第1話 静かな朝、廊下の奥に立つ影
※音住とは、「ねずみ」と読みます。
朝の光が、部屋のカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
俺は布団の上でしばらくぼんやりしていた。いつもと同じ朝――のはずなのに、胸の奥に小さなざらつきがあった。理由は分からない。ただ、息を吸い込んだ時の空気の重さが、微妙に違う。
「おはよう、【俺の名前】。早く食べちゃいなさい」
階下から母さんの声がした。いつも通りの優しい声だ。
けれど、その声の“後ろ”に、妙な静寂が張り付いているように感じた。
着替えを済ませ、階段を降りる前に、ふと廊下の奥を見た。
そこに“俺”が立っていた。
同じ制服。
同じ背丈。
下を向いた横顔まで、俺と同じ。
でも、信じられないほど静かだった。
足音がしない。
呼吸音すらない。
その“俺”の輪郭が、空気の中で少しだけ揺らめいて見えた。
まばたきをした瞬間、そいつはすっと溶けるように消えた。
「……は?」
俺は自分の足元を見た。
震えている。
意味が分からなかった。
寝起きの幻覚だ、と言い聞かせたが、心臓の脈だけは嘘をついていない。
階段を降りると、母さんがテーブルに朝ごはんを置いていた。
「顔色悪いよ?大丈夫?」
「……夢、かな。なんでもないよ」
自分でも驚くほど平静を装っていた。
けれど、さっきの影が頭から離れない。
“俺の形をした、音のない何か”。
それだけが、くっきりと残っていた。
学校へ向かう道も、どこか違和感が付きまとった。
風の音、車の音、遠くで鳴く鳥の声。
すべて聞こえている。でも――
(……時々だけ、音が欠ける)
歩道を横切るとき、靴がアスファルトを踏む音が、一瞬だけ消えた。
その瞬間、鼓膜の奥がきゅっと縮む。
振り返る。誰もいない。
「……また、か」
まるで俺の日常の中に、
“音の抜け落ちた穴”がぽつぽつ開き始めているようだった。
学校が見えてきた時、妙な安心感があった。
チャイムの音も聞こえる。人の声も普通だ。
(さっきのも、気のせい……でいいよな)
そう思いたかった。
けれど、この日の違和感は、まだ“序章”に過ぎなかった。




