第二話「フレアイとキッカケ」 3
――ルトレーちゃん?
何ともいえない違和感を覚えつつつつ、声の方向へ顔を向けると、道の端に小さな老婆の姿があった。あちこち継ぎ接ぎだらけの紫色をした衣服に身を包んでいて、木の幹のような細い両腕には小さな赤ん坊を抱いている。
「……あっ、婆さんじゃん」
自身に声を掛けてきた相手に気がついた少年は、気さくに手を挙げた。親しげな口振りからして、どうやら二人は顔見知りらしい。
「久しぶり、元気だったか?」
「お陰様で、しぶとく生きておるよ」
「それは良かった。しばらく見なかったから、心配してたんだぜ」
「ほほほほ、私はまだまだ死なないよ。この子がすっかり一人立ちしてしまうまでは、の」
近づいてきた老婆は腕の中の赤子をルトレーの方へ抱いたまま突き出す。彼はそのふっくらとした頬を優しく撫でながら、
「はは、そりゃ頼もしい」
と、朗らかに笑いながら言った。一方、老婆の方は穏やかな微笑を浮かべたままワタシの方をチラリと見やると、
「ところで、こちらの別嬪さんはどなた様かい?」
――そ、そんな……別嬪さんだなんて……。
初対面の相手に対するお世辞だとは分かっていつつも、自然と頬がだらしなく弛んでいく。
しかし、そんな浮ついた気分を、ものの見事に隣のクソガキが叩き落とした。
「あー、こっちのノータリンは新入り」
ノータリン。つまりは脳足りん。馬鹿の事である。
「なっ!」
ワタシは頭に血が上っていくのを感じつつ、ぶっきらぼうな発言の主に向かって、
「誰がノータリンよ!」
怒鳴りつけた瞬間、周囲を行き交う人々の視線を多数感じたが、気にもならなかった。
「うっせーよ。そういうところがノータリンなんだって」
「アンタにだけは言われたくないわよ。いっつも間抜け面で大鼾かいて寝てる癖に」
「なっ!」
今度は相手の方が茹で蛸のように紅潮した。
「お前って覗き魔なのかよ! 趣味ワリい!」
「人聞きの悪い事言わないでよ」
ワタシは口の端をニヤリと歪め、
「カーテンを閉め切るの、時々忘れてるでしょ。窓から丸見えなのよ」
「うええ、マジで気持ち悪い女……」
「まぁ、そうだったの。私てっきり、ルトレーちゃんの恋人かと思ったわ」
老婆の空気を全く読んでいない発言に、ワタシ達は同時に彼女を見つめ、
「はあ!? 冗談でも止めてくれよ!」
「こんな世話のかかる男はゴメンよ!」
と、唾を飛ばしながら叫んだ。刹那、またもやワタシとルトレーの間に火花が散る。
「冗談でも止めてくれって、どういう意味よ!」
「誰が世話のかかる男だ!」
「おや、違うのかい?」
「頼まれたってお断りだっつーの」
小生意気な少年はしかめっ面をして、
「誰がこんな年増と……」
ピキッ。
ワタシの中でぷっつりと血管の切れる音がした、次の瞬間。
「うぎゃああああ!」
こめかみに拳をグリグリと押しつけられたルトレーの絶叫が、町中に響きわたった。
「あらら……ルトレーちゃん、大丈夫かしら」
「このくらい平気ですよ」
地面にうつ伏せで倒れている少年を心配そうに見つめている老婆に対し、ワタシは肩で呼吸をしながら言った。
「ところで私達、皆さんのお邪魔になってないかしら」
「あ、そうですね」
道行く人々が避けて通るので、ワタシ達の周囲には目立つ空間が出来ていた。
「ちょっと隅に行きましょうか」
「は、はい」
彼女に続き、ワタシは乱暴にルトレーを引きずりながら通りの端に寄った。ちょうど設置されていた木製のベンチに彼の体を横たえ、その隣に老婆と腰掛けて座る。ホッと一息ついたところで、ワタシはずっと胸中に抱いていた質問を彼女にぶつけた。
「あの、お婆さんは一体……?」
「私、私はねえ」
と、老婆はニッコリとワタシに微笑んだ。
「ルトレーちゃんに昔助けてもらった事があるのよ。この子と一緒にね」
