第4話 夕暮れの影と、父の書記の断片
家に着くころには、空が薄い橙色に滲んでいた。
一日の終わりのはずなのに、胸の奥のざわつきはどんどん色を濃くしていく。
玄関を開けると、ふわりと夕飯の匂いが漂ってくる。
温かい匂いのはずなのに、どこか遠く感じられた。
「【俺の名前】! 帰ってきたの?」
台所から母の声がする。
聞こえる。
聞こえている……よな?
「ああ、ただいま」
返事をした瞬間、ほんの一拍だけ、自分の声が遅れて返ってきたように感じた。
まるで、耳の奥にだけ響く残響のような──あの、廊下の奥にいた“俺と同じ背丈の誰か”が真似をしたかのような気味の悪さ。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
靴を脱いで部屋に向かうと、母がふと声を掛けてきた。
「ねぇ、【俺の名前】。今日、なんかあった?」
「なんで?」
「顔がちょっと怖いよ」
怖いのは俺の方だよ……と喉まで出かけたが、飲み込む。
言えばきっと心配をかける。
「別に。疲れてるだけ」
「なら、ご飯できたら呼ぶから、それまで休んでなさい」
母は優しい声でそう言ってくれた。
なのに俺は、その「優しさ」が“本当に聞こえているのか”を無意識に確認していた。
──俺は今、何を疑ってるんだ?
自分でも分からなくなる。
◆
部屋に入ると、机の上に一冊のノートが置かれていた。
母の字で短くメモが貼られている。
「これ、お父さんの書記。見つかった分だけ、整理しておいたよ」
胸がぎゅっと締め付けられた。
父の書記なんて、まともに読む気になれなくて避けてきた。
けれど──手を伸ばしてしまう。
ノートを開くと、父の癖のある字が並んでいた。
最初のページにはこう書かれていた。
《特定の音が聞こえなくなった。たとえば、拍手の音。
目の前で叩かれても、空っぽの映像だけが届く。
まるで世界から、その音だけ切り取られたようだ》
ゾワッと背中を冷たいものが走る。
まるで今の俺じゃないか。
ページをめくる。
《次は、鳥の声が消えた。
耳鳴りでも難聴でもない。聞こえるものは普通に聞こえるのに、特定の“カテゴリー”だけ消えていく》
《これは病気じゃない。もっと、別の……》
そこで文字はひどく歪んでいて、読み取れなくなっていた。
インクがにじんでいるのか、父の手が震えていたのか──わからない。
さらにページをめくると、最後にこう記されていた。
《もしも、俺が“向こう側”へ行ってしまったら、
【俺の名前】にだけは……》
文は途中で終わっていた。
嫌な汗が首筋を伝う。
向こう側。
どこだよ、それ。
◆
「【俺の名前】! ご飯よー!」
母の声に呼ばれて、ノートを閉じる。
返事をしようとした瞬間──
喉が震えたのに、声が出ない。
いや、出ている。
出ている……はずなのに。
耳に返ってこない。
「……あれ? 俺の声が……」
息が詰まる。
父の書記の文章と同じ感覚。
じわりと足元が冷えていく。
「──にぃ」
部屋の隅で、黒い影が笑った。
音住。
黒いほうだ。
父の白い音住とは違う、敵意のある“普通の音住”。
にぃ、と、音があるのかないのかわからない奇妙な笑みだけが広がる。
息が止まった。
声の消えた部屋で、黒い影だけが、ひどく鮮明だった。
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