黒紫
すっかり壁の花と成り果てたフェリシテだが、彼女に声をかけるものは少なくない。しかし、戦場とも呼べる社交の場で彼女が心を許せるものも多くはなかった。
(……疲れたわ。帰りたい)
ノアがローズマリーを優先するのはこれが初めてではなかった。彼の優しいところは美徳だと思うけれど、せめて社交の場でくらいは婚約者を優先して欲しいとも思ってしまう。むしろこれしか欠点のない婚約者なのだから、他人に話せばそのくらいフェリシテが我慢するべきだといわれてしまうかもしれないが。
(優柔不断だって思ってしまうのは、さすがに私の心が狭いのかしら)
ため息を吐きたくなってしまうのをぐっと堪え、化粧室に向かう。皇室主催の皇城で行われているパーティーは、国で最も安全な場所といっても過言ではない。護衛の一人もつけていなかった。
「あら、フェリーお姉さま、ごきげんよう」
化粧室の鏡の前でぼんやりと考え事をしていたフェリシテに、わざとらしく声をかけたのは、絶賛彼女の悩みの種であるローズマリーだ。
「……ローズマリー様、ごきげんよう」
笑顔で返すフェリシテだが、その瞳は笑っていない。ローズマリーも同様で、けれどもフェリシテとは違いどこか愉快な笑みを浮かべていた。
「フェリシテお姉さまともあろう方がこんなところでどうなさったの?このパーティの主役も同然ですのに」
「少し気分が優れなくて」
「まあ大変。ではお帰りになられたらどうです?」
「そういうわけには……」
「大丈夫ですわよ、ノアお兄様には私がついていますし」
仮面のように張り付けた笑顔からはその本心は伺うことはできない。表面上は上品に、言葉に含みを持たせて牽制をし合うことが社交界では日常茶飯事のことであった。しかし、公女であるフェリシテにそうした牽制ができるのは限られた人物のみであるはずだった。この国では、フェリシテより位の高い女性はたったの二人。皇妃と皇太后である。公爵家よりも爵位の低い伯爵家の娘が、フェリシテに意見を申し上げることなど言語道断である。
しかし、ノアにもフェリシテにも、ローズマリーには強く出られない理由があった。
「婚約者である私がノア様を置いて先に会場を出ればあらぬ噂を立てられてしまうかもしれません。ですからやはり……」
「じゃあ私がお兄様の婚約者になればいいじゃない」
「え?」
言葉の意味を理解するよりも早く、体に冷たい感触が伝う。感覚的なものじゃない、物理的な冷たさだ。フェリシテはローズマリーに水をかけられていた。ローズマリーが手に持っていた手洗いの桶を、大理石の床に転がす音がやけに鮮明に耳に響く。フェリシテの踊っても崩れないようにとセットされた髪も簡単に崩れ、ドレスは水を吸収して色を深いものに変えていった。
「まぁ大変。これではノアお兄様とは踊れませんわね」
口の端を嫌に吊り上げ、ローズマリーは一瞬だけ、張り付けた仮面を外した。
自由がない暮らしとはいえ、深窓の令嬢として生まれ育ってきたフェリシテには初めての経験であり、ショックと驚きとを隠すので精一杯であった。
「分からない?さっさと帰れって言ってるの」
人生で初めて面と向かって向けられた悪意に、フェリシテの頭の中は一瞬にして真っ白になる。呆然としているフェリシテの腕をローズマリーが掴み、化粧室の外に連れ出した。
「大変!!!誰か来て!!!」
高いローズマリーの声は広い廊下に響き渡り、あちこちから護衛の騎士たちが駆け寄ってくる。
「フェリシテお姉さまの具合が優れないらしくて……。化粧室の中で眩暈を起こして倒れてしまっていたの」
「な、にを……」
ローズマリーの、薔薇の花弁のような唇からすらすらと紡がれる嘘にフェリシテは体が震えていく。
(この子はいったい何を言っているの……?たった今私に水を浴びせたのはあなたじゃない)
そうは思っても、喉が締まって言葉が出てこない。ぶるぶると震えるフェリシテの体が、よりローズマリーの言葉に信ぴょう性を持たせていく。
「倒れたときに手洗いの桶に手をついて水をかぶってしまったらしくて……早く救護してさしあげて」
「それは大変だ。早くフェリシテ様を別室に」
「はい!」
「すぐに替えのドレスとタオルを持ってくるんだ」
目まぐるしく変わっていく状況に、フェリシテは本当に眩暈を覚えるような感覚がした。指先まで冷えていくのが、かけられた水のせいか、ローズマリーの唇から吐かれた棘のせいなのかが分からない。
「ローズマリー様、ありがとうございました」
「いいえ、当然のことですわ。お姉さまをお願いね」
「はい、あとは我々にお任せください」
すっかり元の笑みを浮かべていたローズマリーはひらひらと手を振り、パーティ会場へと戻っていった。フェリシテは騎士に支えられ、控室へと連れていかれる。
(今までも私が好きじゃないんだろうなって思うことは何度もあった。でも、こんなことをされたのは初めてよ)
皇室のメイドにドレスを脱がされ、蒸した温かいタオルで体を拭かれていく。新しいドレスに着替えれば、水で冷えた体は体温を取り戻していくが震えは治まらなかった。
「あんなに震えられて……おかわいそうに」
「温かいミルクを持ってきて!」
そんなフェリシテを見たメイドたちは心配の目を向けていたが、彼女たちに本当のことを言っても誰も信じる者はいないだろう。証拠もない。婚約者と仲の良いローズマリーを妬んで汚名を着せるつもりだと噂されてしまうかもしれない。大袈裟だと思われるかもしれないが、そんなことが簡単にまかり通ってしまうような世界が貴族社会の現状であった。
(……怖い)
今までフェリシテは自分のことを強い人間であると認識していた。しかし、彼女がそうあれたのは彼女を取り巻く世界が優しかったから。フェリシテは、自分がいかに温室育ちであるかを自覚せずにはいられなかった。実際は、普通の女の子と変わらない。先ほどの出来事も、悪意を向けられれば怖いと感じてしまうことは思ったよりも当たり前の感情であることであると気づくに過ぎなかった。
その日、フェリシテは公爵家の馬車に乗り一人で屋敷へと帰っていった。馬車の中から覗く町の方では、暗い夜空の下であちこちでランタンが美しく光り輝いていた。
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