第52話_抹消のトリガー発動
ニセ葵は道場から逃げ出した。
優香を連れてきた、ニセ葵の手下たちもいつの間にかどこかへ消えていた。
深夜の道場には、葵と優香、俺の三人だけになった。
葵は俺に抱きしめられたまま、小さくふるえている。
怖いんだろう。
「別の世界線の自分と目が合うと.....消えるって言ったよな?」
葵を失うのが怖くて、俺もふるえた。
「目が合うというか......二人の分身が同時に、お互いがお互いを自分にそっくりだ、自分の分身だと認識してしまうと、抹消のトリガー発動となる」
優香が真っ青な顔で言った。
「抹消......?トリガー?」
「24時間以内に二人のうちのどちらかが消える。
別の世界線に逃げたとしてもダメで、逃れる方法はないと言われている」
「いやだ。そんなの。葵!きっとだいじょうぶだ。俺がついてる」
「......」
葵は黙っている。
「葵......」
優香が俺たちのほうに、ゆっくりと近づいてきた。
「光一、離すんだ。お前の彼女の山口先輩の前で、なんてことをするんだ」
葵は、急にハッと我に返ったように言った。
彼女はパッと俺から離れた。
「やめて、葵。お願い。ここまで来て自分に嘘をつかないで」
優香は静かに首をふる。
「光一のことが好きなんでしょう。そうに決まってるじゃない。
自分のことを犠牲にしてまで」
「ち、違う。好きじゃない!あたしは山口先輩を最優先に考えて......」
葵は優香に向かって必死にうったえた。
優香はフッと笑う。
「あたしを最優先に考えるなら、光一とニセ葵がポータルに落ちたほうが良かったよね?
そうなれば一件落着じゃない。それなのに......」
「違う!あたしは、ただ......あっ」
とつぜんだった。
優香は、パッと葵のそばに駆け寄ると彼女をギュッと抱きしめた。
「葵......葵、お願い。消えないで」
優香の頬を涙がつたう。
「葵のこと。鬱陶しいって思った。
葵は、いつもあたしの恋愛の邪魔をしてきた。
いつもあたしを守ると言って、あとを付け回した。
邪魔だな。き、消えればいいのに.....って.......
そ、そんなふうに思ったの......消えるべきなのは私なのに」
「山口先輩。いいんだ。そんなこと......わかってたよ......わかってた」
葵は、優香に抱きしめられて、また泣き出した。
二人は、抱き合ったまま大泣きし始めた。
俺も涙が出はじめた。
「葵にはあたしより大事な人ができた。そうでしょう。
もともとあたしが大事って言うよりは、自分の使命に忠実だっただけだけど」
涙を流しながら、優香はクスッと笑った。
「違うよ。山口先輩。先輩と一緒にいるの楽しかったんだ。
あたしには姉ちゃんと兄ちゃんがいるけど。ふたりともあたしとは口をきかない。
山口先輩はあたしの本当のお姉ちゃんだったらいいのにって。
小さいころはずっとそう思ってた」
「葵......葵......ごめんなさい......あたし」
優香はヒックヒックと嗚咽を漏らし始めた。
「光一も、ごめんなさい。あたし......嘘をついてたの。
光一と寝てなんかいない。光一に襲われたりしてないの。
アレは私のウソなの。光一とは何もなかった......」
「えっ!!あっ!!そ、そうなの!?」
俺は素っ頓狂な声を出した。
「よ、よかった!......だけど、酔っ払って、部屋に連れ込んだのは、事実だし」
「光一にアルコールを飲ませたのも私だし。私が悪いんだよ!」
「山口先輩は何も悪くない!」
葵が彼女をかばう。
「山口先輩は、恋愛がしたかっただけだ......」
「そうよ。あたしは恋愛がしたかった。
だけど、葵のために命をかける光一をみた。
それに光一のために、命を賭けた葵のことも......。
あたしの入る余地なんて、どこにも無い。
二人は愛し合ってる」
「あっ......愛してなんか......」
葵は真っ赤になって慌てだした。
そのとき。
「お嬢さま。すべて片がつきましたか?」
松井さんだった。
道場の入り口に立っている。
松井さんと葵の視線が絡んだ。
「松井......。あたしは、抹消のトリガーを発動させた」
松井さんは目を見開くと、しばらく固まっていた。
「なんと......そんな......」
松井さんは、息を呑んだ。
そしてしばらく黙り込んだ。
道場に沈黙が流れる。
どうしてこんなことに。
俺がポータルを開いたりしなければよかったんだ。
ポータルに飛び込もうとしたりするから、こんなことになったんだ。
苦い後悔が胸にこみ上げる。
俺の涙がポータルの黒い穴に吸い込まれていった。
床に開いたポータルのフチをつかんで、引っ張り上げる。
ポータルはすぐに小さな腕輪に戻った。
俺はポータルをそっとリュックにしまった。
「松井さん。家まで送ってくれる?」
ふいに優香が口を開いた。
「......かしこまりました。葵お嬢さまと樫谷さんも......」
「二人はいいの。二人きりにしてあげよう?」
優香が松井さんにそう言った。
松井さんはじっと、葵のことを見つめていた。
だがやがて、黙って一礼すると、優香とともに道場から出て行った。
シンと静まり返った道場に、葵と俺はふたりきりになった。




