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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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蛇は噛み千切る

 外の空気は氷のように冷たく、上空や遠景はまるで分子の一粒一粒が微かに黒色を帯びているみたいに真っ暗だった。弱い風が吹いている。コートの襟と首筋の間にしっかりとマフラーを撒き込んで顎まで隠す。どこかの家の中で犬が吠えたのがうっすら響いてくる。白州さんの屋敷から駅まで歩く。初めて来た時はバスを使った距離だ。さすがに遠い。いささか暗いけれど景色も新しい。どの角で曲がるのか、曲がった後に振り返って確認しておく。バスの通り道とは違う。住宅街の中を突っ切っていくコース。新しく趣味の悪い家もあれば、モルタルの大きな家もある。

 白州さんとは綾瀬の改札前で別れる。上りホームは空いていた。向かいの下りのホームにはまだそれなりの人混みがある。僕らは人混みを見ているけれど、人混みの中の一人一人は僕と深理さんを見ている。あとコントラバスも。

 彼女は向かいに多くの目があるということを別段気にしていないみたいだった。疲れた指を動かしたり、片足を浮かせたり、屋根に目を上げて何かを想像したり。

 先に下りの電車が向かいの番線に入って、青白く明るい車内にホームの人々が乗り込んでいった。ホームにあった目が窓の中に移る。

 ブレーキのエアが解け、モーターの励磁音とともに電車が走り始める。窓の中も横へ流れていく。やがて数々の目は僕の視界から去っていく。

 人間の視点と人間の肉体の結束は自明のものではない。いつかのメールで狭霧が言っていた。人は他者の視点を想像する。誰かの目を借りる。私の視点もまた借り物なのかもしれない。階段を駆け上がってホームに辿りついたちょうどその時、電車のドアが閉まる。窓の中の無数の目が捉えた私の姿を私は見る。わずかに乗り遅れた哀れな女、途方に暮れた女。その姿はホームの上に遠ざかっていく。私は私の体からどんどん遠ざかる。目を瞑る。視点は戻り、私の体がある。列車の長い灯りが遠くに細く見える。赤いテールランプがレールに反射している。ここはホームだ。

 深理さんは男たちの目に必要と意味を求め、その汚辱の浄化と発散した自己の回収を白州さんの目に求めた。

 上りは電車もほとんど無人だった。隅の席に数人。コントラバスのケースを寝かせてドアに通す。立てるとその頭は吊革の梁まで届く。中吊り広告に掠る。ベンチの真ん中に並んで座ると向かいの暗いガラスに僕は体半分までケースの陰に隠れて映らない。深理さんはすっかり見えなくなってしまう。やっぱりニケを持ってきた時のことを思い出す。

「楽しかった?」深理さんが訊いた。

「楽しいけど、居づらかった」

「ごめん」

 それは彼女にしてはあまりに素っ気なすぎる一言に感じられた。僕は何か答えようとしていろいろな言葉を口に出しかけ、でも結局何も言えなかった。

 深理さんはなぜ僕をパーティに誘ったのだろう。誘ったというか、引きずり込んだのだ。かといって何か僕と話したいことがあったわけでもないし、白州さんと話してもらいたいことがあったわけでもない。もちろん、余興をやって楽しませてくれ、というのでもなかった。僕はただそこにいただけ、存在していただけだ。時間と空間を共有していただけだ。

 だからたぶん、そこに意味があった。僕がそこに存在して時間と空間を共有することを彼女は必要としていたんじゃないだろうか。

 でも、何のために?

 あるいは彼女は白州さんと二人きりになりたくなかったのだろうか。二人きりにならなければできない何かを拒絶していたのだろうか。

 わからない。ただそれはちょっと考えにくい筋だった。中入りの間彼女はずっと彼と話したそうにしていた。ガラスの外を気にかける彼女の心は僕には到底手の届かないもの、触れられないもののように感じられた。僕はその時胸が苦しくなるくらいだった。

 だから彼女が僕のことを白州さんの席に座らせようとしているわけではないことは確実だった。ただ何か別の意味を求めていて、それは彼女と彼の関係にヒビを入れてしまうものかもしれなかった。

