一度だけのはずだった“それ”に人生を壊された
完璧だと思っていた人生が、崩れるときは一瞬だった。
これは、特別な誰かの話じゃない。
どこにでもいる“普通の人間”が、
どこで間違えたのかも分からないまま堕ちていく話です。
最初に壊れたのは、理性だった。
それとも——もっと前から、何かが欠けていたのかもしれない。
気づいたときにはもう遅かった。
私は、元の場所には戻れなくなっていた。
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朝6時。
目覚ましが鳴る少し前に、目が覚める。
カーテンの隙間から差し込む光。
静かな部屋。規則正しい呼吸。
隣には、夫がいる。
穏やかな生活。
誰が見ても問題のない、安定した日常。
——そう、“何も問題がない”はずだった。
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結婚して五年。
会話はある。関係も悪くない。
けれど、触れ合いだけが、いつの間にか消えていた。
理由は分からない。
忙しいから。
タイミングが合わないから。
そうやって、何となく流してきた。
不満はなかった。
少なくとも——そう思っていた。
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私は満たされている。
仕事も順調で、評価も安定している。
自分の力でここまで来たという自負もあった。
誰にも頼らず、誰にも依存せず、
自分で選んできた人生。
そのはずだった。
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「さすがですね、佐伯さん」
後輩が、資料を見ながらそう言った。
軽く笑って受け流す。
こういう言葉にも慣れていた。
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そのときだった。
「その資料、あとで見せてくれる?」
背後から、低く落ち着いた声。
振り返ると、高瀬が立っていた。
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無駄のない動き。
感情を表に出さない表情。
それでいて、どこか余裕がある。
部下から信頼されている理由が、よく分かる人だった。
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「はい、すぐ共有します」
そう答えると、高瀬は軽く頷く。
そして、去り際にこう言った。
「無理しすぎないでくださいね」
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ただの一言。
それだけなのに、なぜか心に残った。
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仕事が終わる頃には、フロアにはほとんど人がいなかった。
気づけば、残っているのは私と高瀬だけ。
キーボードの音だけが響く静かな空間。
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「まだ終わらない?」
声が近くで聞こえた。
顔を上げると、高瀬がこちらを見ている。
「もう少しで終わります」
「そっか」
短い返事。
そのまま去るかと思ったが——
「終わったら、少し飲む?」
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一瞬、思考が止まる。
断る理由はある。
でも——
断る理由が、ないとも思った。
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「……少しだけなら」
気づけば、そう答えていた。
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高瀬は、ほんの少しだけ笑った。
その表情を見たのは、初めてだった。
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「頑張りすぎる人って、壊れるの早いですよ」
何気ない調子で言う。
冗談のようにも聞こえるし、忠告のようにも聞こえる。
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「ちゃんと力抜けてます?」
そう続けられて、言葉に詰まった。
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力を抜く、なんて考えたこともなかった。
それが普通だったから。
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「……大丈夫です」
そう答えると、高瀬は小さく頷いた。
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「本当に?」
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その一言だけが、やけに残った。
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私は、そのときまだ知らなかった。
この何気ないやり取りが、
どこに繋がっていくのかを。
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そして——
自分がどこまで壊れるのかも。
その日の夜。
店に向かう途中、ふと思った。
どうして私は、ここにいるんだろう。
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小さな違和感。
でも、それを深く考えることはなかった。
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このときはまだ、
引き返せる場所にいたのに。
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私は——
その一歩を、自分で選んでしまった。
このときの私は、まだ戻れると思っていました。
でも——
選択は、もう始まっています。
第二話、少しずつ距離が縮まります。
※本作は連載版として書き直しました。
続きは連載作品の方から読めます。




