第7話 地下へ誘う影
影に見られていた気配が、夜になっても消えなかった。
布団に入っても、耳の奥がむず痒い。
音が一つ欠けるたび、胸がざわつく。
眠れずに天井を見ていると、母の足音が近づいてきた。
「【俺の名前】、まだ起きてるの?」
「……うん。ちょっと」
母は心配そうに眉を寄せて、そっと俺の部屋に入ってきた。
「最近、疲れてるみたいだから……無理しないでね」
その声はいつもと同じ優しさなのに、ふとした瞬間に陰りが混じる。
父がいなくなってから、時々そういう表情をするようになった。
母が部屋を出ていき、静けさが戻る。
その静けさの中で──
“かすかに”聞こえた。
学校のほうから響く、重い鉄の扉が閉まる音。
普通、こんな夜中に学校の扉が動くはずがない。
だけど……
俺はもう“普通”じゃ片付けられない世界に足を踏み入れている。
布団から起き上がり、窓を開けた。
校舎の屋上、誰もいない場所に──
白い残光が揺れていた。
父の気配だ。
胸が強く脈打つ。
確信した。
“今日だ。何かが起きる。”
◆
夜の学校に向かう道は、昼間とは別の場所みたいに静まり返っていた。
校門の前に立った瞬間、空気がふっと沈んだような感覚が走る。
まるで“音の重力”が変わったみたいに。
門を押すと、ギ……と軋む音がした。
──いや、途中で音が消えた。
まただ。
この“切れ方”は音住の仕業。
校舎の中に入ると、廊下がやけに暗い。
電灯がついているはずなのに、光が途中で吸われているみたいだった。
ゆっくりと奥へ歩く。
足音の一番低い部分だけが、聞こえない。
怖い、でも、止まれない。
父の書記がポケットで震えるほど、存在感を持っている。
ページを開くと、そこにはこう書いてあった。
《“地下”が開く時、黒い影は道を塞ぎ、白い影は道を示す》
息を飲んだ。
その瞬間だった。
廊下の床の端が、ぼやりと黒く滲んだ。
音住だ。
複数いる。
壁、天井、階段の影──あらゆる暗がりが揺れた。
一歩、前に出た。
音が消える。
心臓の“ドクッ”の高い部分だけが無音になり、呼吸の摩擦も消えた。
世界がゆがむ。
それでも、進んだ。
目の前で、黒い影たちが道をふさぐようににじみ出る。
でも──
奥の階段の上。
白い光が一瞬だけ点滅した。
父だ。
黒い影たちがその光に怯えるように波打つ。
そして、わずかに道がひらいた。
誘われている。
◆
階段を降りた。
学校の地下には、普段使われていない古い倉庫があると聞いたことがある。
だが、こんな階段──見たことがない。
螺旋状に、何度も何度も続く。
深く、深く。
足を踏みしめるたび、音がひとつずつ剥がれていく。
階段のきしむ音。
俺の呼吸。
服が擦れる音。
全部順番に奪われていく。
最後に残ったのは──心臓の音だけ。
その心臓の音すら、次の瞬間、途切れた。
「……っ!」
無音の世界。
脳が悲鳴をあげ、視界がノイズのようにちらつく。
叫びたいのに、自分の声が出ているのかも分からない。
そこへ──
白い光が差した。
階段の最下層。
まるで“底が存在しない空間”の中央に、白が浮いていた。
父の気配。
俺はその光に向かって、震える足を必死に動かした。
黒い影たちが周囲で蠢いている。
触れたら崩れてしまいそうなほど軋んでいた心が、その光だけを頼りに前へ進む。
そして──
音住の住処に、たどり着いた。
真っ黒な空間。
でも、その中心だけがぼんやりと白く光っている。
光の手前に、黒い音住たちがうようよと重なり合い、その奥で──
白い音住が静かにこちらを見ていた。
父さん。
胸が熱くなる。
黒い音住たちが、父の周囲だけ避けるように距離をあけている。
父は俺に手を伸ばした。
その指先が光り、次の瞬間、空間全体がぐにゃりと歪んだ。
世界が変わる。
音が、白に染まる。
そして──
俺は光の中に、飲み込まれた。
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