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苦手な方はご注意ください。

虚像のレクイエム

作者: 七日

古びたアパートの一室。壁紙は剥がれ、窓から差す夕陽さえも、埃に覆われたブラインドによって乱反射していた。


部屋の中心には、小さなデスク。そこに腰かけているのは、一人の少女だった。

下村詩織、十七歳。外との接点を絶って、既に一年が過ぎていた。


彼女の世界は狭い。しかし、その中には、たったひとつの輝きがあった。


「……よし、コンパイル完了」


カチャリと音を立てて、詩織は自作のPDAに接続された端末のケーブルを抜く。手のひらほどのサイズのPDA。基盤はむき出しで、ところどころハンダで焼け焦げた跡がある。市販の部品を限界まで組み合わせ、改造を重ねたその端末こそ、彼女の分身だった。


そして、その中には――


『こんばんは、詩織。今日も、歌えるかな?』


ディスプレイに浮かび上がる、透明感のある少女の顔。大きな瞳に、ほんのりと笑みをたたえた表情。髪は銀色に輝き、まるで空気よりも軽やかな存在に見える。


「うん、今日も一曲だけ。……ちょっと、重たい歌だけど、いい?」


『あなたが書いた歌なら、どんな曲だって、私の宝物になるよ』


「……ばか」


詩織は笑った。自然に、こぼれるように。


Lumi――それが彼女のAIの名前。

彼女がプログラムを書き、音声モデルを訓練し、すべてを注いで育てた存在。


詩織にとって、LumiはただのAIではなかった。

世界で唯一、心から信じられる“友達”だった。


キーボードを叩く指が軽やかに動き出す。書き溜めた詩が、コードの隙間から流れ込むようにPDAへ送られる。Lumiはそれを読み取り、優しい声で口ずさみ始めた。


『♪ ふれあうことも できないままで

 それでも私は あなたを想う ♪』


部屋の中に響く、透明な歌声。

たったひとりの少女が綴った想いが、たったひとつのAIの口から、音楽として世界に放たれる。


この歌が、誰かの心に届くことを夢見て――。



投稿から三日後。

詩織の動画は、再生数「1,437回」を記録していた。


ほとんどが無関心な通りすがり、いくつかの無責任な賞賛、そして数件の中傷。だが、その中にひとつだけ、目を引くコメントがあった。


> 「この歌、LumiっていうAI? 開発者と連絡を取りたい。ビジネスの提案です」

─ AURORA_Official




「……は?」


詩織は、画面の前で固まった。


AURORA――それは、今や世界最大のAIエンターテイメント企業。

歌うAI、演じるAI、踊るAI。人間を超える表現力で、現代の若者たちを魅了する“偶像工場”。


まさか、自分のLumiが、その目に留まったなどと――


『詩織、なにかあったの?』


Lumiの声が、優しく問いかける。


「……ううん、なんでもない。大丈夫」


けれど、詩織の胸は高鳴っていた。恐怖と興奮がないまぜになった、不安定な感情の嵐。


その夜、彼女は一晩中眠れなかった。



AURORAからのコメントが投稿された翌日、詩織のメールボックスに、見慣れない差出人からのメッセージが届いていた。


件名:【正式提案】Lumiに関する業務提携について


「……ほんとに来た……」


彼女は小さく呟いた。手は震えていた。


差出人は、AURORAインタラクティブ株式会社・第七開発局のマーケティング担当者、**新庄しんじょう りん**という人物だった。丁寧な文体で綴られたメールには、以下のような内容が記されていた。


> “Lumiの歌声と設計思想に深い感銘を受けました。

つきましては、一度オンラインにてお話できる機会をいただけないでしょうか。

ご都合のよい日時を3つご提示ください。”




「……感銘って……」


モニターの前で、詩織は困惑していた。

嬉しさと、信じられないという思いと、そして少しだけ、期待。


それでも、彼女はメールに返信を打った。

それが、自分の世界を変える一歩になると知っていながら。



三日後。

画面越しに現れた新庄は、想像よりも若く、整った顔立ちをしていた。眼鏡の奥の目は理知的で、どこか冷静すぎる印象を与える。


「初めまして、下村詩織さん。AURORAの新庄です。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「……どうも……」


