第3話 削られていく日常
黒い音住が消えたあと、しばらく俺は動けなかった。
ベッドの端に座ったまま、ひざに両手を置き、震えが収まるのをただ待っていた。
(……本当に、見たんだよな)
あの、笑った影。
父の書記にあった“奴ら”。
そして、俺の声が途中で欠けた現象。
全部が綺麗に一列に並びはじめて、背中がじわりと冷たくなる。
「……寝よ」
そう呟いた俺の声は、かろうじて全部聞こえた。
それだけで妙に安心して、ようやく布団をかぶった。
しかし、その夜は眠りが浅かった。
夢と現実の境界が曖昧で、布団の外の暗がりがいつもより濃く見えた。
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翌朝。
キッチンから漂う匂いはいつも通りだったけれど——
「おはよう、【俺の名前】。早く食べちゃいなさい」
母の声は普通なのに、テーブルに皿が置かれる“コトッ”が聞こえない。
昨日より、消えている音が増えている。
歯を磨くときの“シャッ”も、
ローファーを履くときの“ギュッ”も、
玄関のドアを閉める“バタン”も。
聞こえない。
(……本当に、父さんと同じ道を辿ってるのか?)
胸の奥がざわつく。
落ち着かないまま学校へ向かった。
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教室に入ると、クラスメイトの話し声は普通に聞こえる。
笑い声も、雑談も、机を叩く手拍子も全部。
(俺の周りだけ、音が消えてる……?)
そう考えた瞬間、首の後ろがゾワッとした。
昨日見た黒い音住の笑顔が脳裏に蘇る。
まるで、俺の“音”を味わっているみたいな、あの不気味な笑み。
そのとき、横から声がした。
「【俺の名前】? なんか今日ぼーっとしてね?」
友達の声はしっかり聞こえる。
でも、その友達がイスを引く“ガタン”だけ聞こえない。
音が、選ばれて消えているようだった。
「いや……なんでもない」
そう誤魔化したが、心臓の鼓動が妙に早い。
この“変化”が、昨日の黒い影と関係していることは間違いないのに。
俺自身がその事実を受け入れたくなかった。
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昼休み。
ふいに、スマホの通知音が鳴らないのに気づいた。
(設定ミスか?)
そう思って画面を見るが、バイブの振動すら感じない。
試しに机を指でトントンと叩いてみても——
「……音、しない」
胸がギュッと縮む。
音が消えていく。
確実に、昨日より早いペースで。
父が書記に残した“虚空の段階”。
何も聞こえなくなる、その入口に、俺はもう立っているのかもしれない。
(——いやだ)
その瞬間、教室の窓の外が“カタ”と揺れたように見えた。
音はしなかった。
だが揺れた。
異様にゆっくりとした動き。
そして、窓の外の廊下の奥。
昨日、俺に似た誰かを見た場所。
そこに——誰かが立っていた。
制服姿。
背丈は俺とほぼ同じ。
顔は影になって見えない。
(……また、いる)
その“誰か”は、昨日よりもはっきりと形を持っていた。
なのに、廊下には何の足音も反響もない。
世界に溶け込んだ影のように、ただ、立っていた。
瞬きをしたらそいつは消えていた。
まるで幻のように。
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(これって……前兆なんじゃないか?)
父が“音が消えるほど奴らが近くなる”と書いていた。
俺の音は確実に奪われている。
そして昨日は黒い音住が現れた。
(じゃあ今日は……)
俺の背筋を冷たいものが駆け下りた。
——これは、まだ序章だ。
この先、もっと深い異常が来る。
その予感だけが、やけに確かな重さを持って胸に沈んでいた。
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