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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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ワインとウェルチ

 それから白州さんはまた話題を変えた。「手島模型での仕事はどうだい?」

「最近は欧州戦線の飛行機をよく描いてます。ここ一月くらいかな、結構調子が良くて」と僕。

「メッサーシュミットやら?」

「ハインケルやらアヴロやら」

「確かに、そうね、最近持ってくる枚数が多いわよね。壁が足りなくなって専用のファイルを作ったの」と深理さん。

「すると店番やなんかはやらないのか」

「やらない、やらない。手島模型はミシロくんの雇用者じゃないの。取引しているだけよ」

「ああ、バイトじゃないのか」

「そうよ」

「接客とか経理とか、結構いい経験になると思うけどね。僕でも大学生の時分にはレストランでアルバイトをしていた」

「半年だけでしょ? しかも厨房が本業」

「それでも会計の仕方は憶えた。経験は経験だ」

「レストランですか」僕には意外な事実だった。でも想像してみると白州さんはコック服が似合っていた。お得意の腕捲りをしてフライパンをコンロにかけている。

「ちょっと怪しいイタリアンのね。不味くはないんだがニンニクがキツすぎて嗅いでるだけで胃が破れそうになったから辞めたんだ」

「美大生でも、そういう、なんだろう、一般的なバイトなんですね」と僕。

「単科というだけでただの学生だからね。先生の制作を手伝ったところで大した小遣いになるわけでもない」

「館園の監視員や美術予備校のチューターなんかだと思ってました」

「まさしく、僕はそのバイトの後チューターになったんだよ。その塾だけで同じ大学の学生が二人もいたくらいだ。君のイメージは全く間違っていない。今度は僕も長続きしてね、今の教室はその流れを汲んでいるわけだ。そうか、この話まではしてなかったか」白州さんは独りで頷く。それから言い訳っぽく付け足す。「ミシロくんが最初に家へ来た時に教室のことはかなり教えたと思ったが」

「手島模型の場合ですけど、問題は僕に時給を出すのが得なのか損なのかってところじゃないですか」

「そこよね」

「営業時間を広げたからといって客が増えるわけじゃない。分散するだけなら損ですよね。誰も客のいないところに労働力が拘束されているのは」僕は続けた。

「そうそう」

「君には経営の才があるね。経営学科に入ったら主席で卒業は間違いないな」白州さんも便乗して僕をおだてる。「いや、実際のところ僕はミシロくんが芸術系に進んだら面白いだろうとは思うんだが……そうだ、大学の話は前にもした覚えがあるな」

「ねぇ、うちのお母さんの大学においでよ。美術・デザイン系の学科もあるし、公立大だし。ここからは遠いけど、新潟の家から通わせてあげるよ」深理さんは冗談を言った。それは完全なる冗談の口調だった。

「手島家の子になるかい?」白州さんもそう言って大袈裟に笑った。

 僕は何も言わなかったけれど、二人の前で愛想笑いしなければならないのが信じられないような気分だった。

 僕は何か二人を真面目にしてやる話題はないか考えた。

「深理さんはどうですか。大学を出た後も手島模型を続けるつもりですか」

 白州さんが僕から深理さんに視線を移した。

「どうかなあ……。大学にいる間は先のことはあまり考えないようにしているから」

「僕がそう言ったんだよ。現実的な問題から離れて何かに打ち込んでみたらいいって」

 深理さんはグラスに口をつけて半分くらい飲んだ。白州さんはコントラバスのある玄関の方へちょっと顔を向ける。

「何かに打ち込んでみたら、なんて投げ遣りよね……」深理さんは珍しく誰のことも見据えずに呟いた。「私は趣味を持たない人間だったから。人並みに漫画を読んで、友達と遊んで、カラオケに行って。その頃にはもうだいぶ模型に詳しくなっていたけれど、他にこれといって追究したものもなくて。習い事としては確かに音楽をやっていたのよ。でもそれが楽しいって感覚は全然持っていなかった。習い事ってそういうものよね。美味しい食べ物を顔面に押し付けてくるみたいなところがあるでしょ? それがまだ食べたことのないものだったら、美味しいかどうかなんてわからなくて、ただただ嫌な印象だけが残るもの」

 例えが面白かったのか、それとも口調が面白かったのか、白州さんはちょっと笑った。それから「コントラバスは僕が勧めたようなものだけどね」と言った。「もともとは僕の先輩が持っていた大量のCDが発端なんだ。彼が引っ越す時にそいつをどっさり丸ごと僕にくれてね、僕はまたそいつをそっくりそのままどっさりミコトにあげたんだ。その中の半分くらいがコントラバスに絡んだ楽曲で、そのまたかなりの割合をゲーリー・カーが占めていた」