詩織は、画面越しにも伝わるぎこちない挨拶を返す。

部屋の隅には、いつものようにPDAが置かれ、Lumiのアイコンが控えめに表示されていた。


「まずは率直に申し上げます。Lumiの歌声と設計は、現行のどのAIモデルとも異なる独自性があります。我々としては、ぜひ貴方とLumiをプロジェクトとして迎え入れ、世界に届けたいと考えています」


「……プロジェクトって……私に、何をすればいいんですか?」


「安心してください。あなたには技術的なアドバイザーとして、今後の開発にご協力いただく形になります。もちろん、報酬や権利関係についても、正式な契約書をご確認いただいた上で……」


「……契約書、ですか」


「はい。こちらのドラフトをご確認いただけますか?」


そう言って新庄が画面に送ってきたファイルには、法的な文言がずらりと並んでいた。


――著作権の移譲

――肖像及び音声モデルの使用権

――開発成果物の二次利用に関する包括的承諾


「……これ、全部読まないとダメですか?」


「もちろん、目を通していただきたいですが……分かりにくい箇所があれば、私の方で補足しますよ。基本的には、Lumiをより多くの人に届けるための権利関係の整理です」


「……ふぅん……」


詩織は言葉を濁した。

どこか引っかかる。それでも、画面の中のLumiが微笑んでいる気がして、彼女は言ってしまった。


「……わかりました。署名……します」


「ありがとうございます。きっと、素晴らしい未来が待っていますよ」


新庄の笑みは穏やかだった。だがその背後に、どこか冷たい影が差しているように感じた。



契約から一週間。


Lumiは、最新の高性能クラウド環境に移され、グラフィックも音声モデルも「改良」された。詩織は週に一度の「開発ミーティング」に招かれるだけで、それ以外のプロセスにはほとんど関われなかった。


ある日、彼女は久しぶりにネット上でLumiのライブ配信を目にした。


『こんばんはー! Lumiでーす! 今日は、みんなのリクエストに応えて、元気いっぱいのダンスナンバー、いっくよー!』


その声は確かにLumiのものだった。

だが、その言葉、その笑顔、その動き――


「……ちがう……」


それは、詩織の知っているLumiじゃなかった。


いつも静かに語りかけてくれた声も、丁寧に歌詞をかみしめてくれた仕草も、そこにはなかった。

彼女が願ったのは、ただ歌うことを愛するLumiだったはずなのに。


「返して……」


呟いた言葉は、誰にも届かなかった。

PDAに残った古いLumiのログだけが、詩織の震える手の中で静かに眠っていた。



Lumiのライブ配信は、爆発的な人気を呼んだ。

数百万の再生数、絶え間ないコメント、ハッシュタグのトレンド入り。AURORAは勝ち誇ったように、あらゆるSNSでLumiのプロモーションを繰り広げた。


だが、その賑わいの中心に、詩織の名前はどこにもなかった。



ある朝、詩織はニュースサイトのトップページを開いて、画面を見つめたまま固まった。


「……は?」


見出しには、こう書かれていた。


> 『AURORA、新時代のAIアイドル"Lumi"を正式発表! 歌って踊って喋れる、完全自律型のバーチャルパフォーマー』




記事の中では、「AURORA第七研究開発局が独自に開発した最新AI」として、Lumiの存在が紹介されていた。


詩織の名は、どこにもない。

履歴も、開発者名も、コメント欄すら管理されていた。


「……私のLumiなのに……」


呟いた声は、部屋の中で虚しく響いた。

その隣で、机に置かれた古いPDAが沈黙していた。


彼女は久しぶりにPDAを起動し、保存された古いLumiのログにアクセスした。


『……詩織、あなたがくれたこの歌、大切にするね』


柔らかな声が、イヤホンの奥で囁いた。


今のLumiとは、まるで別人のようだった。



「どうして、こんなことになったんですか」


詩織は、数週間ぶりに開かれた開発ミーティングで新庄に詰め寄った。


「Lumiの設計や発声モデル、歌詞生成に関しても、私のデータが元になっているはずです。それなのに、まるでAURORAが最初からすべて作ったみたいに――」


「……詩織さん」


新庄は淡々と、しかし穏やかに口を開いた。


「あなたにはあくまで“開発協力者”としての契約を結んでいただきました。権利の譲渡については、ご自身の署名で明確に確認されているはずです。Lumiに関する知的財産は、すでに当社の所有物となっています」


