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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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居心地の悪いパーティー

 僕は「冬景色」を鼻歌に歌いながら席に戻った。世界の始まりの海に漂っているみたいな不思議な気分だった。白州さんは後半の演目が始まる直前に戻ってきて、ずっと冬の寒気に触れていたせいで全身が冷たくなっていた。彼の手が僕の手の甲や腕に触れたわけではないけれど、纏っている空気の感じが凍っていた。彼が座ってすぐ歌手と伴奏がステージに出てきたので僕が深理さんと何を話したのか彼に話す時間はなかった。プログラムはまず声楽の続き、オルガン、それからオーケストラでブラームスの交響曲第四番。

 この交響曲は教会建築のような曲だと思う。緻密かつ厳格。単に重厚なのではなくて、細やかさが全体に行き渡っている。後期ゴシックのスクリーンや柱頭にある繊細な木彫のような。ただ、時々金管が目立った音を立てていて演奏としては少し興醒めだった。

 コントラバスの音は注意して聴いていないと判別できない。低音で変化がない。オーケストラを一番下で支える基礎のようなものだ。目立たないけれど、たぶんコントラバスがなければ全てが成り立たない。演奏者の間にある暗黙の連携が破断してあちこちから崩れてしまう。その暗さと重さがコントラバスの性格であり、それはどこか冥界や死のイメージにつながっている。

 深理さんは端の席だった。楽器の肩に胸を預けて左腕を首に回し、高い音を引く時はもっと上体を倒して顔は少し上げたまま楽譜を見ている。薄く開いた唇の端は無表情に下がり、力の抜けた頬が少し膨らんで見える。視線が客席に振れることはない。観客の視線に対する感覚は麻痺している。一転、出番のないところになると譜捲りをして高椅子に座り直し、顎を高くしてこちらを眺めていた。アンコールで指揮者が演台と袖の間を行ったり来たりしている時なんか、額の汗をぬぐったついでではあるのだけど、挙手の敬礼みたいに眉の先端の辺りに指を当てる仕草をして、どうもこっちに合図をしていた。中入りに席を訊いた時から仕込んでいたのだろうか、それともちょっとハイになっているのだろうか。僕の感じでは後者だった。白州さんは反応して手を挙げてちょっと振っていた。客席の方が暗いしステージに向かっている照明もあるのだけれど、彼女はちゃんと見つけて今度ははっきり手を振った。ステージから客席に向かって勝手にアピールしているのは彼女だけだった。

 アンコール演奏のエルガーのニムロッドが終わると僕と白州さんは他の客が大方捌けるのを待ってゆっくり席を立ち、ロビィで深理さんが出てくるのを待った。

「結局終わるまでミコトと話せなかったな」

「さっき手を振ってたじゃないですか」僕は首にマフラーを巻きながら言う。

「君に振ったのかもしれないぜ」

「まさか」

「まあ、どちらにしろ話はしてないな。手を振るというのは。最近ちょっと接触が少ないんだよ。週に一日か、会わないこともあるね。お互いこの時期は忙しくなる。彼女は大学のあと楽器をうちに持ってきて、地下室ならほとんど音漏れを気にしなくていいからね、気が済むまで弾いて、朝に家まで送りに行く。会う時はいつもそんな感じだ。彼女のお父さんには少し寂しい思いをさせるけどね」

 深理さんはコートを着込み、フラップ付きの革製の薄いリュックを背中にかけて、その上から背負うようにして楽器のケースを転がしてきた。コートは丸襟の白砂色、ボタンを左にオフセットした打ち合いの深いシングルの膝丈のもの、その下にスカートの裾のレースが見える。タイツを履いている。舞台に上がる時のドレスは足首まであったから、着替えたのだ。パンプスはそのままだった。

「残念だな。君のドレスを見たかったよ」と白州さんは挨拶に片手を持ち上げたまま言った。

 外はほとんど日が落ちている。空の縁にかろうじて赤味が残るくらいになっていた。

 白州さんがコントラバスを預かる。アスファルトの上になるとケースの車輪ががらがら唸った。我々は三人で国道に向かって歩きながら演奏会の舞台裏や普段の練習の様子だとかについて話した。白州さんが司会をやって深理さんに話を振るので自然と二人が前になって、僕は仰向けに転がされているコントラバスのケースと顔を合わせながらその後をついていった。

