幻影
俺は世界一幸せだった。
彼女が傍に居れば、他には何も要らない。
そんな幸せが明日も続く。
そう信じていた。
彼女は、いつでも傍に居た。
といっても同棲じゃない。
毎日のように、逢っていた。
彼女の家は、俺の通勤ルートの途中にある。
彼女は家の最寄り駅で降りる。
俺はその駅で途中下車する。
駅で待ち合わせて、彼女を家まで送り、
また駅に引き返して、帰宅。
道すがら、缶のお茶を飲みながら、とりとめもない話をした。
(彼女も俺も、コーヒーは苦手)
時には駅近くでお茶した。
出会いは偶然。
仕事が忙しい合間を縫って、友人♂と会った。
指定されたファミレスへ行くと、そこには彼女も居た。
一目惚れ。
彼女の仕草、笑顔、声、リアクション。すべてがどストライク。
友人♂と彼女は、ボランティア仲間。
彼女にはボランティアの先輩♀が居た。年齢も経験も、友人♂>先輩♀>彼女。
その先輩♀は、仕事中に突然倒れ、そのまま息を引き取った。エコノミークラス症候群が原因の心筋梗塞だった。
友人♂と彼女は、その先輩♀の葬儀の後、今後のボランティア活動について意見交換しているところだった。
最近、仕事が忙しくて活動から遠のいていた彼女へ、先輩♀が亡くなったことで、友人♂が復帰要請していた。
友人♂が、彼女、俺、の順に車で送る道すがら、彼女の最寄り駅を知った。
その後も、友人♂がボランティア活動する場所へ行くと、彼女はいつも居る。
そこで、徐々に仲良くなって、連絡先を交換した。
彼女はケータイ嫌いで、持っていなかった。
自分の自由時間を邪魔されるのが嫌だ、と。
そこでガラケーをプレゼントした。
彼女が用事ある時は俺にワン切り。その後、折り返す。
俺が用事ある時は、その逆。
友人♂は言う。
「あの娘はメンドクサイから、絶対に手を出すなよ。っていう前に、お前ったら。」
「忠告はしたぞ。どうなっても知らないからな。」
俺は彼女が大好きだった。
他の女性は全く眼中に無い、それほど夢中だった。
結婚を前提に、と意識し始めた。
だけど、彼女は違った。
付き合い始めると、見えてくる一面。
どことなくよそよそしく、距離を置きたがる。
時々ぼんやりと遠くを見つめる。
俺は観光地に独り住まい。
両親は既に亡く、一人っ子。
週末は、彼女が俺の家まで来る。
家の近所が、デートコースだった。
おウチデートも、楽しんだ。
名残惜しくて、帰りは車か電車で、家まで送った。
彼女の家に迎えに行くのは、やんわりと断られた。
自宅へ送っても、家には上げてくれない。
理由は、教えてくれない。
両親と同居なのは聞いていた。
それだけが理由じゃないことは、薄々感じていた。
心の温度差に寂しさを感じ始めた、そんな時。
俺はプロジェクトで大失敗をした。
大口な顧客の仕事で、
大きな穴をあけてしまった。
お客様はプロジェクトの凍結を要求した。
俺の解任と引き換えに、プロジェクトは継続を許された。
そのショックで、うつ病を発症してしまい、そのまま精神科に入院。
上司の計らいで会社は傷病欠勤した。
鉄格子のある、隔離病棟だった。外部との接触は一切遮断、最初は家族(俺には居ない)とも連絡取れない。持ち物はすべて没収、病院で保管された。
起き上がる事も出来ないまま、1か月が過ぎた。
その間、食事と投薬治療だけ。
起き上がれるようになったら、リハビリが始まった。
入院直後は個室で鍵付き。
次に8人部屋で病棟内は行動可能。
ここから先は社会復帰に向けてのプログラム。徐々に慣れていき、問題なければ次へ進む。
1日1回10分まで親族と電話できた。スマホは没収されたので、ナースセンター脇の公衆電話で、看護師がストップウォッチを持って監視。僕はかける相手が居ないので、関係なかった。
1日1回の外出許可。最初は付き添い付き病院内限定で30分。徐々に制限が緩くなり、1時間、付き添い無し、病院外、2時間と。