 今日、僕の存在に意味があったことは確かだ。でもそれが本当に僕でなければならなかったのかどうかはわからない。ただちょうどいいところにあったのが僕という置き物だっただけなのかもしれない。

 それは僕という個にとっての屈辱なのかもしれない。だとしても妹さんの狼藉のような反感を覚えないのは、きっと僕が彼女を好きだからなのだと思う。僕は少なからず彼女の必要によって生きる意味を与えられている。僕の存在そのものが彼女にとって意味のあるものなのだ。たとえそれが結果的なものであったとしても、だ。

 僕は深理さんの横顔に目を向ける。まだ頬が仄かに赤い綺麗な横顔。僕は喉の奥の蟠りが少しずつ甘くなるのを感じる。

 その満足は確かに危ういものかもしれない。でも僕はまだそこから抜け出すことはできない。そのための情報を与えられていない。今は、まだ。

 北千住から手島家に向かって歩く。コントラバスを肩代わりしようか訊いたら、「これは私に持たせておいてよ」と言われた。白州さんが買ったものだから彼にだけは預けられる。

 駅前のちょっとした喧騒を過ぎると道は地底のように静かで、自分の話し声やコントラバスの車輪の響くのが気にかかるくらいだった。

「寒くないですか」

「そう?」

 僕は寒かったけれどアルコールのせいか深理さんは平気そうだった。手袋はしているけれどコートの前は開いている。

 闇夜の手前をアオサギが一羽鳴きながら飛んでいく。ちょっと伝説の生き物の鳴き声みたいなので夜遅くに外で聞こえると夢に閉じ込められたような気分になる。

 実際、現実味のないシチュエーションじゃないだろうか。二人のパーティに引き摺りこまれて、お酒も飲んで、真っ暗な時刻に帰ろうとしている。

「鳥の声?」

「アオサギじゃないかな」

 上を向いてアオサギの影を探しながら深理さんは嘆息をついた。「標高二千メートルくらいに住みたいなあ」

「急ですね」僕はポケットに両手を突っ込んで首もぎゅっと縮めていた。

「山の上に住むってちょっとした夢なの。家は頑丈で飾り気のない平屋で、辺りに背の高い木はほとんどなくて、ハイマツか高原の草花で、晴れた日はハイマツの上に布団を干して、隣家は角笛も届かないくらい遠くて、谷の向こうに隣の山が見えて、郵便や新聞は麓まで自分で取りに行かなくてはいけなくて、ついでにごみを持って下りて、その時に使う峠の道はピクニックに行く人なんかがたまに使うくらいで、道に面したゲートから家まで二百メートルくらいあって、毎朝霧が出て、その中を散歩に出ると時々ライチョウやなんかを見つけて、冬は十一月くらいには雪がどかどか降り始めて、一面真っ白な平面になって、毎日雪掻きに追われて。あとは、麓の町のレストランやどこかで時々弾かせてもらうの。どうかな」

 僕は景色をじっくりと吟味してから頷いた。

「本当に?」深理さんは確認した。

「本当に」

 しばらく黙って歩く。風は冷たい。

「接客と会計の仕方と、必要なことを教えてくれたら、深理さんが大学を出た後、おやじさん一人では駄目でも、僕でよければ手伝いますよ」

 その答えは深理さんにとって心底意外で恐るべき提案のようだった。彼女は交通事故の映像でも見るようなぞっとした目で僕を見た後、前に直って「ばか」と呟いた。

 それはさっきの「ごめん」に比べればよほど彼女にふさわしい口調だったし、ちょっとした皮肉ではあったのかもしれないけれど、でも彼女が僕にバカと言う筋合いは全然ない。それは本当に僕に向けられた言葉だったのだろうか。酔っているからそんなことを言うのか、それとも僕の方がおかしいのか。