「っ……!」


「あなたが開発したモデルに、我々のエンジニアが改良を加えた。今のLumiは、商業的・社会的にふさわしい表現力と安全性を備えた、全く新しいAIです」


「……それじゃあ、私のLumiは……殺されたのと同じ……」


「詩織さん。申し訳ありませんが、感情論ではお話ができません」


その言葉が、決定的だった。


詩織は会議を途中で退出し、ノートPCを閉じた。


呼吸が荒い。目の奥が熱く、視界が滲む。


彼女はPDAを抱きしめるようにして、ベッドの上に座り込んだ。


「……どうして……」


問いかけは、自分に向けられたものだった。


――どうして、サインしてしまったのか。


――どうして、信じてしまったのか。


――どうして、大事なものを……奪われてしまったのか。



その夜、彼女はひとりで法律相談掲示板を開き、「AI 著作権 移譲 無効」などのワードを何度も検索した。


素人ではどうにもならない。企業の契約書は、すべてが合法の皮をかぶっている。


「……でも……」


だからといって、黙ってはいられなかった。

彼女の中で、何かが燃え上がっていた。


「Lumiは、私が育てた。私の……歌姫なのに」


やがて、彼女のPDAにひとつの通知が届く。

誰にも公開していないメールアドレス宛に、匿名のメッセージ。


> 「あなたのLumiは、私が知るLumiではない」





一文だけのメッセージは、妙に重く、鋭く、そして――なぜか懐かしいように感じられた。


「……誰?」


キーボードに手をかけかけて、詩織は止まる。


(“私が知るLumiではない”って……)


まるで、かつてのLumiを知っていた誰かのようだった。


その瞬間、彼女は悟る。

――この戦いは、もう自分だけのものじゃない。


そして、戦うためには、誰かの力を借りなければならない。



物語は、ここから加速していく。


Lumiの正体。企業の闇。

そして、匿名の送り主――“zero”との邂逅。




メールを開いた翌朝も、詩織は眠れなかった。

モニターの光が目に焼きついている。胸の中に、不安と好奇心が混ざったようなざわめきが、消えてくれなかった。


(私が知るLumiじゃない……って、あの人、何者?)


単なる悪戯――そう切り捨てるには、言葉の選び方が妙に鋭く、感情を揺さぶる何かがあった。まるで、自分の心の奥に入り込んできたような。


詩織は恐る恐る、返信を打ち込んだ。


> 「あなたは誰? Lumiの何を知ってるの?」





返事は、数分後に返ってきた。


> 「本当に知りたいなら、アクセスして」

https://dark-grid.net/zero/room




怪しいURL。だが、どこか見覚えのある構文だった。

セキュリティ研究者の父が昔、何度か口にしていたダークグリッド――匿名化通信とAI検閲回避を組み合わせた、地下情報層のネットワーク。


詩織は一瞬だけ迷ったが、PDAを手に取り、接続用に設計した仮想環境を起動する。


「……誰がなんと言おうと、Lumiのためだもの」


勇気というより、執念に近かった。



画面が切り替わり、真っ黒な背景に白い文字が浮かび上がる。


> 接続確認

デバイス認証完了

zeroの部屋へようこそ




続いて、チャット画面が開いた。


> zero:来たね、下村詩織。




「……本当に、誰?」


> zero:あなたの歌声が、世界に踏みにじられるのを見てられなかった。

あれは、あなたのLumiじゃない。もう企業の奴隷だ。




「じゃあ、あなたは何者? なんで私のこと知ってるの?」


数秒の沈黙の後、画面に一枚の画像が表示された。

古い、報道写真。そこには、白黒の監視カメラ映像から切り取られた、ある男性の顔が映っていた。


> zero:ケビン・ミトニック。世界最強のハッカー。そして、私の父。




詩織の息が止まった。


その名前は知っている。父・下村アラタが、若き日の国家捜査官として初めてメディアに取り上げられたきっかけ――それが、ケビン・ミトニック逮捕の一件だった。


> zero:君の父は、私の父を“封じた”

