第九話 カーテンコールは地獄で
非常階段の踊り場。 逃げ場はない。下を見下ろせば、遥か下界に広がるコンクリートの地面。 かつて、アリスが叩きつけられた場所だ。
「……残念だよ、湊くん。君なら、僕の最高の『作品』になれたのに」
総務部の男――江口は、人の良さそうな笑顔を崩さないまま、極細のピアノ線を両手で張った。 ヒュン、と風を切る音が鳴る。 あれが首に巻き付けば、声帯ごと命を刈り取られる。
「アリスちゃんもそうだった。僕が愛して、永遠にしてあげようとしたのに……逃げようとするから」
「……それが、お前の愛かよ」
僕は後ずさり、手すりに背中を預けた。 心臓が早鐘を打つ。恐怖で膝が笑う。 アリス(スマホ)は沈黙している。助けは来ない? いや、違う。 さっきの『一緒に堕ちよう』というメッセージの意味。 彼女は僕に、「舞台」を整えろと言っているんだ。
震える呼吸を飲み込む。 スイッチを入れろ。 僕は相沢湊じゃない。被害者になれ。 かつて天才と呼ばれた演技力で、この殺人鬼の脳をハックしろ。
「……ねえ」
僕は、うつむいたまま声を漏らした。 その声色を聞いた瞬間、江口の足がピタリと止まる。
「どうして、あの時……手紙、読んでくれなかったの?」
僕の声じゃない。 震える語尾、息継ぎの癖、そして怯えたような上目遣い。 それは、彼が殺したはずの「生前のアリス」そのものだった。
「……え?」
江口の表情から、余裕が抜け落ちる。 彼は湊を見ているんじゃない。僕に重なる「亡霊」を見ている。
「あの日、ポストに入れたでしょ? ……私のこと、見ててくれたのは貴方だけでしょ?」
僕は一歩、彼に近づく。 ピアノ線の間合いに入る自殺行為。だが、江口は動けない。 彼の歪んだ愛が、目の前の幻影に反応してしまっているからだ。
「ア、アリス……ちゃん……? なんで、君が……」
「抱きしめてよ。……最期くらい、優しくして」
僕は泣きそうな顔で微笑んだ。 これは演技だ。全部、嘘だ。 でも、僕の心臓の鼓動は、あの日死んでいった彼女の恐怖とシンクロしている。
江口の瞳孔が開く。恍惚とした表情で、彼はピアノ線を下ろし、僕の頬へ手を伸ばした。
「ああ……そうだね。僕たちは、愛し合っていたんだね……」
指先が僕の肌に触れる直前。 僕は、耳元のスマホに向かって叫んだ。
「――今だ、アリスッ!!」
僕は全力で身を屈め、江口の脇をすり抜けた。 彼の視界から「愛する人」が消え、そこにあったのは――虚空だ。
『……つーかまえた』
スマホのスピーカーが割れるほどの轟音が響く。 それは、江口が録音していた「断末魔」ではない。 地獄の底から響く、本物の怨嗟の声。
江口の背後にあるビルの巨大な電子看板。 それが一瞬でノイズにまみれ、「血の涙を流す巨大なアリスの顔」が映し出された。
「ひッ……!?」
江口が仰け反る。 だが、それだけじゃない。 彼の首に巻かれていた、彼自身のネクタイが、まるで生き物のように跳ね上がり、喉を締め上げた。 アリスのポルターガイストだ。
『私が死んだ時と……同じ顔をして?』
看板のアリスが笑う。 見えない力が、江口の体を空中に吊り上げる。 手すりの外へ。 重力のない場所へ。
「や、やめ……僕は、ただ……!」
江口の手が空を掻く。 僕は手すりにしがみつき、その光景を見上げた。 助けない。止める義理もない。 これは、彼が始めた物語の、当然の結末だ。
『さよなら。……私の、ファン一号さん』
ブツン。 ピアノ線が切れるような音がして、江口の身体が弾かれた。
「あ――」
悲鳴はなかった。 彼はスローモーションのように、夜の闇へと吸い込まれていった。 数秒後。 遥か下から、生々しい衝突音が、微かに、しかし確かに届いた。
静寂が戻る。 電子看板は元の広告に戻り、僕の手の中のスマホも、急激に熱を失っていく。
「……終わった、のか?」
僕はへたり込み、夜空を見上げた。 星は見えない。東京の空は明るすぎて。 でも、頬を撫でる風は、もう冷たくも怖くもなかった。
『……ありがと。湊くん』
スマホの画面に、短いメッセージが浮かぶ。 そして、その文字は雪が溶けるように淡く消えていった。
僕は震える指で、画面を撫でた。 人を殺した感触はない。 ただ、長い間迷子になっていた友人を、ようやく「向こう側」へ送ってやれたような、不思議な安堵だけがあった。
カーテンコールは終わった。 ステージの上には、生き残った僕だけが、スポットライトを浴びていた。
(第九話 完)




