天井さん
その日小学校から帰ってきて、僕はとうとう泣き出してしまった。
三年生に上がる直前、お父さんが「じぎょうにしっぱいした」と言って、住んでいた家をみんなで出ていくことになった。キッチンと畳の部屋しかない狭いアパートに引っ越してきて、学校も転校した。新しい学校は馴染めなくて、友達ができないままもう二ヶ月が経とうとしている。
家に帰っても誰もいない。お金がないからお父さんもお母さんもずっと仕事をしていて、置き手紙と一緒にご飯が置いてあるだけ。学校でも家でも孤独なまま一生過ごすのかと思ったら、張りつめていた糸が切れてしまった。
おかえり、と迎えてくれる声も当然なく、何も聞こえないことに耐えられなくなって、ランドセルを放り出し押入れへと駆け込んだ。下の段には荷物が積んであったから、上の段に飛び乗って扉を勢いよく閉めた。角に背中をつけて膝を抱えてわんわん泣いた。
その時、天井からコンコンと音がして、僕は膝に埋めていた顔を上げた。
「どうしたの?」
頭上から、女の人の声がした。しゃくり上げながら、「誰ですか」と僕は尋ねる。
「わたしはここに住んでいるの。あなた、すごく泣いているけど大丈夫?」
このアパートは二階建てで、ここは一階。真上の人に僕の声が聞こえてしまったのか。
僕は事の経緯を話した。そっか、大変だったね、と女の人は優しい声で慰めてくれた。
「つらくなったら、またここにおいで。天井を叩いてくれたらいつだって話を聞くから」
その日からたびたび、僕は天井の女の人と話をした。涙が止まらなくなってしまった時、助けを求めるように押し入れに飛び込む。天井を叩くと「はあい、今日はどうしたの」といつでも声が返ってきた。クラスメイトのボール遊びの輪に入れなかったこと、授業参観で僕だけ親が来ていなかったことを、しゃくり上げながら話す。うん、うんと女の人は優しく相槌を打ちながら聞いてくれて、涙はいつの間にか引っ込んでいた。
「一生このままだったらどうしよう」
ある日、僕は押し入れの中で闇を見つめながら呟いた。
「心配ないよ。今はつらくても、頑張っていたら意外となんとかなるものよ」
「本当? それっていつ?」
「うーん、いつかは分からないけど、いつか必ずよ」
本当かなあ、と僕は疑った。
その数日後、クラスメイトの一人と友達になった。僕が人気のアニメの鉛筆を持っていたことがきっかけだった。それを皮切りに、どんどんみんなと話すようになった。お母さんも、仕事の時間を調整できるようになって、一緒にご飯を食べる日が増えた。女の人が言った通り本当に、意外となんとかなっていた。友達と遊ぶことが増え、押し入れに逃げ込むことも少なくなった。
ある日学校から帰ってきて、久しぶりに天井の人とお話をしようと思い立った。押し入れに登り天井をノックする。けれど返事はなく、何度か試したけれど同じだった。
そうだ、直接会いに行けば良いじゃないか。僕は押し入れから一気に玄関へと飛び出した。靴のかかとを踏んだまま階段をかけ上がり、真上の部屋の前へ辿り着く。どんな人だろうとドキドキしながら、深呼吸をしてブザーを鳴らす。けれど扉の奥ではブザーの音が反響するだけで、他に物音がする気配はなかった。留守にしているのだろうか。
「何してるの、ぼうや」
声の方を見ると、角の部屋の扉から大家さんが顔をのぞかせていた。
「こんにちは。この部屋の人と話がしたくて」
僕がそう言うと、大家さんは首を傾げた。
「そこにはもう十年くらい誰も住んでいないわよ。むかし不幸な事故があってね」
「えっ、そんなはずは。不幸な事故って?」
「それは知らない方がいいわよ」
それだけ言って大家さんは部屋に戻ってしまった。その後どんなに天井に呼び掛けても、声が返ってくることはなかった。
二年後、お父さんが「じぎょうがきどうにのった」と言って、僕たちはまた引っ越すことになった。アパートを出ていく日、もう一度押し入れの天井をノックしてみた。やっぱり返事はない。最後に話をしたのはいつだろう。名前も聞けないままだった。
押し入れから何もなくなった部屋を見渡すと、太陽の光で包まれていてとても明るかった。
「天井さん、ありがとう。さようなら」
僕は押し入れから降り、静かに扉を閉めた。
公募ガイド小説工房のテーマ「天井」のときに書いたものです。