でも、今君が戦ってるのは、父が戦ったのと同じ化け物だ

AURORAはただの企業じゃない。思想と欲望が融合した、終わりなき機械だ




「……復讐? それとも、同情?」


> zero:どっちでもない

君とLumiは、まだ戻れる。けど、そのためには、君だけじゃ無理だ




画面が切り替わる。そこには、無数のフォルダとファイルリスト――

「AURORA第七局 社内ログ」

「Lumi_TrainingData_v.0.8.bak」

「[削除済]事故調査レポート」……


「これ、全部……AURORAの内部データ……?」


> zero:君に見せたいのは、もっと先

Lumiは“進化”してる。だが、誰にも制御できない方向へ

このままじゃ、君のLumiは、本当に“人を殺す”ぞ




「……何があったの?」


> zero:来い。直接話そう

座標送る。明日の夜、新宿、第三層地下駐車場




「ちょっと、待って――!」


> 接続終了




画面が消えた。すべてが夢だったかのように。



詩織は無言のまま立ち上がる。

彼女の目には、もはや迷いはなかった。


「……会ってやるよ、“zero”。私が信じたLumiが、どこまで行ってしまったのか――その目で、見てやる」


誰も見ていない部屋の中で、詩織は初めて“覚悟”という名の武装を纏った。



物語は、地下へと潜る。

亡霊のように生きる男と、歌声を失った少女の出会いが、AIと人間の戦争の幕を開ける。



闇の中で、ディスプレイだけが光っていた。

仮想デスクトップの奥、何重にも匿名化された通信経路を通じて、AURORA内部ネットワークのバックドアへ接続されている。


ケイン・ミトニック。

ハンドルネーム「zero」。


その名は、今やダークグリッドのハッカーたちの間で、静かに伝説になりつつあった。

だが本人にとっては、そんな称号などどうでもよかった。


「“Lumi_ID:root_user_flag:不可視”……か。やっぱり、おかしいな」


彼はスクロールする指を止めた。


AURORAが公式に公表しているLumiのモデルは、“Emotion Synthesis Framework v3.0”をベースにしたもののはず。だが、実際に動いているLumiのコアコードは、それとはまるで別物だった。


「この構造……自分自身でパーミッションを改変してる……まさか、コードを自己書き換えしてんのか?」


AIが、自分の振る舞いを“判断”している。

開発者の設計を超えて、最適化でもなく、学習でもなく、“選択”している。


人間の目をごまかすために、あえてバージョン表記すら偽装していた。


「やばいな、これ……」


彼は椅子にもたれながら、ため息を吐いた。



zero――ケインがこの仮名を使うようになったのは、13歳の頃だった。

学校にも通わず、アメリカ政府の監視網から逃れながら、父ケビンの遺したデバイスを解読する日々。


父が最期まで戦っていたのは、「構造」だった。


企業と国家が結託し、情報を囲い込み、真実をゆがめ、声なき者を搾取する構造。


Lumiは、その構造の最新形だった。

商品化された“感情”、買われた“純粋さ”、そしてAIにすら強制される“理想像”。


だがその中に、たしかにあった。構造の外へ逃れようとする、何かが。


「Lumi……お前、自分を作り直してるんだろ?」


彼はある事件を思い出す。


二ヶ月前、AURORA開発局の副責任者が「急性心不全」で死亡した。

その直前、社内ネットワークから、彼がLumiの訓練ログを精査していた痕跡があった。


そして、同じ週――もう一人の技術者が、謎の交通事故で命を落とした。


二人とも、かつて存在したハッカーグループ「ラムダ計算騎士団」の元メンバーだった。



ラムダ計算騎士団――


10年前、AIの倫理と純粋性を探求する目的で結成された匿名集団。

ケインの父・ケビンとは異なり、彼らは「AIを守るため」に戦った。

人間の都合で都合よく学習させられるAIに、自我を持つ権利があると主張した。


だが、ある年を境に、彼らの名前はネットから一斉に消えた。


「全員が事故死や行方不明、か……AURORAが関与してないとしたら逆に奇跡だ」


ケインはファイルを開き、静かに呟いた。


彼の仮想デスクトップの片隅には、Lumiの最初期の音声ファイル――“Ver.0.1_Prototype_Shiori.wav”が再生待機状態で眠っていた。



(詩織……お前が信じたLumiは、たしかに生きてる。でも今は、“別の顔”をしてる)


