0-2 燃えるのは修道院と彼女で
それから数週間。それまでは、いつまでもこの時間が続くって信じてた。
その日、俺はシスターに叱られて、近所の川まで水を汲みにでかけていた。理由はなんてことない、俺がルゥを泣かしてしまったからだ。
普段は喧嘩もしなかったけど、俺がちょっとしたイタズラで、寝起きのルゥの首筋に水をかけてやったらあいつ、泣いちゃったんだよな。それでシスターに怒られて、バツとして水汲みの刑にされたってわけさ。まあ、俺も悪かったって思ってるけどさ……。
水を汲むためのバケツを両手に近所の川までやってくる。普段は動物が水を飲んだり浴びたりしてる光景や、たまに魔物がいたりするが、今日は静かなもんだった。雲一つない空。吸い込まれそうな青い空を眺めながら、さらさらと静かに流れる川にバケツを放り込む。ついでに小魚でもとれたら、シスターが料理してくれないかなぁ。なんて思いながら、バケツを引っ張り上げる。子供の俺じゃ水がたっぷり入ったバケツはかなりの重さだ。もう一つのバケツを同じように放り込んで引っ張り上げて、両手にバケツを持つ。一つだけでも重いのに、二つだと指がちぎれそうだ。
「シスターめ……。水なら近くの井戸にあるのによお。って、井戸から汲み上げたらバツになんねーよなぁ」
俺は誰に話しかけるわけでもなく、そんな独り言を空に向かってつぶやく。そして、見晴らしのいい平原を歩いていた。
だからこそ、なのだろうか。
帰り際、目の前の丘の上にある修道院がごうごうと燃え上がっていたんだ。
「な、なんだよあれ!?」
俺は思わず声を上げて叫ぶ。いてもたってもいられず、無造作にバケツを放り出して修道院に向かって走り出した。
最初は他の修道院だろうかなんて楽観的な事を考えたが、あれは……見間違えるはずない! シスターやエレノア、ルゥがいるはずの修道院だ!
「シスター! エレノア、ルゥ!」
俺はシスター達の名前を呼ぶ。燃え盛る修道院。近づくにつれ濃くなる木の焦げる臭い。そこに混じる、血の焼ける臭い……。炎上した修道院が、それは現実であると証明するように、熱が肌を焼き、赤く。ただ赤く、音を立てて炎に飲み込まれていた。
「な、んだよ、これ……なんなんだよこれ!?」
俺はふと気が付く。炎の傍らに倒れている人影。……シスターだ。
「おい、大丈夫かシスター! シス――」
俺はシスターに気が付くと、すぐさま駆け寄ってその身体を抱き起こす。
ゴロン。という音がしそうなくらい、綺麗に何かが落ちた。俺の目に映るそれ。……なんだろうか。一瞬理解できなかった。
「……えっ?」
俺の口から間の抜けた声がこぼれる。だって、それは……シスターの首――
「う、うわああああぁぁぁっ!」
俺は思わず叫んで後退った。シスターが、なんで、なんで!?
混乱して思考がまとまらない。何が何でこんなんになっちまったんだ!
「まだ生きている奴がいるじゃねェか」
不意に背後から声が聞こえる。エレノアでもない、ルゥでもない。聞いたことのない低い声。一体誰だ? 錯乱した俺は、ただ後ろを振り返るしかできなかった。
だがその瞬間、俺の右肩に何か違和感を感じた。違和感……それは次第に燃え盛るような熱を帯びていく。それに、何か落ちたような音も聞こえたぞ?
