異世界にハンバーグがあっていい。なぜなら異世界とは、現実世界のものと現実世界のIFが合わさってできた世界だから。
「異世界なのに現実世界の料理が出ているのはおかしい!」という主張は定期的に起こってきました。
最近だと、『葬送のフリーレン』においてハンバーグが出てきたことが物議をかもしてトレンドとなりましたね。
僕自身、すぐにはこの問題に納得がいく結論を出すことができませんでした。
当初まっ先に思い浮かんだ雑感は、
「異世界というかファンタジーにおいて、ハンバーグはあってもなくてもいいだろう。それを登場させるか否かは、作者の考えによるのではないか」
こんな具合だったと思います。
ここでこの話はおしまいとしてもよかったのでしょうが、僕の中ではもう一つの疑問が生まれていました。それは、
なぜ異世界でハンバーグが出ることをおかしいと感じてしまうのか?
ということです。
長い月日を経てようやく、僕はあらためて異世界でもハンバーグが登場することを容認するという結論に落ちつきました。
タイトルにもある、「異世界とは、現実世界のものと現実世界のIFが合わさってできた世界だから」という考えに至ったからです。
もう旬は完全に過ぎ去ったでしょうが、今回、そうなるまでの過程をここに共有することで、皆さんのコメントや意見がもらえるとうれしいです。
ではどうぞ、お付き合いくださいませ。
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まず前提として、作者が作品をつくるにあたって、物語の舞台を設定しますよね。
ファンタジーなのかSFなのか現代なのか・・・。
あるいは描きたいものから選択するということもあります。
異世界恋愛なのか異世界転生なのかラブコメなのか、壮大な冒険譚なのか未来のテクノロジーを取り入れたクールなアクション劇なのか、等々。
いずれにせよ、なにか世界を描くには、現実世界を念頭に置くことが必要になるでしょう。
なぜって、物語をつくるのは人間ですから。人間は現実世界を生きている以上、現実世界にあるもの、あったものを出発点としなければ何も生み出せません。
例えば、ハイファンタジーをつくるとしましょう。
なにから取りかかるかは人それぞれですが、ハイファンタジーにふさわしいものは何かを考える作業はかならず発生するはずです。
冒険、草原、モンスター、剣、魔法、ギルド・・・どんどんと要素となる候補が挙がってきますよね。
草原や剣は、現代にも存在します。ギルドや魔法は、現代では存在しませんが、歴史の上では確かに存在していたものです。
冒険というと、例えば大航海時代のような歴史上の出来事を想起させる人と、もっとカジュアルに旅行とか遠出なんかを思い浮かべる人などと分かれてくるでしょう。
では、モンスターはどうでしょうか?
モンスターという単語だけ聞くと、僕たちのいる世界には存在しておらず存在したこともない、なにか未知なるものというイメージが最初によび起こされるかと思います。
ではモンスターは、純粋に架空の存在だと言えるでしょうか?
それは疑わしいでしょう。なぜならモンスターを編み出すのも人間ですから、なにかモチーフとなるものから発展させて架空の生物をつくり出すはずです。ぱっと思いつくものを挙げると、動物や物質、神、悪魔、といった具合です。
むしろそういった元となるものなしに、全く新しい生物をつくるというのは可能なのでしょうか? 僕は否だと思っています。
このように、物語の舞台を用意するとは、作者が持っている現実世界の知識から、ふさわしいものを取り出し、その名前をふさわしいものに変換したり、新たに細分化(ギルドの数を増やしたり、魔法の種類を増やしたりすること)することだと僕は考えています。
要は連続した編集作業の結果、物語ができあがっていくということです。
編集をするには、元となるものがなければいけません。
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対して、異世界にハンバーグがあることはおかしいという主張は、異世界を現実世界とは完全に分離した独立のものとみなしているがために起こるのだと思います。
もっと抽象的にカッコつけて言えば、メタが入る余地を許さない、「本当の」フィクションを作品に望んでいる、といったところでしょうか。
異世界はいかなる下地、念頭も存在せず、完全に無からつくり上がった世界でなければいけないという解釈が根底にあるからこそ、ハンバーグの登場に違和感を覚えずにはいられないのではないでしょうか。
だから怒れる彼らに対し、
「この料理はたまねぎとひき肉などをまぜてこね回し、焼き上げてつくった料理ですが、名前はハンバーグではありません! 「ハンバー」というのですよ!」
というような趣旨の描写をほどこしても、効果はあがらないでしょう。
彼らが求めているのは、僕たちのいる世界でまだ考案されていない料理が描かれることだけなのですから。
ならは作者は、こういった批判を避けるために、全く新しい料理を考案するべきなのでしょうか?
