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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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無響室の中の宇宙

2020年1月1日追加

 狭霧はフェイスブックのタイムラインにタイン・ミュアソロウの記事を再び引用していた。それは無響室についての二番目の記事だった。


 しばらく前に無響室の中の少女の話題をここに書いたのを憶えているだろうか。

 それからまた数回彼女をその部屋に招いた経過を一度ここでまとめておきたいと思う。

 二度目、彼女はもっと長い時間その部屋の中に留まった。けれど彼女は長い眠りから覚めたばかりのように意識レベルが下がっていてしばらくベンチで横になっていなければならなかった。宇宙飛行士が帰還船から担ぎ出されてリハビリの期間を設けるのと同じだ。扉の向こうには宇宙があるのかもしれない。彼女は地球の重力と大気に慣れなければならなかった。

 そして三度目、計測室(無響室の前室)で各々に一杯ずつコーヒーを用意して感想を聞き出した。今までと違って彼女を座らせておいたのは今度は明瞭な応答を期待できそうな様子だったからだ。

 私はまず大雑把な質問を投げかけた。

「その部屋の中に入って、扉を閉めて、明かりを消して、そうしたらどんな感じがした?」

 彼女はブッダのように目を伏せて細め、少しの間考えた。それはおそらく頭の中のイメージを掬い出すための時間だった。

「知っているような感じがした」

「知っている?」

「過去に経験したことがある。外の世界で、同じような感覚を」

「無響室の外で?」

「そう」

「それはどんな感覚なの?」

「あらゆる存在が透き通って世界の果てまで、宇宙背景放射の縁まで見通すことができる。見通すだけではなくて、すべての感覚がそこまで届いている。でもそこからは何も感じられないの。ただ真っ暗で、何も聞こえてこない」

「それはそこに反射がないからね」

「反射?」

「そう、反射。宇宙背景放射が真っ暗にしか見えないのは、光が届くよりも速い速度で宇宙の果てが膨張を続けているから。そこに光が届かないのと同じように、他のあらゆる感覚もそこではきっと反射しないのね」

「そうだと思う。感覚できないのは、反射がないから」

「それで、それから」私は彼女の語りを促した。彼女はまだ話そうとしていたし、私はいささか不用意にその流れを断ち切ってしまったように思われた。

「それから……同時に、私は周りの何者からも感覚を向けられていない。誰かの、何かの感覚が私にぶつかってくることもない。私もまた誰かの宇宙の背景放射の中にいるのかもしれない。それとも相手の宇宙は次元が違っていて、あちらの次元では私の存在はただ透き通ったスペースに過ぎないのかもしれない。透き通ったスペースはあらゆる感覚が素通りしてしまうから、感覚することができないの。つまり、私は私自身の感覚によって世界を捉えることもできないし、他の誰か、他の何かの感覚によって捉えられることもないでしょう。そうなると私は私がどこにいるのかも全然把握できないし、なんなら自分の存在と世界の境目もうまく捉えられなくなってしまうの。たとえるなら、私という『点』は座標軸との関係を知ることができないし、だいたい自分が点なのかどうか、周りの空白から明確に区別しうるものなのかどうかすらわからなくなってしまうの。それでも確かに私は座標空間には存在しているのかもしれない。でも座標軸そのものには座標はないの。それは何の慰めにもならない。他の何かが私を感覚できないのは、きっと私が本当にただのスペースだからなんだ。私の存在は消えて、じゃあそれを見ている視点や意識は何なのだろうって。家でも、学校でも、一人でいる時、ふとそんなふうに考えが走って、地面が抜けたような、浮ついた不安定な感触に陥った」

「それは無響室と似たような環境ではなかったのね?」

「全然。それはただ私の思考の中だけにあるものだった」

「なぜそれと似たものがこの部屋の中で引き起こされたのだと思う?」

「なぜ?」

「ええ」

「それはきっと、反射がないから」

「本当に?」

「本当に。そして私がその感覚を知っていたのは、私が私自身の思考に没頭して、外の世界を忘れて、思考の中に果てのない宇宙と同じような条件ができあがっていたからなのだと思う」

「それはあなただからこそ感じるものなのか、それとも他の人も感じられるものなのか、どちらだと思う?」

「無響室に入って私と同じような感覚が得られるか、ということ?」

「そうね。そういう意味でいいわ」

 彼女はまた少し考えてから答える。

「どうだろう。感覚の反射がない、というのは感じるかもしれない。でもそれを空間ではなく自分の存在に対して感じるのはその人の感性によると思う」

「感性。それを分ける要因は感性であって、経験ではありえない?」

「経験にもよると思う」

「ではそれはきっとあなただけのものなのよ」

「そうでしょうか」

「私も何度か明かりを消して一人でその部屋に入ってみたの。確かにとても不思議な感じがしたわ。でも自分自身が透き通るような感覚にはならなかった。反響がないというのは確かに違和感なのよ。というか、まず何かしら正体のわからない違和感があって、その原因は何かって考えると、たぶん反響がないせいなのよね。反響がないという現象を私の感覚が直接的に捉えられるわけではないのだと思う。でもね、あなたの言う無限の広がりというものがわからないわけでもないの」

 彼女はマグカップを両手で包んだまま私の目を見つめていた。その視線は私を少したじろがせた。彼女の目の中には強い重力を持った宇宙の深みがあった。

 私は自分のカップの中に一度目を落としてひと口飲んでから彼女にサハラの話を聞かせた。私のタイムラインを長年追っている人は憶えているだろうか。

「アフリカに行ったことはある?」と訊くと、彼女は「いいえ」と答えた。

「私はその時ベドウィンの音楽を調査するためにチュニジア南部の砂漠を訪れていたの。砂漠といっても色々あるでしょう。岩石砂漠もあるし、ステップのように灌木やサボテンの生えた砂漠もある。でもその時行ったのは一面の砂砂漠。地表の他には何もない。地平線は砂丘の波がかたどっている。足元の砂を手で掬う。そのさらさらとした砂が視界の果てまで完璧に地表を覆っている。その砂は白くて、手に取ると角張った石英や長石の結晶で満たされている。昼間はそれが鏡になって大気の帳を下から照らし返している。日陰に立っていたって肌は下から焼かれていく。太陽は彗星のように空を走り、夕暮れになるとミサイルのような突風を吹かせる。その風が収まった時には砂漠は既に夜闇と冷気に包まれている。鍋のように熱していた砂ももはや氷と化している。空に月はなく、星々の光が大気の揺らぎの奥にか細く瞬いている。キャンプから砂丘を一つ越え、また次の砂丘の上に立つと辺りに視界を遮るものはない。いや、感覚を遮るものは何もない。風も音もない。そこには無限の広がりがあって、私の体はその空間の中で逆に果てしなく小さくなっていくの。それはあなたが感じたのと近い感覚かもしれない。ただ、私の場合その広がりは水平の広がりに過ぎない。私には足をつけて立つ地面があり、したがって頭上には天があった。天地があり、天地には限りがあった。あなたは、でも、地面すらなくなるような感覚になったのでしょう?」

「ええ」

「私はそれを心地よいと感じた。こんなに気持ちのいい場所はないと感じた。あなたはその感覚がそれとも心地いいの?」

「心地よい?」

「わからない?」

「ううん。どちらかといえば恐い、のだと思う」

「じゃあ、違うのね」

「そう。でも違ってはいけないなんてことはない。わかる、共有できる、というのが全てではないから」

「そうね」

「あなたに話せてよかったし、あなたの話を聞けて良かった」彼女はいい表情をして空になったマグカップをそっと机に置いた。

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