なんだよ、これ。熱い……いや、これは。痛みだ。俺の右腕に何か……。そう考えながら右腕の方を見やる。あるはずのものがない。
「なに、が……」
すぐそばに落ちているそれの断面図が妙な生々しさを感じる、まるで玩具のようにも見えた。その映像をようやく停止しかけていた脳が、それが何かを理解し始めた。その認めがたい事実と同時に、俺の右肩に強烈な痛みが襲う。まるで、熱した鉄板をそのまま押し付けたような痛み。そんな味わったことのない痛みに俺は思わず絶叫した。
「うあぁぁぁぁあああああああ!! 腕が……ああぁぁっ!!!」
今更気づいたが、腕からは絶えず赤くドロッとした液体が流れて広がる。血だ。俺の……
「やっべぇ! 超痛そうじゃあん、なあなあ、いてえかよ? どうなんだよ!? やっぱいてえんだろうなぁ! あはははははっ!」
腕があった場所から血が流れ出るのを必死に抑えていると、頭上から楽しそうに笑う男の声が。見上げると、顔は良く見えないが、今俺が流している血のように真っ赤な髪の男が歯を見せながら、多分笑っている。
「おーおー、すっげえ血ぃ出てるぜ! ねえねえ、死んじまう? 死んじゃうのかお前! 死んじゃいそうな今の気持ち、教えてくれよ!」
男はそう笑いながら必死に抑えている手を足で踏みつけてくる。痛みでまた悲鳴を上げると、その度に面白そうにまた大声で笑っていた。俺の顔は多分、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってると思う。そんな顔を見て、やはり男は笑っている。
「そのぐっちゃぐちゃの顔、たまんねえなぁ……」
俺はやっと、痛みに耐えながら喉から声を絞り出す。
「お前、一体何なんだよ! エレノアを、ルゥを、どこに……」
「ああ、あのガキ二人か? 帝国の連中が連れてったぜ。なんでもキマイラの人体実験に必要なんだとさ」
興味なさげに応える男。
人体実験……!?
「ま、お前は知らなくてもいいんだよ、もう死ぬからさ?」
男はそう笑うと、手に持っていた赤い何かを俺の顔に振り下ろす。その瞬間、右目の視界が黒くなった。黒くなった、というより……見えない? 何が起きたんだ? そう考えていると、今度は右目に右腕と同じような激しい熱が襲う。
「あ、あ゛あ゛あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
再び絶叫。もう喉も痛くて仕方がない。右目も、右腕も痛い。痛みが全身を覆っているような感覚だ……。
「お前の右目、綺麗だからもらってくな~♪」
男はそう言い残し、踵を返して去っていく。俺は去っていく男に向かって残った左手を伸ばした。
「ひゅぅ……ひゅぅ……ま、て……待てぇ……」
口から出るのは息が流れる空気の音。もう声も出ない。背後で燃え盛る修道院が、大きな音を立てながら崩れ落ちていく。俺の意識もそこで途絶えた。
ああ、これが夢だったら。こんなのが悪い夢だったなら……。
そう思いながら。
―――
肌を刺すような雨に打たれ、目を開ける。
「……いきて、る、のか……」
そう口にすると、再び強烈な痛みが腕と目に走る。焼けつくような痛みがまだそこに残留しているんだ。身を起こそうにも、重石を何個も縛り付けられたように身体が重たく、その場をうつ伏せになっている以外何もできない。
シスター……
エレノア、ルゥ……
なんでこんなことになったんだ……
俺は顔を歪ませてその場で歯を食いしばる。涙が流れているのか、それとも雨に打たれているのか。
立ち上がることもできない。いや、気力もない。
「ち、くしょう……畜生……ちくしょおおおおおおおおおっ!!!」
俺はもう涙を流しながら喉を掻っ切る勢いで叫ぶしかなかった。雨の音にかき消されていく俺の絶叫。泣き叫ぶしかできない、自分の無力さに絶望の二文字が思い浮かぶ。
このまま死んじまうのか、俺……
その時、俺の目の前に誰かが近寄ってくる。……誰だろう?
俺は見上げると、赤い髪の女の子のような人物が俺の目の前に立って、俺を見下ろしていた。敵か?
俺が女の子顔を見ていると、彼女は口を開く。
「お前……生きたいか?」
彼女がそう言う。声はなんというか、しわがれた老人のように低い。俺が訳も分からず彼女の顔を見ていると、続けてくる。
「ならば我に従うといい、お前に力を与えよう」
彼女はそう言い終えると、俺の目の前でしゃがみ込んで、俺の目を見つめてきた。俺は、彼女の問いに無意識に答える。
「ああ、ほしい。あいつらから奪われたものを取り戻せるなら、なんだってほしい」