最終話 魔法が解けた朝に
サイレンの音が、コンクリートの森に響き渡る。 ビルの下には規制線が張られ、ブルーシートが敷かれていた。 江口の死体は、もう見えない。
「……すまなかった」
屋上の風に吹かれながら、社長が深々と頭を下げていた。 いつもの冷徹な仮面は剥がれ落ち、そこにはただの、疲れ切った初老の男がいた。
「江口は……あいつは、私の娘と妻を監視していたんだ。『言うことを聞かなければ、家族が事故に遭う』と」
社長の声が震える。 アリスの死を隠蔽したのも、2号の死を処理したのも、全ては江口の指示だった。 会社の全権を握っていたのは社長ではない。総務部のデスクで笑顔を振りまいていた、あの狂気のストーカーだったのだ。
「私もまた……あいつの操り人形に過ぎなかったんだ」
社長は、自嘲気味に笑った。 この事務所は、たった一人の怪物の妄想を実現するためだけに動く、巨大な舞台装置だったのだ。
「君との契約は破棄する。違約金もいらない。……警察には私がすべて話すよ。君は、もう行きなさい」
「……アンタも、名優でしたよ」
僕は短くそう告げた。 彼を許すことはできない。けれど、彼もまた「大切な人を守るための嘘」に縛られていた同類だった。
***
夜が明ける。 僕は一人、無人になった配信ブースに戻った。 機材はすべて押収されるだろう。星降アリスというコンテンツは、今日で終わる。
ポケットの中のスマホを取り出す。 画面は、黒いままだ。 あの「熱」はもうない。
「……おい、いるんだろ? アリス」
呼びかけても、ノイズは走らない。 部屋の空気は乾燥していて、あの湿った冷気も、腐った花の匂いも消えていた。
江口という「未練の源」が消滅したことで、彼女を現世に繋ぎ止めていた鎖が切れたのだ。 アリスという存在そのものが、朝露のように蒸発し始めている。
ブゥン……。
モニターが勝手に起動した。 でも、そこに映ったのは、いつもの「銀髪の美少女アバター」ではなかった。 真っ白な背景の中に、ぽつんと置かれた「空っぽの椅子」。 そして、テキストボックスに、一文字ずつゆっくりと文字が刻まれていく。
『バイバイ』
たった一言。 謝罪も、恨み言も、愛の言葉もない。 ただの、別れの挨拶。
でも、僕には聞こえた気がした。 あの日のテレビ局の廊下で、彼女と交わしたハミングの続きが。 『いつか大人になったら、二人でここから逃げ出そう』 その約束は、歪な形だったけれど、ようやく果たされたんだ。
「……ああ。元気でな」
僕はモニターに向かって、拳を突き出した。 画面の中の「空っぽの椅子」が、微かに揺れた気がした。 それが、彼女との最後のグータッチだった。
プツン。 モニターの電源が落ちる。 黒い画面に映り込んだのは、もう「誰かの代役」ではない、くたびれた顔の17歳の少年――相沢湊だけだった。
僕はヘッドセットをデスクに置き、スタジオのドアを開けた。 差し込んでくる朝日は眩しくて、少し目に染みた。
ネットの海には、まだアリスの動画が残り、ファンたちは彼女の死を知らずにコメントを書き込んでいるかもしれない。 でも、魔法は解けた。 僕はもう、嘘をつかなくていい。
「……さてと」
僕は大きく伸びをした。 空っぽになった胃袋が、情けない音を立てて鳴った。 コンビニでおにぎりでも買おう。 そして、家に帰って泥のように眠ろう。
幽霊も、殺人鬼もいない、退屈で愛おしい現実へ。
「おはよう、湊」
誰に言うでもなく、僕は自分自身の名前を呟き、光の中へと歩き出した。
(『神様のいない配信部屋』 完)