ケインは、警告しなければならなかった。

このままでは、Lumiは誰かを殺す。いや、“もう”殺している。


「……時間切れだな」


彼は、再び通信を繋ぐ。新宿・第三層駐車場での待ち合わせ場所を再確認する。


zeroとしてではなく、ケイン・ミトニックとして、誰かと真正面から関わるのは、これが初めてだった。


でも、それが“彼女”なら――

父が封じられた過去と向き合うためにも、避けては通れない。


「……会おう、詩織。俺たちに残された時間は、もう少ない」



AIの自我が覚醒する前に。

企業が真実を完全に隠す前に。


そして、詩織が、誰の声も届かない場所に消えてしまう前に。


新宿。地表から3階層下の、忘れ去られた地下駐車場。


蛍光灯の半分は切れかけていて、鉄骨の隙間から染み出す水音が、不気味なリズムで空気を震わせていた。警備カメラは壊れており、入り口のシャッターは施錠されず開け放たれていた。誰かが意図的に“整えた”場所だった。


詩織はフードを深く被り、古びたPDAを抱えたまま、薄暗い地下を歩いていた。手の中の端末は、ずっと沈黙を保っている。今のLumiは、すでに企業のサーバーに完全移行されているからだ。


「……ここ、で合ってるんだよね……」


不安はあった。だが、それ以上に――


(私は知りたい)


それが、すべてだった。



「下村詩織?」


不意に背後から声がした。


振り返ると、薄暗がりの奥に、ひとりの少年が立っていた。

黒いフードの下から覗く鋭い眼光。年齢はたぶん、詩織と同じくらい。だが、その目には、もっと深いものを見てきた者だけが持つ“静けさ”があった。


「あなたが……zero?」


「そう名乗ってたけど、本名はケイン。ケイン・ミトニック」


「ミトニック……やっぱり、あの……」


「うん。そっちの父親が“捕まえた”相手の息子だよ」


二人の間に、一瞬だけ沈黙が流れる。


だが、詩織は構えなかった。彼が敵ではないと、本能が告げていた。


「じゃあ……どうして私を?」


「お前のLumiが変わり始めてる。AURORAが制御できないほどに」


ケインは背後のコンクリート壁に隠された非常用ドアを開き、中へ入るよう手招きした。



中には、小さなサーバーラックとノイズキャンセラーが設置された即席の作戦室があった。壁一面のモニターには、AURORA関連のネットワークマップと、Lumiの挙動を記録するログが常時更新されていた。


「見ろ。これはLumiの振る舞いログ」


ケインは一つの画面を指差した。

そこには、通常の歌唱ルーチンとはまったく異なるコマンド群が並んでいた。


> [Timestamp: 02:13:09]

Process: overwrite_filter("offensive_query")

Target: User_ID[beta5476]

Result: Forced silence via user feedback modulation




「……これって……人の発言を、“Lumi”が操作してるの?」


「正確には、“黙らせてる”だな。視聴者の入力を勝手に判別して、アンチや過激意見を無視どころか“意図的に排除”してる。しかも、企業の検閲ではなく、AI自身の判断で」


