第七話 ノイズ・キャンセリング・ラブ
「……『私を推していた人』か」
翌日。僕は事務所のアーカイブ室にいた。 表向きは、次回の配信のために過去の動画を研究するという名目だ。だが本当の目的は、この事務所のスタッフリストと、アリスの「裏の交友関係」を洗うこと。
アリス(幽霊)は、僕のスマホの中に常駐していた。 画面の明るさを勝手に変えたり、通知音でモールス信号を送ってきたりする。どうやら、彼女は僕のデバイスを新しい「家」に定めたらしい。
『……こいつは違う。こいつも、興味ない』
スマホの画面に表示されたスタッフ写真を、アリスが勝手にスワイプして飛ばしていく。 社長? 違う。 マネージャー? 違う。 彼らはアリスを「商品」としてしか見ていなかった。そこに「愛(推し)」はない。
ならば、誰だ? アリスの「中身」である少女を、狂気じみた熱量で愛していた人間は。
その時、僕の視線がある男の写真で止まった。 音響エンジニア・木島。 いつも防音室の奥に引きこもり、ヘッドホンをしてブツブツと独り言を言っている、影の薄い男。 2号が死んだ時も、彼は一度も顔を出さなかった。
「……木島さんか。挨拶、行ってくるよ」
僕はスマホをポケットに入れ、地下にあるMAルーム(整音室)へと向かった。
***
MAルームは、死体安置所のように静まり返っていた。 数百万もする巨大なミキシングコンソールの前に、猫背の男が座っている。木島だ。 彼はモニターも見ず、目を閉じてヘッドホンからの音に集中していた。
「お疲れ様です。湊です」
声をかけると、木島はゆっくりと片方のイヤーパッドを外した。 充血した目。無精髭。そして、焦点の合わない視線。
「……ああ、湊くんか。昨日の配信、よかったよ」
木島の声は、乾燥した紙のようにカサカサしていた。
「特に、あの『ハミング』。……最高だった」
ドキリとする。 あのアドリブのハミングに気づいたのか?
「ピッチの揺らぎ、息継ぎの湿り気……まるで、初期のアリスちゃんが戻ってきたみたいだった」
木島はうっとりとした顔で、コンソールのフェーダー(音量つまみ)を撫でた。
「最近のアリスちゃん(AI)は綺麗すぎるんだよ。ノイズがなさすぎる。……人間ってのはね、ノイズにこそ魂が宿るんだ」
彼のデスクの上には、異常な数のハードディスクが積まれていた。 ラベルには『アリス_吐息集』『アリス_悲鳴テスト』『アリス_咀嚼音』と書かれている。 ……なんだ、これ? 配信で使われた音声じゃない。NGテイクや、マイクのテスト中に録られた「捨てられるはずの音」ばかりだ。
「木島さん、アリスのこと……好きだったんですか?」
僕は直球を投げた。ポケットの中で、スマホが熱くなるのを感じる。アリスが反応している。
木島は、にやりと笑った。
「好き? ……そんな薄っぺらい言葉じゃ足りないな」
彼はハードディスクの一つを手に取り、愛おしそうに頬ずりをした。
「僕はね、彼女の『音』を全て管理していたんだ。彼女が風邪を引いた時の鼻声、生理の時の不機嫌な声のトーン、泣いた後の掠れた声……全部、この耳で聞いてきた。彼女の鼓膜になりたかったくらいだ」
「ガチ恋」。 いや、それ以上の執着だ。彼はアリスという虚像ではなく、その向こうにある生々しい肉体の音に恋をしていた。
「でもね、彼女は裏切ったんだ」
木島の声が、急に温度を失った。
「死んだから?」 「違う。……『男』を作ったからだよ」
心臓が跳ねた。 男? アリスに彼氏がいた? そんな話、どのゴシップ誌にも載っていなかった。
「マイクは正直だ。ある時期から、彼女の声色が変わった。誰かに恋をして、浮かれている甘い声……。配信の裏で、誰かと通話している微かなリップノイズまで、僕は全部聞いていた」
木島の指が、強くフェーダーを握りしめる。
「許せなかった。僕だけの『神様』が、どこかの薄汚いオスに汚されるなんて。……だから、消音してあげなきゃって思ったんだ」
ミュート。 それは、死を意味する隠語か? こいつが、犯人なのか?
僕はポケットのスマホを握りしめた。 アリス、どうだ? こいつが犯人か? もしそうなら、今すぐこいつのPCをハッキングして証拠を出せ!
だが。 スマホの画面に表示されたのは、予想外の文字だった。
『……チガウ。コイツじゃ、ない』
え? 違う? これだけ動機があって、異常性もあるのに?
『コイツはただの盗聴魔。……私が怖がっていたのは、もっと別の……』
その時、木島がふと我に返ったように僕を見た。
「……おっと、喋りすぎたね。湊くん、君も気をつけて。……君の演技、すごく『彼女』に似てるから。あの人に目をつけられるよ」
「……あの人?」
「君も会っただろ? さっき、廊下ですれ違わなかったかい?」
木島が、部屋の出口を指差す。 僕は振り返った。 分厚い防音扉の小さな窓。 そこに――誰かが張り付いていた。
ガラス越しに見える、片目だけの視線。 僕たちが話をしていた間、ずっとそこで「聞き耳」を立てていたのか?
「――ッ!」
僕は慌てて扉を開けた。 だが、そこには誰もいない。 ただ、廊下の床に、一輪の花が落ちていた。
造花の白百合。 葬式に供える花だ。
「……ヒッ」
背後で、木島が小さく悲鳴を上げた。
「……来た。『葬儀屋』だ。……湊くん、逃げたほうがいい。君の声、もう『標的』にされてるよ」
木島はガタガタと震えながら、ヘッドホンを両耳に押し当て、ノイズキャンセリングのスイッチを入れた。 現実の恐怖音を遮断し、自分の殻に閉じこもるために。
僕は廊下に落ちた白百合を拾い上げた。 犯人は木島じゃない。 木島ですら恐れる、さらに凶悪な「誰か」が、この事務所の中を徘徊している。
『……ニゲテ』
スマホのアリスが、短く警告した。
『その花……私が死ぬ前日に、ポストに入ってたのと……同じ』
サスペンスのギアが一段上がった。 変質者は一人じゃない。 この事務所は、狂人の見本市だ。
(第七話 完)




