第9話 沈んでいく音
あの日以来、俺の中で「音」に対する感覚がどこかおかしい。
でも、クラスメイトは誰もその変化に気づかない。母さんも同じ。俺だけが、世界から一歩だけ遠ざかっているような感覚を抱えたまま、今日も学校に来た。
——そして、今日。
ついに、それは動き出した。
階段の踊り場に立った瞬間、いつもの空気のざらつきが胸の奥でざわりと騒ぎ出す。
学校の地下につながる非常階段。普段生徒は使わないし、先生でさえ滅多に足を踏み入れない場所。
けれど今日は、そこから薄い気配が「呼んで」いた。
俺は無意識のうちに、その奥へと足を運んでいた。
鉄のドアを開くと、冷たい空気が押し寄せる。湿っていて、温度だけが現実から切り離されたような冷たさだ。
蛍光灯はところどころ切れていて、薄闇の中で赤い非常灯だけが遠くをぼんやり照らしている。
階段は……おかしいほど深かった。
一段、一段、重力が倍になったように足が沈む。
降りれば降りるほど、不思議なくらい音が消えていく。
靴底の擦れる音。
手すりに触れた指のきしみ。
呼吸の荒さ。
どれも、ぜんぶ、水の中に沈められたみたいに弱まっていく。
——いや。
“弱まる”んじゃない。
奪われている。
この感覚、どこかで知っている。
父さんの手記に書かれていたあの状態。
> 「音が消えていくのは、はじまりだ。
奴らは、気配の隙間から入り込む。」
その“奴ら”が、今まさに近くにいる。
階段は終わらない。
五階分降りたはずなのに、下の踊り場はまだ影に沈んだまま。
——俺、本当に学校の中にいるんだよな?
足が止まりそうになるたび、胸の鼓動だけが妙に大きくなる。
その音だけは消えない。
身体が「まだ俺は人だ」と主張しているみたいに。
と、不意に。
コツッ。
上の方から小さく響いた足音が聞こえた。
誰かが来たのか? 先生? 生徒?
でも、次の瞬間には音がスッと途切れ、まるで薄暗闇に吸われたみたいに静寂が戻った。
……違う。
あれは、人の足音じゃなかった。
俺は息を飲み、手すりを強く握る。
降り続けて、どれくらい経ったのかわからない。
スマホの時計を見ると、たった六分しか経っていない。
でも感覚では十五分以上歩き続けている。
階段そのものが歪んでいるみたいだった。
そして——
急に、世界が“空気ごと”静止した。
冷たい風も、蛍光灯のかすれた唸りも、
自分の脈動すら、遠い。
耳が詰まったような感覚とも違う。
これは、“奪われた”静寂だ。
音住が、近い。
胸がぎゅっと縮む。
呼吸の音すら聞こえない世界で、俺はひとり。
恐怖は、じわじわと皮膚の裏から染みるみたいに広がっていく。
頭の奥が熱くなる。
身体の芯が落ちていくようだ。
——ダメだ。引き返そう。
そう思った瞬間、
背後から、
「…………」
言葉にならない、“気配だけの気配”が触れた。
俺は反射的に振り返る。
そこには誰もいない。
ただ、暗い階段が上へ、上へと延びているだけ。
違う。
いる。
“見えていないだけ”だ。
黒い影が、階段の壁に貼りつくようにして、こちらをじっと見ている。
その存在の「音」が欠けているから目視できないだけで、確かに“いる”。
喉が乾く。
汗が一気に噴き出す。
俺は吸い込まれるようにさらに階段を降りる。
逃げたい。けれど、そこへ行かなきゃいけない。
理由なんてわからないけど、胸の奥がそう言っている。
——父さん。
その名前が浮かぶと、心臓の鼓動だけが一瞬だけクリアになった。
「ドクン」と胸を叩く音が、戻ってくる。
そして、見えた。
階段の終点。
そこだけ、蛍光灯の光が届かない、
完全な黒の“境界”。
けれど闇の中心に、ぼんやりと白い輪郭が揺れている。
あれが——音住の“住処”。
すでに音はほとんど消えている。
自分の呼吸が聞こえない世界は恐怖でしかない。
俺の心はわずかにパニックを起こし始めていた。
でも。
ここへ来なきゃいけなかった。
父さんが消えた理由を、確かめるために。
俺は喉を震わせる。声が出るか確かめた。
「……っ」
音は、出なかった。
世界が完全に無音に踏み込んだ。
その瞬間、白い輪郭がふっと膨らみ、
闇の中で“何か”が、俺の到来を静かに歓迎した。
俺は、一歩踏み出した。
音のないまま。
---




