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第4話 夕暮れの影と、父の書記の断片

 家に着くころには、空が薄い橙色に滲んでいた。

 一日の終わりのはずなのに、胸の奥のざわつきはどんどん色を濃くしていく。


 玄関を開けると、ふわりと夕飯の匂いが漂ってくる。

 温かい匂いのはずなのに、どこか遠く感じられた。


「【俺の名前】! 帰ってきたの?」

 台所から母の声がする。


 聞こえる。

 聞こえている……よな?


「ああ、ただいま」


 返事をした瞬間、ほんの一拍だけ、自分の声が遅れて返ってきたように感じた。

 まるで、耳の奥にだけ響く残響のような──あの、廊下の奥にいた“俺と同じ背丈の誰か”が真似をしたかのような気味の悪さ。


 気のせいだ、と自分に言い聞かせる。


 靴を脱いで部屋に向かうと、母がふと声を掛けてきた。


「ねぇ、【俺の名前】。今日、なんかあった?」

「なんで?」

「顔がちょっと怖いよ」


 怖いのは俺の方だよ……と喉まで出かけたが、飲み込む。

 言えばきっと心配をかける。


「別に。疲れてるだけ」


「なら、ご飯できたら呼ぶから、それまで休んでなさい」


 母は優しい声でそう言ってくれた。

 なのに俺は、その「優しさ」が“本当に聞こえているのか”を無意識に確認していた。


 ──俺は今、何を疑ってるんだ?


 自分でも分からなくなる。



 部屋に入ると、机の上に一冊のノートが置かれていた。

 母の字で短くメモが貼られている。


「これ、お父さんの書記。見つかった分だけ、整理しておいたよ」


 胸がぎゅっと締め付けられた。

 父の書記なんて、まともに読む気になれなくて避けてきた。

 けれど──手を伸ばしてしまう。


 ノートを開くと、父の癖のある字が並んでいた。


 最初のページにはこう書かれていた。


《特定の音が聞こえなくなった。たとえば、拍手の音。

 目の前で叩かれても、空っぽの映像だけが届く。

 まるで世界から、その音だけ切り取られたようだ》


 ゾワッと背中を冷たいものが走る。


 まるで今の俺じゃないか。


 ページをめくる。


《次は、鳥の声が消えた。

 耳鳴りでも難聴でもない。聞こえるものは普通に聞こえるのに、特定の“カテゴリー”だけ消えていく》


《これは病気じゃない。もっと、別の……》


 そこで文字はひどく歪んでいて、読み取れなくなっていた。

 インクがにじんでいるのか、父の手が震えていたのか──わからない。


 さらにページをめくると、最後にこう記されていた。


《もしも、俺が“向こう側”へ行ってしまったら、

 【俺の名前】にだけは……》


 文は途中で終わっていた。


 嫌な汗が首筋を伝う。


 向こう側。

 どこだよ、それ。



 「【俺の名前】! ご飯よー!」


 母の声に呼ばれて、ノートを閉じる。

 返事をしようとした瞬間──


 喉が震えたのに、声が出ない。


 いや、出ている。

 出ている……はずなのに。


 耳に返ってこない。


「……あれ? 俺の声が……」


 息が詰まる。

 父の書記の文章と同じ感覚。

 じわりと足元が冷えていく。


「──にぃ」


 部屋の隅で、黒い影が笑った。


 音住。


 黒いほうだ。

 父の白い音住とは違う、敵意のある“普通の音住”。


 にぃ、と、音があるのかないのかわからない奇妙な笑みだけが広がる。


 息が止まった。


 声の消えた部屋で、黒い影だけが、ひどく鮮明だった。



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