それはどだい無茶なことでしょう。
そもそも作者が、「今から新しい料理を考ええるけど、今まで存在してきた料理のことは一切忘れて、全くオリジナルの料理だけを編み出すぞ!」と一念発起すれば、それがかなうでしょうか?
ちょっと想像しただけでも、とんでもない道のりだと分かってもらえるかと思います。
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異世界ファンタジーであろうとSFであろうと、ハイファンタジーであろうとローファンタジーであろうと、それらは僕たちの生きている世界、現実世界にあるものとあったものを参照して、それを物語に代入したり、ふさわしいかたちに変換したり、付け加えたり、派生させたりしてできあがっている。
これこそが、「現実世界のものと現実世界のIFが合わさってできた世界」です。
であれば、物語をつくるというのは今あるものや過去にあったものを、
「もしこれがこうだったら、どうなっていたかな?」
と絶えず想像していく作業、つまりIFを膨らませていく作業だと言えるのではないでしょうか。
ここで注意したいのは、変換などをすることなく、現実のものをそのまま物語に組み込むことも当然あるということです。
草原は草原のまま、剣は剣のまま、肉は肉のまま登場させても差しつかえはありません。
むしろ変換されてしまうと困ってしまうのは僕たち読者側ですよね。
例えば、あるファンタジーでは肉というものが存在せず、「ベラ」という食物が代わりにある、というような設定だった場合、それをすんなり理解ないし受け入れることは難しいでしょう。
(逆に、こういった未知のものを的確に分かりやすく描写できる作家は、非常に優れた腕を持っているといえそうですね)
このことを作者も当然念頭においているはずです。
読者に負担を強いるとしても、フィクションの純度を上げたいと思えば未知のもの(と言っても下地になるものはあります)を描写しようとしますし、別にそこを極めて強調したいわけではないのなら、現実世界の既存のものを掛け合わせていき、ある程度それらしい世界をつくればいいわけです。
『葬送のフリーレン』は後者だった。作品のフィクションの純度を高めること以上に力を入れたいテーマがあったから、ハンバーグのIFを検討するという過程を省略し、ハンバーグをハンバーグとして登場させた、のだといえるのではないでしょうか?
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こう書くと、「作者は力を入れたいテーマと同時に、フィクションの純度を高めればいいだけの話なのに、それを省略するとはなんて怠惰なんだ!」という批判が聞こえてきそうです。
そんなときに思い出したいのは、物語をつくっているのは僕たちと同じ人なんだということです。
なるべく完璧な物語にしたいという思いは、作者が一番強く抱いているはずでしょう。
ですが制作過程で、能力の不足、時間的制約、気力の限界、紙面の制約など、種々様々な制約が立ちはだかってくることは容易に想像できますよね。
だから全てを完璧に仕上げようとするのは無理な話なのです。どこかは妥協せざるをえない。
そもそも人間が完璧とは程遠い存在だということは、僕を含め皆さんも日常でたびたび痛感していることだと思います。
大量の作品にふれることができる今日、僕たちの作品に対する目もそれに比例するように肥えてきたと感じています。同時に、作品が大量に提供されているがゆえに、そのひとつひとつが作者の汗と血の絶え間ない流出の上になりたっているのだということを忘れがちです。少なくとも僕はそうです。
だからこそ、作者のことなど念頭にあがらず、作品がなにも下地にすることなく生まれた完全なフィクションだという錯覚がたち現れるから、「異世界なのに現実世界の料理が出ているのはおかしい!」という主張が出てくるのではないでしょうか。
ハンバーグがハンバーグとして出てくるのは、ハンバーグをIFとして考察するより、別の表現したいテーマに力を注ぐための省略であるという結論に僕はたどりつきました。
皆さんはどう思いますか?






