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第6話 ゆらぐ廊下と、“俺”の気配

 朝、家を出ようと靴を履いていた時だった。


「【俺の名前】、今日もちゃんと帰ってくるのよ」


 母の声は、いつもより少しだけ心配そうだった。

 俺は振り返り、小さく笑ってみせた。


「大丈夫だって。行ってきます」


 玄関のドアを閉めた時──音が一瞬だけ消えた。

 閉まる“バタン”が、途中で切れたみたいに。


 ぞわっ、と腕に鳥肌が立つ。


 違和感は、また始まってる。



 学校に近づくほど、空気が重く感じる。

 風の音はする。車の音もする。でも──どこか欠けている。


 校舎の門をくぐった瞬間、耳の奥で“ザラッ”と何かが擦れた。


 階段を上がり、教室に入ると、友達の話し声が耳に流れ込む。

 そこだけは、普通の日常みたいに。


「おはよー【俺の名前】。今日、また先生に当てられんじゃね?」


「いや……どうだろ」


 声はちゃんと聞こえる。

 でも、廊下の奥に視線を向けた瞬間──呼吸が止まりかけた。


 いた。


 “俺”が。


 昨日と同じ制服、同じ姿勢、同じ身長。

 ただ立って、こっちを見ている。


 顔は暗くてよく見えないのに、確かに俺を見ていた。


 視線が合った瞬間、

 世界から一つだけ音が消えた。

 クラスメイトの笑い声の“最も高い部分”だけが、突然なくなった。


 空白ができたみたいに。


「……っ……!」


 目をそらした。

 再び廊下を見ると、いなかった。


 消えたんじゃない。

 はじめから存在していたのか分からなくなるような、そんな消え方だった。



 授業が始まり、社会の先生が黒板に書きながら言った。


「じゃあ次は、大和政権──」


 「やまとせ」のところで、音が切れた。


 静寂。


 机のきしむ音も、紙がめくれる音も、先生のチョークの音も──全部止まっている。


 数秒だけ、世界が息をやめたみたいだった。


 黒板を見ていた俺は気づいた。

 教室の中の“音が止まったことに気づいた生徒”は、全員同じ方向を見ている。


 先生を、ではない。


 先生の“ちょっと後ろ”。

 黒板の右下の影のあたり。


 そこに、黒い輪郭が揺れていた。


 形を持たない“誰か”が、教室の壁からのぞき込んでいた。


 にぃ。


 笑った。

 影だけのくせに。


 次の瞬間、世界に音が戻る。


「──権について説明するぞ」


 何事もなかったように授業が続く中でも、

 俺の心臓はずっと早いリズムを刻んでいた。



 放課後。

 校舎の裏にある古い非常階段の前で、俺は息を整えていた。


 ポケットの中には父の書記。

 嫌でも指がページの形を覚えてしまうほど読み込んでしまった。


 あの書記の途中には、こんな言葉があった。


《同じ姿をした“もう一人”が出るのは、音の境界が薄くなった証拠》


 “俺”に似た存在。

 廊下の奥で静かに立っていた影。


 あれは、境界が壊れ始めたサインだ。


 父さんは、こうなる過程を全部知っていた。

 だけど──どうして俺に黙っていたんだよ。


 胸の奥に小さな怒りと、もっと大きな恐怖が残る。


 夕暮れの風が吹いた。

 その時──


 階段の影が動いた。


 黒い揺らぎが一つ、こちらをのぞいている。


「……また……お前かよ……」


 声に出した。

 今度は、自分の声がちゃんと聞こえた。


 だけど影は、何も言わずに笑った。


 そして、

 俺の後ろに“もう一つの気配”が立った。


 振り返る。


 誰もいない──はずなのに、

 白い残光が一瞬だけ見えた。


 父の気配。


 俺は息をのみ、階段の手すりを握り締める。


 黒と白。

 どっちが俺を呼んでるんだ。


 もうすぐ、決定的に何かが始まる。



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