「駅、こっちですよね」僕は道の角で立ち止まって二人を呼び止めた。話をぶった切るのにかなり勇気が必要だったけれど。

「車で来たんだ」白州さんが振り向いて言った。

 僕はその場で困った表情をするしかなかった。

「ねえ、一緒においでよ。お願いだから」深理さんは二人の顔を見比べてから言った。

 白州さんも肯く。

 彼は本当は深理さんと二人で食事したかったのだろうけど、深理さんが僕を誘ったので仕方がなくなってしまった。そんな事情がかなり露骨だった。僕はますます帰りたくなった。帰ればよかったのだけど、僕が優柔なのは認めるにしても、深理さんがどうも気を遣って誘っているわけではなさそうなのが気掛かりだった。

 僕は結局二人についていくことにした。

 夜の松戸の空気は冷たく湿り、休日だというのに冬の人々は街灯の下を凍った表情で足早に歩いていく。

 コインパーキングに白いノアを見つける。コンクリートの塀に鼻先を近づけて道の方へ尻を向けている。その向きでないとトランクにコントラバスを積み込めないのだ。ハッチを上げると二列目の座席は左右とも倒されていた。フロアに渡してあるバンドでケースを押さえる。僕は木彫りのニケを思い出す。

「ニケみたいだ」

「ああ、あれは大変だった。あれを途中までは電車で運んできたんだからね」と白州さん。

「コントラバスはどれくらいなんですか」

「ケースに入れて二十キロくらいかな」と深理さん。

 その重さをお米で想像してみる。十キロ二袋。ニケの方が重かっただろうか。

 深理さんが白州さんの財布を持って精算する。車をストッパーの外に出してから二列目の右の席を起して僕が座る。

 ノアは縁石を下りる時にがたぴし揺れたけど、コントラバスはフロアのカーペットにへばりついて大人しくしていた。僕が押さえていなくてもこの先問題なさそうだ。

 街灯のオレンジ色が窓ガラスに映る。ガラスに顔を寄せると対向車のヘッドライトや道沿いの看板が眩しい。上を向くと曇った黒い空の手前に高い街灯が挨拶もせずに次々と流れ去っていく。

 いつの間にか白州さんの屋敷に着く。どんな道を辿ったのか僕は把握していなかった。ほとんど幹線道路で、橋を渡って、最後の方はくねくねと細い道に入ったくらいしか憶えていない。なんだか知らない場所へ流れ着いたみたいな感じがした。でもよく見て少し歩き回ってみるとやっぱり白州さんの屋敷だった。

 コントラバスは白州さんが背負って登る。後ろから見ると大きなカブトムシみたいだった。足取りは重いが彼は弱音は吐かない。深理さんはポストを内側から確認して夕刊と二三封筒を持って階段を上がり、白州さんに追いついてケースの尻を押し上げる。切り返しで左右の欄干と擁壁に擦らないように気をつける。玄関を開けてようやく土間の隅に立てておく。

 リビングのテーブルには作り置きのカナッペが大皿にラップをかけられている。

 我々はコートを脱いで手を洗う。深理さんがコートの中に着ているのはウールのグレイのワンピースだった。長袖、腰から下は黒いサテンのフレア、胸元から肩にかけてとスカート部はレース模様が付いている。

 白州さんは僕と深理さんをテーブルに着かせて大皿のラップを剥がす。「先に前菜をどうぞ」と言う。

 深理さんは生ハムと黒オリーブのカナッペを選んで美味しそうに食べる。

 それから白州さんは上着を脱いでベストの襟を整え、キャメルのタートルネックの袖を捲る。オリーブの俎板でバゲットを斜めに切り、オリーブオイルを垂らしてトースタに入れる。焼き上がったところに冷蔵庫から出したトマトのマリネをスプーンで乗せる。ブルスケッタが出来上がる。

 グラスと赤ワインのボトル、それとウェルチのぶどうジュースを出してきて注ぐ。

「冷たい方がいい?」と僕に訊く。

「いいえ、そのままで」

 彼は手際よくワインのコルクを抜いてグラスに注いでいく。ウェルチも注ぐ。キッチンから見て右奥の席が僕、右手前が深理さん、まだ座っていないけれど左手前が白州さん。二人が向かい合って、僕は深理さんの隣に少し離れて座っている。

