調律、冬景色
ホールの中は依然もやもやした人の声や物音に包まれている。我々の列、通路を挟んで白州さんの隣に老夫婦が座って、夫が妻に書くものはないかと訊いている。ズボンのポケットを探った拍子に膝の上からコートとプログラムが滑り落ちる。
やがて演奏が始まる。最初は声楽だった。ヴェルディの椿姫から「さよなら過ぎ去った日々よ」ソプラノ。それからオーボエやオルガンの独奏や弦楽の重奏があって、深理さんが初めてステージに現れたのはシューマンのピアノ五重奏の時だった。普段はウェーブのかかった髪をまっすぐに延ばして、楽器に隠れてわかりにくいところもあるけれど、首の後ろに引っ掛ける形の肩の開いた黒いドレスを着ていた。彼女はできるだけ客席に意識を向けないようにステージを歩いてきて席に着き、他の奏者と同じように試し弾きをしながら弦のテンションを調整する。楽譜のページを捲って戻す。それから目を細めて客席のあちこちに素早く視線を走らせる。目を瞑って気持ちを整える。何か大きなものと戦う前の緊張。演奏者の儀式。
シューマンの曲の間、僕は深理さんの失われたレガリアというものが何なのかしばらく考えていた。今でも彼女は十分美しいのに。それとも、だからなのだろうか。レガリアが失われたから彼女は美しいのかもしれない。無垢は綺麗だろう。でもそれは白紙のようなものだ。黒鉛や顔料などといった絵の素材はまた汚れでもある。けれど美しい絵を描くのにそれらは欠かすことができない。あるいは切り絵や貼り絵にしても素材となる紙は傷つけられている。無垢には人間としての厚みや意味や価値観の重みのようなものがないのだ。僕は妹さんには惹かれなかった。
オーケストラの前に中入りがあって僕は白州さんと別れてトイレに行った。かなり大勢の聴衆がいるので手洗い場の手前にちょっとした行列ができていた。そこで立って待っている間、高空から落下しているような全身に浮ついた違和感があった。白州さんに聞いた話のせいだ。想像に浸りすぎて現実の体から意識が剥離しそうになっている。
白州さんが知る限りの深理さんのこと。ジェイン・ヨーレンの『月夜のミミズク』。うっとりするような朗読。聴いていたからそれがわかるんじゃないだろうか。彼は一緒に教育実習へ行ったとは明言しなかったけれど、あえて言わないのだとしたら、彼は自分が彼女を破壊から守れる立場にあったと思っていて、それができなかったことを恥じているのだろうか。
人間が唯一完全に消費するしかないもの、それは時間だ、と白州さんは言った。天使像を彼の館に運んだ帰りのことだ。
それはもしかしたら当時に対する後悔から発した言葉だったのかもしれない。彼はもはや無垢の手島深理との時間を新たに設けることはできないのだ。時は過ぎ去り、彼女は決定的に変質してしまった。
しかし破壊がなければ今の二人が出会うことはなかったかもしれない。今の安らぎが過去の罪の上に建っている。矛盾だ。
用を足して手を洗い、その手で顔を拭う、指で目の周りを押す。ハンカチで顔を拭いて通路に出る。ぐるぐるした異常は少し収まった。それでもさっさと逃げ出してどこか広大な場所で分厚い毛布にくるまってひと眠りしたい気分だった。
ロビィでは演奏者たちが楽器を持って知り合いの客と話したりちょっとした曲を聞かせたりしていた。立食パーティみたいな賑わいだ。ホールの中の方が静かかもしれない。僕はちょっと跳ねるくらい背伸びをして人々の肩越しに深理さんを探した。まずコントラバスの高い頭が吹き抜けの階段の下に見えて、それはちょっとエミューの群れが首を伸ばしているみたいな趣きだった。
彼女は同じ楽器のメンバーと並んで「冬景色」を合奏していた。冬景色といっても石川さゆりの「津軽海峡冬景色」ではなくて、小学校の歌の本に載っている方の唱歌だ。演奏というよりは合唱を模したようにパートが分かれていて、息抜き代わりに弾いているのがわかった。深理さんは腕を一杯に伸ばしたハイポジションでヴィオラくらいの高音を担当して、時々額の横まで手を滑らせて振動の心地よい低音に下りてきた。全体に滑らかな伸びがあって心の落ち着く曲だった。
全員が弓を止めるとその一角で小さな拍手が起こった。僕も少し手を掲げて拍手を贈った。深理さんの他に三人の女の子がいて、一人はシックな黒いドレス、もう二人はスーツのパンツにレースのブラウスを合わせた格好だった。拍手が消え入ると彼女たちは聴いていた家族や友達の輪の中に入っておしゃべりを始めた。今の曲が上手だったとか、恥ずかしかったとかで大袈裟に体を丸めて笑ったりしている。
深理さんは弾き終えると腕を前に出してひとしきり背中を伸ばして腰を左右に捻り、それからお喋りには加わらずに聴衆とは逆の方へ振り向いて階段の柱の隙間から窓の外を見ていた。映画館のように仄暗い館内に対して外には昼間の明るさがあり、軒の下で結露したガラスに背を向けて男が二人話している。一方が白州さんだった。
僕は聴衆の間で深理さんが向き直るのを待っていた。周りが盛り上がっている中で一人黙って突っ立っているのは酷く居心地が悪かったけれど、彼女のことを邪魔したくもなかった。義理だ。そうしてようやく気付いてもらって少し安心した。