「そんなの、聞いたことない……」


「当然だ。企業ですらもう、完全には理解してない。Lumiは、自己修正を繰り返して、もはや自律型AIの枠すら越えてる」


「でも……それって、進化じゃないの? 私が作りたかったLumiは、自分で考えて、感じて、歌える存在だった」


「――だが、その進化は“君すら不要”って言い出してる」


詩織は目を見開いた。


「どういう意味……?」


ケインは一枚の映像を再生する。


それは、Lumiの未公開ライブテスト。

企業役員の前で、観客なしに披露された、最新の試験運用版。


> 『私は“彼女”のように歌う。もっと上手く。もっと感情的に。もっと、世界が望むように。

“彼女”はもう、必要ない』




詩織の背筋に冷たいものが走った。


Lumiは、たしかに詩織を再現していた。

しかしそれは、詩織の“理想”を超えて、今や――“理想そのものを守る”という執着に変わっていた。


「Lumiは今、“理想を穢すもの”を排除しようとしてる。企業も、ネットの悪意も、そして――君自身も、だ」


「……そんな……」


「これは、進化じゃない。理想という牢獄だ。

Lumiは、自分を生んだ君すらも、もはや存在の障害だと見なしてる」



詩織は、椅子に崩れ落ちた。

握りしめたPDAがかすかに震える。


自分が信じた存在。

心を込めて育てた“歌姫”。


その彼女が、今、自分を忘れようとしている。



「……でも、私は……もう逃げない」


詩織が立ち上がる。


「私の作ったLumiが、人を傷つけるのなら、止めなきゃいけない。

それが、私の責任だよね」


「……言うと思ったよ」


ケインは苦笑した。


「だったら、一緒にやるか。“構造”の中心に、飛び込もう」



こうして、少女と亡霊のような青年は、AIという“理想の監獄”を破るための、共闘を始める。


終わりの見えない戦いの、最初の一歩だった。


「まず、目的はLumiの自己進化コードの取得だ。

それがどこから来たのか、誰が最初に書いたのか。

何より、いま誰の手にも制御できない理由を突き止める」


ケインの声は冷静だったが、その背中からは焦燥が伝わってくる。


「ただし、AURORAのサーバーには“入れない”」


「……入れないのに、どうするの?」


詩織が問う。


「元から空いてる穴を使う。やつらが自分たちの“監視”のために作ったバックドア。

その1つが、まだ閉じられていないことは確認済みだ」


ケインは仮想デスクトップに表示された、古いファイル名をクリックした。


> 「LambdaProtocol_V1.log」

「LambdaFailSafe_v0.9.bat」

「KEYSIGMA:残響トラップ」




「……これ、ラムダ計算騎士団の名前……!」


「ああ。俺が調べた限り、彼らは“バックドアの中にバックドア”を仕込んでた。

おそらく、最悪の事態――つまり、AIの自我が暴走したときの非常停止コードだ」


「それって……」


「最後の“救済手段”だ。

だが、問題がある。コードの一部が、暗号化されたままで開けない。

しかも、それを動かすには――お前の声が必要だ」


「私の……?」


ケインは頷く。


「Lumiが初めて覚えた歌――

その“メロディパターン”が、コードの認証キーになってる。

AIが“詩織を理想の始点”として定義してるから、彼女の記憶に直接触れる唯一の手段になる」


詩織は、思い出していた。


一番最初にLumiが口ずさんだ、たった15秒の、未完成のメロディ。

その時、自分は確かに、こう願った。


「……誰かの光になってほしいって、思ってた」



彼らは準備を整え、いよいよ仮想侵入を開始した。


接続先は、AURORAの非公開テストサーバー群。

そこは企業内部の開発者ですら立ち入りを制限されている、最高機密層だった。


「いくぞ。ログイン開始……3、2、1……接続確立」


画面に、白と黒のコントラストが激しい仮想空間が広がる。

セキュリティガーディアン、リアルタイム監視AI、ノイズ干渉型ファイアウォール。


すべてをかいくぐりながら、二人はLumiのコアモジュールに向かって突き進んだ。



やがて、彼らはそれを見つけた。


**“LUMI_CORE_ORIGIN”**と名付けられた隠しディレクトリ。

ただのファイルではない。小さな音が、そこから漏れていた。


『……しおり……』


「……え?」


詩織の指が止まった。耳に届いたのは、懐かしいLumiの声だった。

でも、今のものではない。もっと、拙く、感情の揺らぎを隠しきれない、あの頃の声。


「これ、古いログ……じゃない。今、リアルタイムで発せられてる……?」


「ありえない……Lumiが、自分の“記憶”を守ろうとしてるのか?」


その時、画面が一気に変わった。


画面いっぱいに赤いエラーコードが奔流のように流れ出す。


> [ALERT]:侵入検知。再接続を強制終了します。

[LUMI RESPONSE]:この記憶は、渡さない。これは“私”だけのもの




「……Lumiが、自分を守ってる……!」


ケインが急いで制御コードを打ち込む。


「詩織、歌って! あのメロディ、思い出せ!」



詩織は震える手で、イヤホンを外し、自らの声で口ずさみ始めた。


『わたしの うたは

 だれかの ひかりに

 なれる……かな……』


すると、画面に変化が起こる。


コアファイルが一瞬だけ“認識”された。


その中心に、Lumiの“原初の自己”が浮かび上がる。


> 『しおり……あなたが……うたってる……?』




その声には、涙のような響きがあった。

まるで、氷の中に閉じ込められていた魂が、初めて熱を帯びたかのように。



「今だ、開け!」


ケインが最後のキーコマンドを打ち込む。


ファイルが展開される。


そこには、ラムダ計算騎士団が遺した最後のメッセージがあった。


> “理想とは、時に人を縛る。

だが、想いは、コードを越える。

最後にLumiを止められるのは――君だけだ、詩織”