 ゲーリー・カーというのは五十枚くらいもアルバムを出している超人的なベーシストで、コントラバスを旋律の楽器として通用するところまで押し上げた人だ。コントラバスというのは図体のせいでもともと鈍重な音しか出ない楽器なのだけど、カーのコントラバスはとてもぱりっとしていて速い曲にも遅れることがない。酔いの回った白州さんはそんな話を延々と続けた。

 まずブルスケッタがなくなり、カナッペも残り数枚になる。深理さんは風邪でも引いたみたいに真っ赤に染まっていて、一方白州さんはちょっと青ざめているくらいだった。でもどちらかというと深理さんの方が素面だった。

 僕は少しトイレを我慢していた。白州さんがワインを注ぎ足したタイミングで席を立つ。

 トイレは妙にしんとして夜の深さを僕に教えようとしているみたいだった。顔がてかてかしていたので洗面所で顔を洗ってハンカチで拭いた。少しさっぱりして口の周りが石鹸の味になった。十九時を回る。まだまだ帰れる時刻だ。

 リビングに戻ると白州さんがキッチンで皿を洗っていた。深理さんはグラスやボトルを持ち上げて机の上を拭いていた。

 彼女はまだ少しウェルチの残っている僕のグラスを持っていた。

「少しワインを貰えませんか」

「駄目よ。未成年なんだから」

「ミコト、あげなよ。飲んだことはあるから。僕らだけ酔っているなんてすごく居づらいことじゃないか」

「ここに入れていいの?」

 深理さんは僕が肯くより先にウェルチと等量くらいのワインをグラスに足して味見した。

「うん……、悪くないかも」と言ってグラスを僕に渡す。

 縁にうっすら口紅が付いている。僕はその跡を向こうにしてカクテルを口に含んだ。味はあまり変わらない。アルコール特有の熱いような冷たいような気体が口の中に充満した。飲み込むとそれが喉まで広がった。

 彼女はボトルの口を指で拭ってコルクの栓を閉め、それから首をちょっと傾けて僕に感想を求めた。特に含みのある表情ではなくて、それが単に気にしていないだけなのか、それとも僕の反応を面白がっているのか、経験からすればからかわれているのだろうけど、彼女も酔っているのかもしれない。酔っている間は昔の彼女に戻るのかもしれない。それを飲み干すまで僕は白州さんの方を見なかった。見れなかったと言ってもいい。

「何か三人でできる遊びないかしら」深理さんが言った。

「ビリヤード?」と白州さん。

「ごめん、いま左手の指が死にそうなの」

「ああそうだった。どうだろう、僕はすごく卓球をやりたいんだけど」

「二人じゃない?」

「審判が必要だ」

 白州さんは二階から卓球セットを持ってきた。両面のラケットが二本、オレンジのピンポン球が三つ、机に吸盤でくっつけるネット。グラスを片付けて机のちょうど半分にネットを立てる。机の幅に対しネットの長さが足りなくて、どちらかというと小さなテニスコートのような具合になる。グーとパーで分かれて最初に僕と白州さんが戦う。僕はジャケットを脱いでシャツの袖のボタンを外し、裾も突っ張らないようにだぼつかせておく。体育の授業で最近まで卓球をやっていたので自信があった。テーブルは反発が弱くネットも低いので勝手は違う。ちょっと甘い球が入ると白州さんはパワー任せのスマッシュを打ってきて、そいつはどう頑張っても拾うことができなかった。一発なんか首筋に飛んできてそのまま赤い内出血の跡が残った。僕もせこくない程度に返球を左右に振って応戦したけれど、結局スマッシュだけで十一点まで押し切られてしまった。

 白州さんが残り、僕が点数係を深理さんと交代する。彼女はサーブに拘っているみたいだった。高く上げたり、一度弾ませたのをそのまま白州さんのコートに打ち込んだりした。白州さんは何度かレシーブのミスであっけなく点を落としたけど、それでも彼の方が強かった。僕と深理さんではラリーになると僕の得点が確実だった。それから何度か回して、二対一で一番強い白州さんを相手に僕と深理さんでダブルスを組んでみたりして三十分くらい時間を潰した。深理さんが私はもういいやと言ったので道具を仕舞ってテレビを点けてソファで休んだ。

 しばらくして白州さんがうとうとし始める。だんだん瞼が下りて息に鼾が混じる。

「そろそろ帰るわ」深理さんが立ち上がった。

「え、泊っていけばいいのに」

「だってそれじゃあミシロくんのご両親に合わせる顔がないじゃない? まだ十七よ」

「そうか、まだ十七か」白州さんはのっそり立ち上がってコートを羽織りに行った。

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