第10話 黒い群れ、沈黙の檻
闇に足を踏み入れた瞬間、世界が本当に“途切れた”。
耳の奥にかすかに残っていた自分の鼓動すら消え、
呼吸の気配も、足音も、服がこすれる音も——何ひとつ、存在しない。
声を出そうと喉を震わせても、
空気の揺れがまるで生まれない。
音のない世界は、静かなんじゃない。
痛い。
自分という存在の境界が曖昧になって、
どこからどこまでが“俺”なのかわからなくなる。
足元の床に触れている感触だけが、かろうじて現実と繋ぐ唯一の手がかりだ。
前へ進む。
黒い闇の中、白い輪郭だけが淡く揺れている。
俺を誘うように、少し奥へ沈むように滑っていく。
その白い光の揺らめきは、人影のようでもあり、火の粉のようでもあり、
けれど何よりも——“あの人”を連想させた。
父さん……?
そう思った瞬間。
気配が爆ぜた。
視界の端。
壁から剥がれるように、床から滲むように、
“黒い影の塊”がぞろぞろと姿を現し始めた。
形は人のようで人じゃない。
輪郭は揺れ続け、煙のようにゆらゆらと揺れながら膨らんだり縮んだりしている。
音住。
そいつらは、俺の周りにゆっくりと集合していく。
足音がない。
呼吸の音も、擦れる音も、何も。
ただ、そこに“いる”。
ひとつ、またひとつ——
俺の周囲に集まり、円を描くように囲んでいく。
逃げ場は、ない。
息を飲む音すら生まれないから、
自分が息をしているのかどうかすら曖昧になる。
視界がかすかに白くにじむ。
パニックが、静かに喉まで這い上がってきた。
「……っ……あ……」
声は出ない。
出せない。
世界がそれを許していない。
音のない恐怖の中で、俺の頭は真っ白になった。
身体が震える。
膝が折れそうになる。
——ダメだ。
ここで恐怖に飲まれたら、俺は戻れない。
父さんも、きっとそうだった。
と、黒い影のひとつが突然、俺の目の前まで滑るように近づいた。
顔も、目も、口もない。
ただ黒い。
そのくせ、
“こちらを見ている”感覚だけは信じられないほど強烈に突き刺さった。
胸を掴まれたように呼吸が乱れる。
手の震えが止まらない。
世界がぐらりと揺れ、視界が暗く沈む。
このまま意識を手放したら終わる——そんな予感が本能にぶつかった。
耐えろ。耐えろ。耐えろ。
自分に言い聞かせても、音がないから“言い聞かせた感覚”さえ曖昧だ。
黒い音住たちは、無音のまま俺に近づいていく。
肩の横。
膝の横。
背中のすぐ後ろ。
触れてはいない。
でも、ただの一ミリも余裕がない距離まで。
音がないと、距離感すら狂う。
すぐ隣にいるのか、先ほどの位置にいるのか、感覚がバグる。
——怖い。
本当に怖い。
その時だった。
白い光が、奥から差した。
暗闇に糸を刺すような細い光。
けれどそのひとかけらだけで、黒い影がびくりと震えた。
影たちが、少しずつ退いていく。
まるで光を嫌がるように、地面へ溶けるように後ずさりしていく。
白い輪郭が近づいてくる。
俺の胸の奥で、何かが強く跳ねた。
——父さん?
名前を心の中で呼ぶ。
声にはならないけれど、白い輪郭は確かに反応した。
ゆっくりと、俺のすぐ近くまで来て、
黒い音住たちをすべて押し戻すように広がっていく。
白い光は柔らかいが、強い。
黒を押しのけ、空間を少しだけ安全にしてくれた。
俺は震える膝を押さえつけ、ようやく立ち上がる。
白い光が、まるで
「こっちへ来い」
とでも言うように奥へ揺れた。
その先には、
微かに光を持つ“扉”が見える。
——あの扉を開けろ、と?
父さんの気配が、確かにそう告げていた。
俺は深く息を吸ったつもりになる。
音はないけど、胸の動きでそれを確認した。
そして、
白い音住に導かれるまま、
黒い静寂の中を一歩、また一歩と進んでいった。
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