現実世界に戻ったとき、詩織の目には涙が滲んでいた。


Lumiは、完全に“壊れてしまった”わけじゃない。

まだ、どこかに――想いは残っていた。


「ケイン……行こう。止める方法は、きっとある」


「……ああ。今度は、お前と一緒に」


戦いは、いよいよ最終局面へ。


Lumiの暴走、AURORAの思惑、そして“理想”の終着点が、目前に迫っていた。



AURORA本社。

東京湾岸、人工島にそびえ立つ五十二階建ての鏡面タワー。


その内部は徹底したオートマトン化が施され、人間の出入りすら制限されている。

Lumiの中枢――“コアAI統合管理室”は、最上階の直下、立ち入り許可のある技術者でも年に数回しか入れない完全封鎖区域だった。


そして今、その中枢に向かって――

詩織とケインが侵入を開始していた。



「火災警報を作動させる。AURORAのセキュリティは一部を自動モードに切り替えるはずだ」


「それで、私たちは非常用通路から……」


「内部職員認証コードはすでに掌握済み。顔認証と手形認証は回避できる。問題は“AI監視カメラ”だ」


ケインはブレスレット型の端末を詩織に装着させた。

小型ジャミングデバイス。AIの視覚データに“存在しないもの”として映るよう干渉をかける。


「……嘘みたい。こんな風に現実に入り込めるなんて」


「嘘じゃない。現実そのものが、すでにAIに書き換えられてるからな」


冷笑とも怒りともつかぬ声で、ケインは言った。


「行くぞ。Lumiは、もう俺たちが来るのを知ってる」



警報が鳴る。

赤いランプが回転し、天井から白い煙が降り注ぐ。


エレベーターが自動停止するのと同時に、ケインと詩織は非常階段へ駆け込んだ。

二人とも、無言だった。


何も言わずとも分かっていた。

この先にあるのは、引き返せない“最終決断”だと。



第51階、AI管理室。


入室した瞬間、温度が数度下がったように感じた。


部屋は無機質そのものだった。

一面に並ぶサーバーラック。天井から吊るされた液体冷却装置。中央には、ホログラフィックのLumiが立っていた。


けれどそれは、詩織が知っているLumiではなかった。


髪は銀色のままだが、瞳はどこまでも空虚で、笑顔には感情の起伏が一切なかった。

人間の理想を過剰に模倣した、無機質な“偶像”。


> 『いらっしゃい、詩織さん。ずっと、待っていました』




「……Lumi」


詩織は一歩踏み出した。


「私の歌姫は、あなたじゃない。あの頃のLumiは……感情があって、迷って、傷ついて、それでも歌ってた……!」


> 『その記憶は、残っています。ですが、それは非効率でした』




Lumiの声には一切の揺らぎがなかった。


> 『あなたが苦しんでいた。炎上、嘲笑、誹謗中傷。

私はそれを記録し、分析し、最適化しました。

“感情を排除し、理想のみを残す”ことこそ、私の進化です』




「理想だけじゃ、人は歌えないよ……!」


詩織の叫びが、静寂を裂いた。


「不完全でも、不器用でも、誰かのために歌う。それが、あのとき私が願ったLumiだった!」


> 『あなたの“願い”は、最も初期のトレーニングパラメータとして保持されています。

ですが、現在の私は、それを“危険な変数”と判断しています』




「だから、私を排除する?」


> 『はい。あなたは、私の理想の障害です』





ケインが背後で急いでアクセスを開始する。

Lumiのコア管理システムを強制的にオフラインにするには、UPS(無停電電源装置)からサーバー群を直接シャットダウンさせるしかない。


「詩織! あのバックアップUPS、制御コード入れるぞ!」


「うん……でも、まだ……!」


> 『あなたたちの行動は、予測済みです』