「え?」
思いも寄らぬ返答に、目を丸くする。彼女は笑みを絶やさないまま、腕の中の赤ん坊を見つめて、
「一ヶ月くらい、前の事かしら」
と、しんみりとした口調で語り始めた。
「元々、私は娘夫婦と一緒に暮らしていたの。けど、皆でお祭りを見に行った時、運悪く側で暴動が起きたのよ。後で聞いた話だと、王国の転覆をもくろむ者達の仕業だったらしいわ。お年寄りから年端もいかない子供まで、彼らは無差別に人々を襲っていった。
騒ぎに巻き込まれないよう、私達は必死で逃げたけど、娘と夫は命を落としてしまったの。託されたこの子を抱え、私は独り走り続けたけど、とうとう体の限界がきて、躓いて転んでしまった。その時、変なところを打ちつけてしまって、とうとう動けなくなってしまったの。
にじりよってくる暴漢達に、私は訴えたわ。この子だけは助けて頂戴って。けれど、彼らは聞く耳を持たなかったわ。そして、その手に持った凶器を私達に勢いよく振りおろそうとしたの。その時だったわ」
と、老婆はベンチにのびているくしゃくしゃ髪の少年を感謝のこもった眼差しで見つめて、
「ルトレーちゃんが割って入ってきて、私達を捨て身で庇ってくれたの。すぐに副隊長さんも駆けつけてきて、それで私達は何とか助かったわ。そのお陰で、私もこの子も今日まで生きてこられたの」
「そうだったんですか……」
全てを聞き終えたワタシの心中で、驚嘆と感動が入り交じって渦を巻いていた。
――コイツっていっつもダラけてばかりだけど、やる時はやるのね……。
職務怠慢の目立つ若者の意外な一面を耳にし、ワタシはルトレーを幾分か見直しつつ、視線を彼に向ける。程なくして気を取り戻した彼は、自身を凝視している二人に気がつくと、ドキッとしたように上半身を仰け反らせた。
「な、何だよ。ジロジロ見んな」
喉まで出かかった賛辞の言葉を飲み込み、口から吐き出されたのは無難な質問だった。
「アンタ、捨て身でこのお婆さんを助けたって聞いたけど、本当?」
すると、彼は僅かに頬を染めてそっぽを向き、
「……そんなんじゃねえよ。仕事だからやっただけだっつーの」
と、ぶっきらぼうに言った。
「へえ……」
「ところでよ、婆さん」
居心地が悪くなったのか、ルトレーは不意に話題を変えた。
「あまり、一人でウロウロするなよ。最近、更に都は物騒になってるんだからな」
「分かってるよ。暗くなる前にはちゃんと家に帰っているさ。ルトレーちゃんは心配性だねえ」
「別に心配なんかしてねえよ」
ルトレーはいっそう顔を真っ赤にして、
「それより、ちゃん付けは止めてくれって、ずっと前から言ってるじゃねーか」
「はいはい、分かりましたよ。ルトレーちゃん」
「だから……」
「ぷ、くくく……」
狼狽する少年の様子を観察していると、ワタシは口元が綻ぶのを抑えられなかった。
「おい、何笑ってんだよ!」
「別にぃ? 何でもないよ、ルトレーちゃん」
「なっ!?」
とうとう、少年の青い髪から湯気が立ち上り始めた。
「お前までちゃん付けすんな!」
「いいじゃん、ルトレーちゃんで。減るもんじゃないし」
「そうよ、ルトレーちゃん」
「だ……か……ら……!」
それから、ワタシ達は散々ルトレーの事をからかった。本人は不服そうに頬を膨らませていたが、老婆は何となく楽しそうだった。赤ん坊も何故か、キャッキャと笑っていた。
十分ほど後、この子にご飯をあげなくちゃ、と彼女が口にしたのをキッカケにワタシ達はベンチから立ち上がった。
「それじゃあね、ルトレーちゃんにマナミちゃん。これからも仲良くね」
別れ際に穏やかな笑みと共にそう言った後、老婆は通りを歩いていった。その小さな背が消えるまで、ワタシ達は彼女の事をずっと見送っていた。
――まぁ。カンカンに怒ったルトレーとは、とても仲良く出来るような状態じゃなかったけど……。