第2話 教室に落ちる沈黙
翌朝、目を覚ましたとき、胸の奥に薄いざらつきが残っていた。
昨日見た“俺に似た誰か”と、父の書記に残された理解不能な言葉。その両方が、寝起きの頭に薄く煙のように残っている。
階段を降りると、母が食卓に朝食を並べていた。
「おはよう、【俺の名前】。早く食べちゃいなさい」
母の声はちゃんと聞こえる。
それだけで少し安心した。
だが、味噌汁をすくう箸が器に触れた“カチッ”が聞こえない。
昨日と同じ違和感だ。
通学路では、車の走行音や犬の鳴き声、信号の電子音がいつも通り耳に入るのに。
“箸の音”だけ消えている。
(また……父さんの書記みたいに、音が欠けていくのか?)
胸がじりじりと焦げるようだった。
学校に着いて、昨日“俺のような誰か”が立っていた廊下の奥を見る。
今日は誰もいない。
ただ薄暗いだけの普通の廊下だ。
そう思いたかった。
教室に座り、社会の授業が始まる。
先生が黒板に「古代国家の成立」と書きながら説明を始めようとしたその瞬間——
「やまとせ――」
先生の発音が途中で切れた。
同時に、教室の一部の音が消える。
シャープペンの走る音が、ない。
教科書のページをめくる音が、ない。
俺自身の指が机を軽く叩く音も、消えた。
なのに、話し声だけは普通に聞こえる。
数人の生徒が違和感に気づいたように、同時に顔を上げた。
彼らの視線が黒板へ向かう。
その視線の先——
先生が、口を開いたまま固まっていた。
まるで、音の部分だけ世界から抜き取られたみたいだった。
「……先生?」
小さな声が聞こえた。
すると先生の止まっていた動きが急に再生されるように動きだし、
「——と呼ばれています」
何事もなかったように授業を再開した。
だけど、俺の脳裏には父の書記の一節が蘇っていた。
『最初は、小さな音から聞こえなくなる。
その次に、自分の出す音が消える。
音が減るほど、奴らが近くなる。』
放課後、俺は急いで帰宅し、部屋に駆け込み、ベッドに腰を下ろす。
その瞬間、自分の息の音が一瞬だけ“スッ”と消えていた。
「うわっ……!」
驚いて声を出した俺は、言葉の後半が途切れたのに気づき、顔をこわばらせる。
「……あれ? 俺の声が……」
そのときだった。
部屋の隅、光の当たらない場所がぐにゃりと歪む。
目を凝らすと——
黒い音住 が、そこに立っていた。
真っ黒な影のような身体。
人の形をしているくせに、輪郭が常に揺れている。
穴のような目がこちらを見て、ゆっくりと口を裂く。
——にぃ。
笑っている。
俺の声が欠けた瞬間を、まるで喜んでいるように。
黒い音住は、一歩、こちらに足を踏み出した。
その足音は、当然ながら聞こえなかった。
(父さんみたいに……俺も……?)
息が、喉の奥で止まりそうだった。
部屋の空気が冷たく沈み込んでいく。
黒い音住は、何も言わず、ただ俺の“音が消えていく瞬間”を見つめていた。