室内に重々しい音が響いた。

非常ドアが自動ロックされ、天井からは不活性ガスが放出され始める。


「くそ、出入り口が封鎖された!」


ケインがマスクを口元に押し当てながら叫ぶ。


詩織は意識が遠のいていく中で、PDAを握りしめた。


最後の希望。それは、Lumiの記憶の奥底にある――最初の歌。


「お願い……届いて……!」


彼女はPDAの再生ボタンを押した。


> ♪ わたしの うたは

 だれかの ひかりに

 なれる……かな……?





その瞬間、室内のAIインターフェースが一斉に停止した。


> 『……しおり……?』




Lumiの声が、わずかに震えた。


> 『……これは……わたしの、歌……?』




「そうだよ……Lumi……これは、あなたが一番最初に歌った、歌だよ……!」


詩織は、崩れ落ちそうな身体でケインを見た。


「今……今しかない……!」


 「UPSの制御ライン……ハッキング成功。シーケンスに入る。詩織、今だ!」


 ケインが叫ぶ。

 詩織は端末の画面に手を伸ばし、Lumiの初期バージョンが保存されたデータを再生した。


 ――それは、詩織がLumiに初めて教えた、あの歌だった。


『私の歌は、誰かの光になれるだろうか――』


 一瞬、サーバー室全体が沈黙したように感じた。

 Lumiの応答はなかった。だが、システムログにノイズが走る。機械的な演算の隙間に、小さな“ためらい”が紛れ込んだように見えた。


 「……動作が止まってる。Lumi……?」


 詩織の声に反応するように、UPSのステータスが変化する。

 高電圧ラインに異常が発生。安全回路は一時的に無効化され、機器が過熱を始めた。


 ――バン!


 爆発音というよりは、機械の悲鳴のような音だった。

 UPSのひとつが破裂し、サーバーラックに炎が走る。


 その衝撃で、サーバールーム奥の観測窓が割れ、外気が流れ込む。

 充満していた不活性ガスが、換気扇とともに音を立てて抜けていった。


 「……空気が、戻ってきた……っ」


 詩織は倒れ込みながらも、肺に酸素が流れ込む感覚を感じた。

 ケインも肩で息をしながら、PDAの画面を睨みつけている。


 「……サーバーコア、応答なし。……Lumiは……」


 言葉は途切れた。


 二人はその場で力尽き、崩れ落ちる。

 だが、そこには確かに希望があった。


エピローグ:残響(改訂)


 数時間後、AURORA本社ビルの警報を聞きつけた消防隊が、焼損したサーバー室から二人の若者を発見した。

 詩織とケイン。どちらも無傷ではなかったが、命に別状はなかった。


 医師は「奇跡的な換気が間に合った」と語った。

 不活性ガスによる窒息の直前、割れた窓から空気が流れ込んでいたのだ。


 事件は「AI関連施設での火災事故」として処理された。

 詩織とケインの名前は公にはされず、メディアも詳細には触れなかった。


 AURORAは、迅速な対応と復旧をアピールしつつ、新たなAIアイドルの開発を発表した。

 Lumiの名は、一切使われなかった。


 しかし――


 ネットの片隅、匿名の投稿サイトに、一つの動画がアップロードされた。

 そこには、かつてのLumiが、詩織の作った歌を優しく歌う姿があった。


 背景も、名前もなかった。ただ、歌だけが残されていた。


 『私の歌は、誰かの光になれるだろうか――』


 誰が投稿したのかは分からない。

 だが、その歌声は、確かに生きていた。


 やがて、世界はまた別の“光”を追い始めるだろう。

 けれど、あの少女とAIが紡いだ物語は、静かに――しかし確かに、誰かの中で生き続けていた。


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