第五話 忘れな草とノイズ
『死ね。死ね。死ね。』
ヘッドセットから流れるのは、呪詛の連打。 ゲーム画面の中のアリス(怨霊)は、僕のアバターに触れてはいない。ただ、彼女が視界に入るたびに、僕の脳に直接、焼けるようなノイズが走る。 痛覚ではない。「不快感」の過剰摂取だ。三半規管を狂わされ、平衡感覚が溶けていく。
これが、2号が味わった地獄か。 物理的な暴力じゃない。「自分という存在の輪郭」を、強制的にぼかされているんだ。
「ぐ、あ……っ!」
意識がブラックアウトしかけたその時。 暴れ回るアリスの声に、ふと、聞き覚えのある「癖」が混じった。
『……どうして、私を置いていったの?』
その、寂しげに震える語尾。 アイドルの「星降アリス」が絶対にしない、素の少女の喋り方。
――あれ? 僕はこの声を、知っている気がする。
記憶の蓋が、強引にこじ開けられる。 それは10年前。僕がまだ「天才子役」として消費され、心が壊れかけていた頃の記憶。 テレビ局の片隅で、同じように大人たちに怯えていた、名前も知らない女の子。 僕たちはあの日、指切りをしたんだ。『いつか大人になったら、二人でここから逃げ出そう』と。
「……まさか、お前……あの時の……?」
僕の口から、無意識に言葉が漏れた。 星降アリスの「中身」。それは、かつて僕が唯一、心を許したあの少女だったのか?
「待て! 僕だ! 湊だ! 思い出してくれ!」
僕はマイクに向かって叫んだ。 その瞬間、画面のノイズがピタリと止まった。 目の前のアリスのアバターが、バグったように明滅し、カクカクと首を傾げる。
『……み、な……と……?』
通じたか? 殺意に塗りつぶされた瞳の奥に、一瞬だけ理性が灯ったように見えた。
だが。
『――嘘つき』
爆発音などしなかった。 ただ、ヘッドセットのスピーカーから、鼓膜を舐めるような吐息が聞こえただけだ。
『湊くんなら、私を忘れるはずないもん。……お前は、湊くんの皮を被った「ニセモノ」だね?』
ゾワリと、全身の毛穴が開く。 違う。否定しなきゃ。 でも、声が出ない。金縛りだ。脳からの信号が遮断されている。 彼女は「攻撃」をしてきたんじゃない。 システム管理者権限で、僕という人間の「操作権」を奪いに来たんだ。
『ニセモノはいらない。……全部、私が上書きしてあげる』
視界の端で、自分の右手が勝手に動くのを見た。 2号の時と同じだ。 僕の右手は、ゆっくりと、しかし抗えない力で――デスクに置いてあるカッターナイフへと伸びていく。
やめろ。止まれ。 筋肉が悲鳴を上げているのに、指先はカッターの刃を押し出し、自分の喉元へと切っ先を向ける。
彼女は物理干渉なんてしない。 ただ、僕の脳に「今すぐ喉を掻き切れば楽になれる」という命令を送り続けているだけ。 それが一番怖い。
「ぐ、あ……あぁ……ッ!!」
僕は奥歯が砕けるほど噛み締め、渾身の力で左手を動かした。 自分の右腕を殴りつけ、カッターを弾き飛ばす。 カラン、と乾いた音がスタジオに響き、呪縛がふっと緩んだ。
ハァ、ハァ、と荒い呼吸だけが残る。 モニターの中のアリスは、無表情でこちらを見つめていた。
『……へえ。抵抗するんだ』
残念そうでもなく、怒るわけでもない。 ただ、壊れかけのおもちゃを見るような、冷め切った目。
『いいよ。まだ時間はたっぷりあるから。……ゆっくり、私の色に染めてあげる』
プツン。 唐突に、ゲームの接続が切れた。 ヘッドセットの中は静寂に戻り、スタジオにはスプリンクラーの水音も、爆発の煙もない。 ただ、2号の死体と、脂汗にまみれた僕だけが残されていた。
「……はは、キツいな、これは」
僕は震える手でヘッドセットを外した。 爆発よりも、ずっとタチが悪い。 彼女は僕を「殺そう」とはしていない。 2号のように、「自壊」させようとしているのだ。
でも、一つだけ分かったことがある。 最後の『へえ』という反応。 あれは、プログラムじゃない。あそこには確かに、感情を持った「誰か」がいた。
「……絶対、思い出させてやる」
僕はカッターナイフを拾い上げ、刃を引っ込めた。 物理的な破壊力がないなら、言葉と心で戦う余地はある。 恐怖で麻痺しそうな脳を叱咤し、僕は2号の死体の横で、次なる配信の準備を始めた。
(第五話修正版 完)




