第5話 黒い影の囁きと、白い書記の真相へ
黒い影──黒い音住が、部屋の隅でにぃ、と笑っている。
動けない。
俺の喉は確かに震えているのに、耳には自分の声が戻ってこない。
まるで、音だけ異世界に吸い込まれたみたいに。
「……なんだよ、これ……」
震える唇からこぼれた言葉が、自分にだけ届いていない。
その代わりに、影の笑みだけは異様に鮮明だった。
影はゆらり、と立ち上がる。
形は人のようで人じゃない。
輪郭が、煙みたいにゆれている。
そいつが一歩近づくたび、部屋の空気が沈んでいく。
遠くで母が食器を動かす音がしているのに──その音だけが妙に遠い。
逆に、影の足音だけが“世界の中心”みたいに響いてくる。
音のバランスがおかしい。
これじゃあ──父さんの書記と同じじゃないか。
◆
影が俺の目の前に立った瞬間、首筋に冷たいものが触れた。
「……っ」
逃げなきゃ、と思った。
でも、足が鉛みたいに動かない。
影は俺の耳元まで顔を近づけて──
鼻で笑った。
音があるのか、ないのか、わからない。
ただ、笑った“気配”だけが肌を刺す。
……気配だけで笑うなよ。
その瞬間、影が俺の肩にそっと手を置いた。
指先が皮膚を通り抜けるような、冷たい感触。
その時。
──コン、コン。
部屋のドアがノックされた。
「【俺の名前】? どうしたの? 返事がないけど……大丈夫?」
母の声だ。
その声だけが、鮮やかに聞こえた。
黒い影が、ピタリと動きを止める。
ゆっくりと首をひねるように、影は視線だけドアの方へ向けた。
ドアの向こうで母が続ける。
「ご飯できてるわよ。冷めちゃうから、早く来なさいね」
俺は答えようとした。
声は……出るのか?
「……っ、……あ、ああ……」
微かに聞こえた。
自分の声が“戻ってきた”。
影が俺を見た。
ゆらりと揺れ、形が崩れ──そして、
すっと床に溶けるみたいに消えた。
黒い影の残り香だけが、部屋に漂っていた。
◆
母が階段を下りていく音を聞きながら、
俺は改めて机の上のノート──父の書記を手に取る。
ページをめくると、見落としていた行があった。
《黒いものは、“音を奪う側”。
白いものは、“音の境界に残る側”。
どちらも、完全に悪ではない……はずだ。》
白い……父さん。
黒い……今の影。
父さんは音住になって俺を守ろうとした?
じゃあ、黒い影は──俺を“向こう側”に引っ張ろうとしてる?
ページの端に、さらに小さく文字が書き込まれていた。
《【俺の名前】が“最初の違和感”を感じたら、すぐに気をつけろ。
それが……始まりだ》
最初の違和感。
あの朝。
廊下の奥で、俺と同じ制服、同じ背丈の“何か”が立っていた、あの瞬間。
あれは──合図だったのか。
胸の奥が冷える。
その時、部屋の隅がわずかに揺れた気がした。
黒か白かはわからない。
でも、誰かがそこに立っていたような気配だけが残っていた。
俺はゆっくりとページを閉じた。
書記の最後の行が、頭から離れない。
《向こう側に連れていかれる前に──誰かが気づかないといけない》
俺は、どうなるんだろう。
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次回、お楽しみに。




