第三話 肉のノイズ
「ハッキング……? 違う、そんな綺麗なもんじゃない」
廊下の暗闇で、僕は震えが止まらない指先を強く握りしめた。 さっきの「推理」は、間違いなく論理的だった。でも、肌で感じる空気がそれを否定している。 あのメッセージは、キーボードで打たれた文字じゃない。もっと粘着質な、怨念そのもののような……。
メモにあった『嘘がつけない場所』。 この虚構まみれの事務所で、唯一「嘘」が存在できない場所。 それはサーバー室でも、配信ブースでもない。
――トイレだ。 人間が排泄し、化粧を直し、皮を脱いで「肉の塊」に戻る場所。
僕は導かれるように、突き当たりにある女子トイレ……ではなく、その横の多目的トイレへと向かった。 男女兼用のそこは、深夜の掃除時間を除けば、誰も近づかないデッドスペースだ。
重いスライドドアに手をかける。 鍵はかかっていない。 隙間から、**「グチュ、グチュ」**という、湿った音が漏れ聞こえてくる。
泥遊び? いや、何かをこねくり回しているような音。 そして、微かに聞こえる独り言。
「……ちがう。……角度が、ちがう……」
僕は息を殺し、ドアを数センチだけ開けた。 蛍光灯の明滅する個室の中。 そこにいたのは、ゲーム実況担当のゴースト――「2号」だった。
彼は(・・)洗面台の鏡に向かっていた。 小柄な体躯。パーカーのフードを目深に被っているが、鏡に映ったその顔を見て、僕は悲鳴を噛み殺した。
顔がない。 いや、顔中が「赤と青のライン」で埋め尽くされている。 油性マーカーだ。 頬、瞼、唇、顎。 まるで整形手術のマーキングのように、無数の線と矢印が、彼の素顔を塗りつぶしている。
「アリスの目は、あと2ミリ垂れてる……顎のラインは、もっと鋭角に……」
2号は、自分の頬の肉を指で力任せに引き伸ばし、定規を当てていた。 その指の力が強すぎて、爪が皮膚に食い込み、うっすらと血が滲んでいる。 先ほどの湿った音は、彼が自分の顔をこね回す音だったのだ。
彼は、モニターの中のアバター(絵)に、自分の生身の顔を無理やり合わせようとしていた。 ボイスチェンジャーもトラッキング技術も関係ない。 物理的に「アリス」になろうとしている。
「あ……うう……」
2号が呻く。 鏡の横には、タブレット端末が置かれていた。 画面には、あのアリスの「遺体写真」が表示されている。 週刊誌にも載らなかった、飛び降り直後の、首がありえない方向に折れ曲がった無惨な写真。
「首の角度が……足りない……」
2号は、両手で自分の頭を掴んだ。 ゴキッ。 鈍い音が個室に響く。 彼は、死んだアリスの「死に様」すらも再現しようとしていた。 痛みで白目を剥きながら、恍惚とした表情で、自らの首を限界まで捻じ曲げていく。
「これで……やっと……本物に……なれ……」
恐怖で足がすくむ。 ハッキング? 内部抗争? そんなレベルの話じゃない。ここにいるのは、アリスという「電子の呪い」に脳を焼かれ、自分という個を消滅させようとしている狂人だ。
その時。 鏡越しに、2号と目が合った。 マーカーで塗りつぶされた黒い瞳が、ギョロリと僕を捉える。
「……あ」
2号の口が、裂けるように歪んだ。 それは、湊に向けられたものではない。 僕の後ろにいる「誰か」に向けられた笑顔だった。
「そこに、いたんだね」
2号が、僕の背後の虚空に向かって、嬉しそうに手を伸ばす。
「アリスちゃん」
――え?
振り返る。 そこには誰もいない。ただの白い壁だ。 だが、2号の視線は確かに、僕の肩越しにある「何か」を愛おしそうに見つめている。 そして、彼は自分の首を両手で強く掴み、仕上げとばかりに力を込めた。
「見てて。今、そっちに行くから」
バキィッ!!
乾燥した薪が折れるような音が、静寂を引き裂いた。 2号の体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。 洗面台の縁に頭を打ち付け、そのまま動かなくなった。 鏡には、彼の血飛沫が、まるでアートのように赤い飛沫を上げて張り付いた。
「は……あ……?」
腰が抜け、その場にへたり込む。 死んだ? 今、目の前で? いや、それよりも。
『キヒッ』
耳元で、ノイズ混じりの笑い声が聞こえた。 ヘッドセットもイヤホンもしていない。 なのに、鼓膜の裏側に直接、あの甘ったるいAI音声がこびりつく。
『ねえ湊くん。次は、キミが着てくれるんでしょ?』
視界の端。 2号が落としたタブレットの画面が、勝手に切り替わる。 遺体写真がスライドし、カメラアプリが起動する。 そこに映っていたのは、へたり込む僕と――僕の肩に手を置き、青白い顔で微笑む、首の折れた銀髪の少女だった。
彼女の口元が動く。
『私のこと、上手に演じてね?』
絶叫すら、喉に凍り付いて出てこなかった。 システムなんて関係ない。 この配信部屋は、最初から「彼女」の胃袋の中だったんだ。
(第三話 完)




