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一度だけのはずだった“それ”に人生を壊された

作者: hito4224
掲載日:2026/03/23

完璧だと思っていた人生が、崩れるときは一瞬だった。


これは、特別な誰かの話じゃない。


どこにでもいる“普通の人間”が、

どこで間違えたのかも分からないまま堕ちていく話です。

最初に壊れたのは、理性だった。


それとも——もっと前から、何かが欠けていたのかもしれない。


気づいたときにはもう遅かった。

私は、元の場所には戻れなくなっていた。



朝6時。


目覚ましが鳴る少し前に、目が覚める。


カーテンの隙間から差し込む光。

静かな部屋。規則正しい呼吸。


隣には、夫がいる。


穏やかな生活。

誰が見ても問題のない、安定した日常。


——そう、“何も問題がない”はずだった。



結婚して五年。


会話はある。関係も悪くない。

けれど、触れ合いだけが、いつの間にか消えていた。


理由は分からない。


忙しいから。

タイミングが合わないから。


そうやって、何となく流してきた。


不満はなかった。


少なくとも——そう思っていた。



私は満たされている。


仕事も順調で、評価も安定している。

自分の力でここまで来たという自負もあった。


誰にも頼らず、誰にも依存せず、

自分で選んできた人生。


そのはずだった。



「さすがですね、佐伯さん」


後輩が、資料を見ながらそう言った。


軽く笑って受け流す。


こういう言葉にも慣れていた。



そのときだった。


「その資料、あとで見せてくれる?」


背後から、低く落ち着いた声。


振り返ると、高瀬が立っていた。



無駄のない動き。

感情を表に出さない表情。


それでいて、どこか余裕がある。


部下から信頼されている理由が、よく分かる人だった。



「はい、すぐ共有します」


そう答えると、高瀬は軽く頷く。


そして、去り際にこう言った。


「無理しすぎないでくださいね」



ただの一言。


それだけなのに、なぜか心に残った。



仕事が終わる頃には、フロアにはほとんど人がいなかった。


気づけば、残っているのは私と高瀬だけ。


キーボードの音だけが響く静かな空間。



「まだ終わらない?」


声が近くで聞こえた。


顔を上げると、高瀬がこちらを見ている。


「もう少しで終わります」


「そっか」


短い返事。


そのまま去るかと思ったが——


「終わったら、少し飲む?」



一瞬、思考が止まる。


断る理由はある。


でも——


断る理由が、ないとも思った。



「……少しだけなら」


気づけば、そう答えていた。



高瀬は、ほんの少しだけ笑った。


その表情を見たのは、初めてだった。



「頑張りすぎる人って、壊れるの早いですよ」


何気ない調子で言う。


冗談のようにも聞こえるし、忠告のようにも聞こえる。



「ちゃんと力抜けてます?」


そう続けられて、言葉に詰まった。



力を抜く、なんて考えたこともなかった。


それが普通だったから。



「……大丈夫です」


そう答えると、高瀬は小さく頷いた。



「本当に?」



その一言だけが、やけに残った。



私は、そのときまだ知らなかった。


この何気ないやり取りが、


どこに繋がっていくのかを。



そして——


自分がどこまで壊れるのかも。


その日の夜。


店に向かう途中、ふと思った。


どうして私は、ここにいるんだろう。



小さな違和感。


でも、それを深く考えることはなかった。



このときはまだ、


引き返せる場所にいたのに。



私は——


その一歩を、自分で選んでしまった。

このときの私は、まだ戻れると思っていました。


でも——

選択は、もう始まっています。


第二話、少しずつ距離が縮まります。


※本作は連載版として書き直しました。

続きは連載作品の方から読めます。

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