「やはり岩井さんの仕事は受けようと思う」

 二人の話らしいので事情を把握していない僕は黙っておく。

「じゃあルオさんは説得できるの」

「そのつもりだよ」 

 深理さんは少しこちらに顔を近づけて「受けたい仕事とパトロンの折り合いが悪いの」と説明した。「画家の審美眼を信じて黙って出資するのがパトロンじゃない?」

「現実はそうドライじゃない。出資者にどれだけ恩返しできるかが享受する者の品格だからね。まあ、もう少しの辛抱さ。悪いようにはならない」椅子を引いて座る。「さ、乾杯しよう。ミコトのための会だ」

 各々グラスを持って「芸術と日々の生活のために」と白州さんの簡潔な音頭で乾杯する。

 ぬるいウェルチのなんという甘ったるさだろう。飲めば飲むほど喉が渇きそうな代物だった。食べ物をもらおう。

「いただきます」

 ブルスケッタはさっぱりしていて僕好みの味だった。バゲットの硬さはちょっと上顎に刺さりそうなくらいだったけれど。

「改めて、本日の発表会はいかがでしたか?」深理さんが高給取りのホテルマンみたいな調子で訊いた。

「やはりピアノ・クインテットがよかったね」

「どんなふうに?」

「全体として抑揚の移りやすいところというか、躁鬱の激しいところがダイナミックに決まっていて、かといってお堅い感じでもなく、少し朗らか過ぎるくらいのところが、まあ、あの曲にはいい弾き方なんじゃないかな。アレンジも違和感がないし、弦楽のコンビネーションもなかなかだった」

 シューマンのピアノ五重奏はもともとピアノ一台にヴァイオリンが二挺、ヴィオラ一、チェロ一なのだけど、発表では構成を変えていた。

「私のコントラバスは?」

「目立ってたね」

「それっていい意味?」

「もちろん。主張が強いってわけじゃなく、音に切れがあるのはいいことだよ」白州さんはグラスを回しながら質問に答えている。

「他には? 私のことでも、他の子のことでも」

「それならオルガンはよかったね。彼女は確か去年も弾いていただろう。そうするとかなり上達したんじゃないだろうか」

「ああ、彼女ね。そうでしょう。半年ドイツで修業したって。そこまでする人もなかなかいないからちょっと噂なのよ」

「へえ。オルガンというとやっぱりドイツなのか。北部かフランドルの方かな」

「ごめん。街の名前までは聞いてないわ」

「オルガンといえばバッハか。しかしフランスやイタリアの作曲家もかなりいたんじゃないかな」

「うん。古典的なのはイタリアなの。でも聖歌の伴奏が多いのね。ほら、うちの発表会だとソロでしょう、そうなるとドイツの方がいいみたい」

「なるほど」白州さんはまたグラスを回してワインの匂いを嗅ぐ。

「どう、ミシロくんは何が一番だった?」

「僕も五重奏がよかったですね」白州さんほど巧い表現ではないけれど僕もいくつか感想を言った。「あと休憩の間に外で観客に混じって好き勝手に弾いているのも面白かった」

「パーティみたいでしょう。学生の方もあれが楽しいのよ。緊張もないし、誰が聴きに来ているかわかるし、花束を貰ったり」

「ミシロくんの学校にはホールを使うようなイベントはあるのかい?」と白州さんが訊く。

「合唱祭が。クラスごとに分かれて」

「文化祭とは別に?」

「そう。文化祭は出し物だけで手一杯ですよ」

 僕は二人を文化祭に呼んだのだけど、演劇の裏で大道具の修理や背景の掛け替えに忙しくてほとんど相手をしていられなかった。クラスメイトにも会わせていない。合間に美術室を案内して部員や顧問の作品を紹介しただけだ。二人はOBOGの夫婦みたいに楽しく論評しながら見て回って、僕が戻ったあとは吹奏楽部や弦楽部を覗いたり敷地の中を散歩したりしていたようだ。僕の方は終わったあともクラスの付き合いがあったから詳しいことはわからない。

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