第八話 冷たい指と存在しない恋人
スマホが、熱い。 カイロのように発熱しているのに、そこから伝わってくるのは、芯まで凍えるような「悪寒」だった。
『……チガウ。男なんて、イナイ』
画面上のテキストはそう表示されている。 けれど、僕の感覚は別のものを捉えていた。 背後だ。 誰もいないはずの廊下で、濡れた髪の毛が、僕のうなじを撫でる感触。 振り返ると、床には点々と、**水で濡れた「裸足の足跡」**が浮かび上がっていた。
スマホの中じゃない。 彼女は、ここにいる。 この事務所という「地獄」そのものに染み付いているんだ。
「……分かった。いないんだな? 木島の勘違いか?」
僕が問いかけると、足跡はペタ、ペタと音を立てて動き出し、廊下の奥へと続いた。 まるで「ついてこい」と言うように。
導かれた先は、『衣装部屋』だった。 歴代の「星降アリス」の衣装や、イベント用の着ぐるみが所狭しと吊るされた、カビ臭い部屋。 無数の「皮」が天井からぶら下がる光景は、まるで首吊り死体の森のようだ。
足跡は、一番奥にあるロッカーの前で止まった。 そこは、かつて彼女(生身のアリス)が使っていた専用ロッカーだ。今はテープで封印されている。
「……これを開けろってことか?」
僕が手を伸ばすと、テープが独りでにパラリと剥がれた。 錆びついた扉を開ける。 中には何もなかった。ハンガーが一本揺れているだけ。 事務所が遺品をすべて処分した後なのだろう。
だが、アリスの気配(冷気)は、ロッカーの「底」を示している。 僕はしゃがみ込み、床板の裏を手で探った。 指先に、テープで貼り付けられた硬い感触が触れる。
引き剥がしてみると、それはSDカードだった。 彼女が死ぬ直前に隠した、最後の記録。
「……これに、真実が?」
震える手で、僕は持っていたスマホにSDカードリーダーを差し込んだ。 フォルダを開く。 そこに入っていたのは、膨大な数の「音声ファイル」だった。 タイトルはない。ただの日付だけ。
再生ボタンを押す。
『――やめて。ついてこないで』
ノイズ混じりの、アリスの怯えた声。
『……また、家の前にいる。……ポストに、手紙が入ってる』 『……怖い。社長に言っても、笑って取り合ってくれない』 『……誰か、助けて』
これは、日記だ。ボイスレコーダーに残された、孤独なSOS。 そして、最後の日付のファイル。 再生した瞬間、背筋が凍りついた。
『……分かったよ。あなたが誰か、分かった』
アリスの声は、諦めたように静かだった。
『あなたは、私の恋人なんかじゃない。……ただの、人殺しだ』 『ねえ、今ドアの向こうにいるんでしょ? ……開けてあげるよ。どうせ逃げられないなら、あなたの顔を見て死んでやる』
ガチャリ。 録音の中で、ドアが開く音がした。 そして――。
『愛してるよ、アリス』
低く、加工された男の声。 直後、ドンッという衝撃音と、窓が開く音。風切り音。 そして、録音はプツリと途切れた。
「……は、はは」
僕は乾いた笑いを漏らした。 木島の言っていた「男の声」とは、これだったのか。 アリスに恋人がいたんじゃない。 彼女を殺しに来たストーカー(犯人)の声を、木島は「情事の声」だと勘違いして聞いていたんだ。
「……狂ってやがる」
犯人は、アリスを殺す直前に「愛してる」と囁いた。 その歪んだ愛が、彼女を突き落とした。 そして、その犯人は――今もこの事務所で、平然と働いている。
『……サムイ』
スマホから、アリスの掠れた声が聞こえた。 同時に、衣装部屋の温度が急激に下がる。 息が白い。 吊るされた衣装たちが、風もないのにガサガサと揺れ始めた。
『……キタ』
アリスの警告。 衣装部屋の入り口。 いつの間にか、そこに「影」が立っていた。
逆光で顔は見えない。 だが、その手には、あの「白百合」が握られていた。
「……君か。新しいアリスの中身は」
影が喋った。 その声は、さっきの録音データの声と、同じ抑揚だった。
「やっぱり、君は勘がいいね。2号とは違う。……アリスちゃんが選んだだけあるよ」
影が一歩、部屋に入ってくる。 カツン、という革靴の音。 男だ。背が高い。そして、見覚えのあるシルエット。
「君の声、すごく良いよ。……僕のコレクションに加えてあげようか?」
男が、ゆっくりと手を上げた。 その指には、細いピアノ線のようなものが巻かれていて、キラリと光った。
『……湊、逃ゲテ』
アリスの声が響くのと同時に、吊るされた衣装が一斉に落下した。 ドサドサドサッ! 視界が布の山で遮られる。 アリスが起こした、精一杯のポルターガイストだ。
「……チッ。幽霊ごっこか」
男が舌打ちをする隙に、僕は衣装の山をかき分けて裏口へと走った。 心臓が破裂しそうだ。 顔を見たか? いや、暗くて見えなかった。 でも、声は聞いた。 あの声は――。
廊下を全力疾走しながら、僕は脳内の記憶を検索する。 聞き覚えがある。 あの、粘着質で、丁寧すぎる口調。 社長じゃない。マネージャーでもない。木島でもない。
僕の脳裏に、一人の人物が浮かび上がった。 いつも笑顔で、スタッフや演者に弁当を配り、誰よりも腰が低い、「総務部」の男。
「……嘘だろ、あの人が……葬儀屋……!?」
事務所の「何でも屋」として信頼されていた男こそが、アリスを殺し、2号を自殺に追い込み、今また僕を処理しようとしている怪物の正体だったのか。
行き止まりの非常階段。 僕は震える手でドアノブを掴んだ。 ガチャリ。 鍵がかかっている。 背後から、カツン、カツンと、正確なリズムで革靴の音が迫ってくる。
逃げ場はない。 スマホの画面には、アリスからの文字が表示されていた。
『一緒に 堕ちよう』
それは絶望の言葉か、それとも覚悟の言葉か。 僕は振り返り、闇の向こうから迫る「愛の殺人鬼」と対峙した。
(第八話 完)