 家の前につくと彼女はサンバーと塀の間を蟹歩きに入っていって、その長細いところから顔の横に手を上げて「おやすみなさい」と少し硬い微笑で僕を見送った。


 そこから家に着くまでに僕はどっと疲れて、着替えるだけ着替えてそのまま布団に倒れ込んでしまった。

 その夜は魘夢だった。僕は蛇だった。蛇は長さが十メートルくらい、顎は人の頭より大きい。全体が白く、腹はやや灰色で、金色の目のうしろから尻尾の先まで仄かに黄色い線が伸びている。体の表面には濡れているみたいな艶があって、でも実際にはさらさらと乾いている。蛇は深理さんの使いのようだ。彼女が歩くのに従って頭を同じ高さにして這い進んでいく。深理さんの像は水滴の付いたレンズ越しに見るみたいに輪郭がぼんやりしていて、服は暗い色の上下で、長いスカートと低い靴を履いている。

 彼女は暗い道をまっすぐ歩いていく。そこはまるで世界のあらゆる景色や地形を剥がしたあとの容量のない暗黒のようなとてつもない広がりを持っていて、足元にはうっすらと水が溜まっているようにも見えた。けれど光がないので水面を揺らしても確かめてみることはできない。深理さんと蛇はまっすぐ進んでいく。やがて細長く立ち上がった街灯に照らされて「島」が現れる。それは時にJRの長すぎるホームであり、時に閑静な公園の人気のない一角である。そこには見知らぬ男が待っている。実際に手島模型を訪れる客や彼女の同窓生なのかもしれない。男は彼女を呼ぶ。けれど蛇にはそれが彼女の名前であるようには思えない。彼女が男の前に立ち止まると、蛇は彼女を半分だけ振り向き、したがって瞳孔の丸く開いた金色の右目で彼女の答えを見守る。深理さんはかぶりを振る。すると蛇は二人の間に割って入り、二重に開く顎骨を開放して口を大きく広げ、男を頭から丸呑みにしてしまう。蛇の喉や腹は呑み込んだ分だけ一時的に膨れ上がり、また次の島に辿り着くまでにそのふくらみが長さに変換されて蛇は成長していく。

 やがてひときわ明るい島の上に白州さんが現れる。彼は手を広げていつものように深理さんを呼ぶ。蛇は彼の右手に噛みつく。深理さんははっとして「やめて」と何度も叫びながら蛇の首に組みつく。ここまで他の男を呑み込むにあたってほとんど主観的な感覚はなかったのに、どういうわけかアドレナリンが切れた時のように写実的な感触が急速に大きさを増してくる。口の中に細く温かいものがある。蛇は口を開けて吐き出そうとするけれど、喉の方を向いて尖った奥歯にその先が引っかかって彼の右手はずたずたに切り裂かれてしまう。爪が剥がれ指が千切れ、薄紅色の肉が露出する。破れた皮膚がぼろきれのようにぶら下がっている。そこに赤い血が滴る。腕にも深い裂傷を負う。白州さんは肘の上を押さえて動脈を止める。蛇の口の中は血の味と匂いでいっぱいになっている。あまりに写実的な味。僕は咳き込んで黒い水の上に横たわる。そのうち咳と一緒に胃の中のものを吐き出す。

 僕は現実でも咳き込んでいた。そしてその衝撃のせいで目が覚めた。僕は暗く冷たい空気の中にあった。毛布を引っ張って全身を隈なく隠す。特に爪先が外へ出ないように。鼓動が早い。全身の血管を内側から破こうとしているみたいだった。魘される時はいつもこうだ。布団の中に自分の領域を守っていないと恐怖で死にそうになる。外には怪物がいるのだ。少し顔を出した瞬間に目が合ったらそれでお終いなのだ。

 鎮まれ、と自分に祈る。息を深くして蛇のイメージを頭から追い出そうとする。でもなかなかうまくいかなかった。夢の場面が何度もぐるぐると再生された。黄色い目玉、長い牙。じっと気配を殺して相手の気配を窺う。

 自分の恐怖が相手を呼び込んでいるのだ。それはわかっていた。けれど夜闇の中でそれを浄化するのはとても難しいことだった。じっとして長い長い時間をかけなければいけない。

 やがて呼吸も心拍も平静に戻る。部屋の空気に動きはない。恐ろしい気配も薄まる。一度力を抜いて毛布の中の空気を入れ換える。暗い天井と青白い照明の覆いが見えた。脚を伸ばして眠る時の正常な姿勢に戻る。布団を引っ張って掛け直す。

