと駆けていった。
――アイツ一人を、行かせるわけにはいかないわよ!
そして。ワタシもまた、彼に気を取られて振り向いた騎士の横をすり抜け、建物内へと突っ込む。
「コラ! 引き返……」
後ろから男達の怒鳴り声が耳に届いてきたが、振り向かなかった。だが、ワタシがちょうど玄関を通り抜けた、その瞬間。天井の一部が崩れ、唯一の退路を塞いでしまった。途端、尋常ではない熱気が体中を包み込んでくる。
――これじゃ、もう戻れない……。
不安が首を擡げるものの、こうなってしまえばしょうがない。
――とにかく、お婆さんを見つけて、アイツとも合流して。早くここから出ないと。
意を決し、ワタシは彼らを見つける為、炎が蔓延る家の中を小走りで探索し始めた。
「お婆さーん! ルトレー! いたら返事して!」
大声で呼びかけるものの、返事は無い。炎が邪魔して思うように動けなかったものの、しばらく進むうち、家の端に階段を見つけたワタシは、意を決してそれを上った。
一階に比べ、二階はいっそう火の勢いが強い。しかし、ワタシは怯える気持ちを何とか奮い立たせ、二人の姿を探し続ける。
そして、階段からだいぶ離れた一室に、ようやく椅子に腰掛ける人影を発見した。そのやや曲がった背中から、相手は昼間に出会った老婆だと、容易に察しがついた。
「大丈夫ですか!?」
ワタシは呼びかけながら、部屋に足を踏み入れた。すぐに、今にも火が燃え移らんとしてうるベッドに置かれた赤子が目に入る。
「お婆さん、早く逃げましょう! ここにいたら焼け死……」
座ったまま身じろぎ一つしない老婆の皺だらけな手を取り、引っ張ろうとしたところで、ワタシは相手の様子がおかしい事に気がついた。目は虚ろで、周りでこれだけ異変が起きているのにも関わらず、瞬き一つしない。
微かに呼吸はしているものの、まるで死んでいるかのような態度。
得体の知れない不気味さを感じ、ワタシの背筋はゾクッと震えた。