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『神様のいない配信部屋(ストリーミング・ルーム)』  作者: 沼口ちるの


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3/10

第三話 肉のノイズ

「ハッキング……? 違う、そんな綺麗なもんじゃない」


廊下の暗闇で、僕は震えが止まらない指先を強く握りしめた。 さっきの「推理」は、間違いなく論理的だった。でも、肌で感じる空気がそれを否定している。 あのメッセージは、キーボードで打たれた文字じゃない。もっと粘着質な、怨念そのもののような……。


メモにあった『嘘がつけない場所』。 この虚構デジタルまみれの事務所で、唯一「嘘」が存在できない場所。 それはサーバー室でも、配信ブースでもない。


――トイレだ。 人間が排泄し、化粧を直し、ガワを脱いで「肉の塊」に戻る場所。


僕は導かれるように、突き当たりにある女子トイレ……ではなく、その横の多目的トイレへと向かった。 男女兼用のそこは、深夜の掃除時間を除けば、誰も近づかないデッドスペースだ。


重いスライドドアに手をかける。 鍵はかかっていない。 隙間から、**「グチュ、グチュ」**という、湿った音が漏れ聞こえてくる。


泥遊び? いや、何かをこねくり回しているような音。 そして、微かに聞こえる独り言。


「……ちがう。……角度が、ちがう……」


僕は息を殺し、ドアを数センチだけ開けた。 蛍光灯の明滅する個室の中。 そこにいたのは、ゲーム実況担当のゴースト――「2号」だった。


彼は(・・)洗面台の鏡に向かっていた。 小柄な体躯。パーカーのフードを目深に被っているが、鏡に映ったその顔を見て、僕は悲鳴を噛み殺した。


顔がない。 いや、顔中が「赤と青のライン」で埋め尽くされている。 油性マーカーだ。 頬、瞼、唇、顎。 まるで整形手術のマーキングのように、無数の線と矢印が、彼の素顔を塗りつぶしている。


「アリスの目は、あと2ミリ垂れてる……顎のラインは、もっと鋭角に……」


2号は、自分の頬の肉を指で力任せに引き伸ばし、定規を当てていた。 その指の力が強すぎて、爪が皮膚に食い込み、うっすらと血が滲んでいる。 先ほどの湿った音は、彼が自分の顔をこね回す音だったのだ。


彼は、モニターの中のアバター(絵)に、自分の生身の顔を無理やり合わせようとしていた。 ボイスチェンジャーもトラッキング技術も関係ない。 物理的に「アリス」になろうとしている。


「あ……うう……」


2号が呻く。 鏡の横には、タブレット端末が置かれていた。 画面には、あのアリスの「遺体写真」が表示されている。 週刊誌にも載らなかった、飛び降り直後の、首がありえない方向に折れ曲がった無惨な写真。


「首の角度が……足りない……」


2号は、両手で自分の頭を掴んだ。 ゴキッ。 鈍い音が個室に響く。 彼は、死んだアリスの「死に様」すらも再現コピーしようとしていた。 痛みで白目を剥きながら、恍惚とした表情で、自らの首を限界まで捻じ曲げていく。


「これで……やっと……本物に……なれ……」


恐怖で足がすくむ。 ハッキング? 内部抗争? そんなレベルの話じゃない。ここにいるのは、アリスという「電子の呪い」に脳を焼かれ、自分というオリジナルを消滅させようとしている狂人だ。


その時。 鏡越しに、2号と目が合った。 マーカーで塗りつぶされた黒い瞳が、ギョロリと僕を捉える。


「……あ」


2号の口が、裂けるように歪んだ。 それは、ぼくに向けられたものではない。 僕の後ろにいる「誰か」に向けられた笑顔だった。


「そこに、いたんだね」


2号が、僕の背後の虚空に向かって、嬉しそうに手を伸ばす。


「アリスちゃん」


――え?


振り返る。 そこには誰もいない。ただの白い壁だ。 だが、2号の視線は確かに、僕の肩越しにある「何か」を愛おしそうに見つめている。 そして、彼は自分の首を両手で強く掴み、仕上げとばかりに力を込めた。


「見てて。今、そっちに行くから」


バキィッ!!


乾燥した薪が折れるような音が、静寂を引き裂いた。 2号の体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。 洗面台の縁に頭を打ち付け、そのまま動かなくなった。 鏡には、彼の血飛沫スプラッシュが、まるでアートのように赤い飛沫を上げて張り付いた。


「は……あ……?」


腰が抜け、その場にへたり込む。 死んだ? 今、目の前で? いや、それよりも。


『キヒッ』


耳元で、ノイズ混じりの笑い声が聞こえた。 ヘッドセットもイヤホンもしていない。 なのに、鼓膜の裏側に直接、あの甘ったるいAI音声がこびりつく。


『ねえ湊くん。次は、キミが着てくれるんでしょ?』


視界の端。 2号が落としたタブレットの画面が、勝手に切り替わる。 遺体写真がスライドし、カメラアプリが起動する。 そこに映っていたのは、へたり込む僕と――僕の肩に手を置き、青白い顔で微笑む、首の折れた銀髪の少女だった。


彼女の口元が動く。


『私のこと、上手に演じてね?』


絶叫すら、喉に凍り付いて出てこなかった。 システムなんて関係ない。 この配信部屋ルームは、最初から「彼女」の胃袋の中だったんだ。


(第三話 完)

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