 次に目を覚ますまで夢は見なかった。外は明るくなりつつある。風呂に入っていないので枕と頭の間の感触にちょっと違和感があった。起き上がる。怖ろしさはもう微塵もない。眠たくないのに目を瞑っていたくなる。ワインのせいだろうか。膝の上に布団をかけたまま額を支えて自分の記憶をゆっくり辿った。

 白州さんの話も、深理さんの演奏も、夜の駅の空気も、悪い夢も、一括りに幻想の中へ放り込まれているような感じがした。どれも同じ、妙にリアリティのない輪郭のぼやけた手触りだった。

 その日は日曜日だったけれど図書館へ行くことにした。自転車で荒川沿いの道をずっと上流の方へ走って線路をくぐり、区立図書館に着く。案の定人でいっぱいだった。うんざりした。とても苛々しながらシエラレオネ内戦に関わる本を探して窓際の自習ブースに書架から下ろした本をどっさり重ねて、背凭れと机に体が挟まるくらい深く座って一冊ずつ目を通した。イヤホンを耳に押し込んでおく。

 内戦の発端は一つの部族の出身者が政権を牛耳って集権的な施政を敷いたことだった。まだ一九六〇年代の話だ。それに反感を抱いたインテリの一派が革命統一戦線(RUF)を組織して政治改革を訴えるデモを煽動し始める。弾圧と抵抗を繰り返すうちにデモはゲリラに変わり、RUFは私設武装集団に変わっていった。

 二十年の間に活動内容も過激化した。RUFのゲリラは国内各地の農村に出向いて支持を呼びかけ、それでも靡かない時は自動小銃でもって村民を皆殺しにした。もう少し猟奇的なグループの場合には村民を広場に並ばせて順番に投票用紙を取るための手を切り落とした。あるいは投票所に行くための足を切り落とした。彼らはアームレストに小さな俎板を括り付けた椅子と血まみれのナタを担いで村々を渡り歩いた。手足を失った老若男女は投票どころか日常生活もままならなくなった。仕事も失った。国の産業は次第に停滞していった。

 九〇年代に入って政府は南アフリカの民間軍事会社を招き、第一線の戦術、第一線の兵器で持ってRUFゲリラを追い散らし、戦闘員を血祭りに上げ、首脳陣を捕縛して尽く死刑台に上らせた。政党としてのRUFは残されたが、もはや支持する国民はほとんどいなかった。

 ゲリラが村々を襲って皆殺しにしたやり口はナチ親衛隊のアインザッツグルッペが東欧ロシアに進出した時のものと少し似ているかもしれない。でもRUFがナチ党と決定的に違うのは、与党にはならなかったこと、つまり国民の支持を集めはしなかったことだ。RUFの行為は確かに狂気だったかもしれない。でもそれは一国を覆い尽くしほとんど全国民を心酔させるほどの巨大な狂気にはならなかったし、だからこそ彼らの狂気は全世界の行動を促すほどの問題ともみなされなかった。シエラレオネ内戦は確かに内戦だった。

 そしてもう一つの大きな違いは、場合によっては彼らが傷つける相手に生を強制したことだ。彼らは服従を求めることによって、あるいは手足を奪うことによって死ではなく今までと違う生き方を、つまりは生きることを求めた。それは最終的にユダヤ人の絶滅を思考しつつも欠かせない労働力として生かさざるを得なくなったナチとは逆なのだ。人々は手足を奪われ、今までとまるで違う不自由な生き方を強いられ、それでも生きることそれ自体は許されていた。それは死の恐怖には及ばない。ただ全く方向性の違う拷問に似た苦しみを与えられたのだ

 僕の瞼の裏には依然として蛇の目を通して見た肉や血の色が生々しく刻まれていた。事実はそれが僕の空想に過ぎないことを教えてくれるかもしれない。でも完全に中和することもできない。むしろそうした争いが暴く人間の陰惨な素質を知る。過去に栄光を残したまま暗く低い道を行くのはきっと死ぬよりも苦しい。それでも彼らは生きる。歩き、あるいは這いながら。


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