第6話 ゆらぐ廊下と、“俺”の気配
朝、家を出ようと靴を履いていた時だった。
「【俺の名前】、今日もちゃんと帰ってくるのよ」
母の声は、いつもより少しだけ心配そうだった。
俺は振り返り、小さく笑ってみせた。
「大丈夫だって。行ってきます」
玄関のドアを閉めた時──音が一瞬だけ消えた。
閉まる“バタン”が、途中で切れたみたいに。
ぞわっ、と腕に鳥肌が立つ。
違和感は、また始まってる。
◆
学校に近づくほど、空気が重く感じる。
風の音はする。車の音もする。でも──どこか欠けている。
校舎の門をくぐった瞬間、耳の奥で“ザラッ”と何かが擦れた。
階段を上がり、教室に入ると、友達の話し声が耳に流れ込む。
そこだけは、普通の日常みたいに。
「おはよー【俺の名前】。今日、また先生に当てられんじゃね?」
「いや……どうだろ」
声はちゃんと聞こえる。
でも、廊下の奥に視線を向けた瞬間──呼吸が止まりかけた。
いた。
“俺”が。
昨日と同じ制服、同じ姿勢、同じ身長。
ただ立って、こっちを見ている。
顔は暗くてよく見えないのに、確かに俺を見ていた。
視線が合った瞬間、
世界から一つだけ音が消えた。
クラスメイトの笑い声の“最も高い部分”だけが、突然なくなった。
空白ができたみたいに。
「……っ……!」
目をそらした。
再び廊下を見ると、いなかった。
消えたんじゃない。
はじめから存在していたのか分からなくなるような、そんな消え方だった。
◆
授業が始まり、社会の先生が黒板に書きながら言った。
「じゃあ次は、大和政権──」
「やまとせ」のところで、音が切れた。
静寂。
机のきしむ音も、紙がめくれる音も、先生のチョークの音も──全部止まっている。
数秒だけ、世界が息をやめたみたいだった。
黒板を見ていた俺は気づいた。
教室の中の“音が止まったことに気づいた生徒”は、全員同じ方向を見ている。
先生を、ではない。
先生の“ちょっと後ろ”。
黒板の右下の影のあたり。
そこに、黒い輪郭が揺れていた。
形を持たない“誰か”が、教室の壁からのぞき込んでいた。
にぃ。
笑った。
影だけのくせに。
次の瞬間、世界に音が戻る。
「──権について説明するぞ」
何事もなかったように授業が続く中でも、
俺の心臓はずっと早いリズムを刻んでいた。
◆
放課後。
校舎の裏にある古い非常階段の前で、俺は息を整えていた。
ポケットの中には父の書記。
嫌でも指がページの形を覚えてしまうほど読み込んでしまった。
あの書記の途中には、こんな言葉があった。
《同じ姿をした“もう一人”が出るのは、音の境界が薄くなった証拠》
“俺”に似た存在。
廊下の奥で静かに立っていた影。
あれは、境界が壊れ始めたサインだ。
父さんは、こうなる過程を全部知っていた。
だけど──どうして俺に黙っていたんだよ。
胸の奥に小さな怒りと、もっと大きな恐怖が残る。
夕暮れの風が吹いた。
その時──
階段の影が動いた。
黒い揺らぎが一つ、こちらをのぞいている。
「……また……お前かよ……」
声に出した。
今度は、自分の声がちゃんと聞こえた。
だけど影は、何も言わずに笑った。
そして、
俺の後ろに“もう一つの気配”が立った。
振り返る。
誰もいない──はずなのに、
白い残光が一瞬だけ見えた。
父の気配。
俺は息をのみ、階段の手すりを握り締める。
黒と白。
どっちが俺を呼んでるんだ。
もうすぐ、決定的に何かが始まる。
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