手紙を書きたいと言ったら、紙とペンを貸してもらえた。使用後は返却。
隔離されて連絡が取れなくなった彼女に、手紙を書いた。
外出時に切手を買い、投函した。
2週に1回、1日外泊も許された。本当は親族が居ることが条件だが、特例で許可された。代わりに外泊が許可されるまでの経過観察は厳しくて、時間がかかった。
手紙の返事は、無かった。
入院から4ヵ月後に退院して、帰宅した。
手続きの都合で、会社復帰まで3日の猶予がある。
ノンビリ過ごす中で、再び彼女に手紙を送った。
受取拒否で戻ってきた。
突き返された手紙を受け取った時に気付いたのだが、1通目の返事は、自宅に届いていた。ガラケー同封で。精神病棟の患者に届く手紙は、すべて検閲があるので、わざとそうしたそうだ。
その手紙を読んで、愕然とした。
彼女は、俺の知らないところで、中絶していた。
俺の子だという。
俺が入院していたせいで、連絡が取れず、彼女は一人で泣いて、一人で手術を受けた。
そのあとで、俺からの手紙が届いた。
彼女はその時、どんな心境だっただろう。
それを思うと、心が張り裂けるようだった。
それっきり、彼女とは疎遠になった。
彼女の家にまで行く勇気は無い。明確に拒絶されたのだから。
彼女は、もう居ない。
全て取り返しがつかない。
入院した時以上に心を病んだ。
今度は入院しなかった。
と言うより、できなかった。
俺はショックのあまり、手紙を読んだ姿そのままで気絶、自宅で倒れた。
気付いたら2日が過ぎていた。
一度は復職したのに、無断欠勤で退職。
情状酌量で、解雇ではなく、自主退職となった。
しばらく自宅療養していた。
友人♂は、心配して、時々訪ねてきた。
彼の前で、俺は泣いた。
どれだけ彼女を好きだったか。
彼女と別れたこと。
反動で、どれだけ苦しんだか。
「好きになっちまった物はしょうがない。陰ながら応援していたんだけど、やっぱダメだったか。」
友人♂から、彼女の過去を聞いた。彼女は、過去に友人♂に相談していた。
彼女の元カレは、DV男だった。
暴力の果てに、彼女の首を絞めた。傷害致傷。彼女の命に別状はなかったが、元カレは逮捕。執行猶予付きの懲役刑と、彼女への接近禁止命令。
彼女はトラウマを抱えた。
男性と距離を置きたがる。
首に何かが巻き付くことに極度に怯える。真冬でもマフラーが巻けない。
思い当たる節はある。
彼女はパーソナルゾーンが広い。
普段はボディタッチを嫌がる。彼女からも普段はしない。
俺の要求に抗えず、応えてくれることもある。
時々彼女からのアプローチもある。
腰を抱く分には問題ないが、首に手を回すことだけは嫌がる。
彼女も俺の首には決して手を回さない。
肩を叩いた時の反応が、異常に敏感。
そんなもの抱えていたなんて。
更に泣いた。
今、俺は脳に障害を抱えている。
暗記が極度に苦手だ。
咄嗟の事は何も覚えられない。
喜怒哀楽、何か強い感情と一緒になった時だけ、記憶に残る。
知人♂は、もっと重い症状を抱えている。
仕事中に倒れて1ヵ月の意識不明。その時海馬を損傷して、新しいことは何一つ記憶できない。
損傷前の記憶と、損傷後はノートに書き溜めた事だけが、彼のすべて。
退院後、性格が変わった。
元々は陽キャで、旧知の俺と話す時は陽気だが、ご家族の話では普段は殻にこもる陰キャ。
彼は過労による脳梗塞が原因だが、海馬は精神的ストレスにも弱いらしい。
俺は家で倒れた時に、軽く損傷したのだ。
いまでこそ俺は精神的には落ち着いたが、今でも彼女(元カノ)の面影のある人にしか、興味がわかない。
「お前の好みって、分かんねぇなぁ。」と友人♂は言う。
そりゃあそうだ。
顔だけじゃないんだ。
背格好、髪型、声質、しゃべり方、どれか一つでも彼女に似ていると、ついつい目で追ってしまう。
ある意味、今でも病んでいる。彼女の幻影を、今でも追い求めているんだ。
俺って変わってないなぁ。