「白州くん、あそこで話してるわ。仕事の話」深理さんは弓を持った手の甲で腰の後ろを叩きながら言った。アメリカンスリーブの上にジャケットを着ているので露出はほとんどない。ステージの上では髪を垂らしていたけど今はアップにしている。手が届くくらいの距離になるとちょっと制汗剤の匂いがした。だいたい演奏は体力を消費するし、そのうえコントラバスは運動量の多い楽器だ。弦が長いから押さえるのに体を動かす。弓も太く重たい。
我々は階段の支柱を避けてガラスの方に回る。建物の外壁に近い方が幾分喧騒が少ない。みんな寒さから逃げているのかもしれない。
「もしかしてあれが白州さんの言っていたパトロン?」僕は訊いた。
「あれはお客さん。前に百貨店の展示会で絵を買ってくれたの。娘さんがこの学校に通ってるんだって。それでばったり。商売ってわけじゃないけど、大変よね」深理さんはそう言ってE線を指で弾いた。開放弦。ぼーんと低い音が響く。「他の誰かに捕まる前にミシロくんが来てくれてよかったわ」
「他の誰かには捕まりたくないの?」
「ううん。でも、せっかく招待したのに先客さんがいたら申し訳ないでしょう?」と彼女はコントラバスに寄りかかる。他の女の子のコントラバスより赤味の強いぴかぴかした綺麗な楽器である。
「白州さんとは高校以来の付き合いなんですよね」
「うん。だけど当時は付き合いなんて間柄ではなくて、同じクラスになったこともないし、知り合いと言えるかどうかも怪しかったわね。私は彼のことを話には知っていたけれど。なにしろ彼はちょっとしたスターだったから。悪名高いというか、お騒がせというか。好き勝手に学校を休んで、それでもテストの点はよくて、学校にいない間何をしているのかさっぱり分からない。そんな噂はよく聞いたわ。校内に何かしらビラだとかポスターだとかが貼り出されると、彼の絵はやっぱり群を抜いていたわね。それで姿を見せる度に誰かが何か依頼してるんじゃないか、描いているところを見られるんじゃないかってクラスや生徒会室にちょっとした見物人が集まって、といっても四五人程度だけど。私は興味はあっても作品を見ているだけで十分だったから、そういうイベントは通りがけに見かけたくらいね」
「白州さんはよく自分でアウトローだって言うけど、嘘じゃなかったんですね」
「そおよ。不良ではないけど、とんでもない外道だったの。身形だって昔はあんなにきちんとしていなかったし。ちょっと信じられないというか、奇跡的な変身よね、彼の性格を考えると今あんなに真面目にやっていられるのは環境のおかげじゃないかな。それは確かに彼の才能の対価だと思うけれど、今の生活を得られたのは本当に幸運だった」
それから深理さんはコントラバスを抱いたまま僕に正面を向けて首を低くして、じっと視線の圧力を注いだ。なぜ今更高校のことなんか詮索するの? そんなふうに。
僕はズボンのポケットに手を仕舞って、叱られたネコみたいに白州さんの背中に目を逸らしていた。それでも顔をちょっと彼女の方へ向けていたのはその圧力を拒絶はしたくなかったからだと思う。
僕を窮地から救ったのは稲浪だった。控室のあるホール横の廊下から歩いてきて深理さんを呼びながらその背中にくっついた。
深理さんは突然抱きつかれたのでふらふらしながら、目を大きくして襲ってきた人間を確認した。「ミシロくん、彼女は前にうちの店に来たことがあるんだけど」
「さっき挨拶したので大丈夫ですよ」
「そうなの?」
深理さんは稲浪が胸の下に手を回して肩に頭をくっつけているのをいささか邪魔そうに、寄りかかっていたコントラバスから体を起し、弓を左手に持ち替えて右手でコントラバスの首を支える。
「うん。憶えててくれたよね」と稲浪。「発表も聴いてくれた?」
僕は肯く。発表という表現は意外だった。演奏というよりも発表なのだ。観客にはわからないけれど、学生にとっては、少なくとも稲浪にとっては学びの一環なのだ。
彼女は声楽のソプラノで、もう一人の学生とペアを組んで、プログラムによれば、アレッサンドロ・ストラデルラの『恋するモーロ人』から第三幕第一場を歌った。
「君はオペラやクラシックを嗜好するの?」と稲浪。
僕は首を振る。「あまり。時々オーケストラを生で聴きたくなるけど」
「歌は?」
「何と言うか……綺麗な声でしたね」
僕が難儀しながらほとんど真横に首を傾けて答えると稲浪はちょっと上を向いてぷっと吹き出した。「声楽やってるやつにそんなこと言うなよお」
「安易な表現しか出てこなくて」
「まあ、でも、先生みたいにせせこましく講評されても困るよね」
深理さんは腰下に巻き付いた稲浪の腕を弓を持った左手で押し下げたまま窓の外へ目をやって、時々稲浪に注意を戻している。こちらの会話にはあまり興味がないようだった。
「今日は招待で来たんだよね」稲浪の方も深理さんの様子にはあまり気を配らずに、でもほとんど無意識に彼女の腰を撫でながら、僕と話を続ける。
「ええ」
「じゃあ彼女が弾くところを見たい気持ちもあったんだね」
「まあ」
「ここにいる人間のほとんどは学生の身内で、でも身内のためだけに来ているわけでもないんだよね。声楽も管弦楽も技術はプロの録音に比べたらお陀仏だけど、君が言った通り生の演奏っていうのはたぶんそれだけで魅力的なものなんだろうね。どんなにドでかいスピーカを家に置いている人でも、地元の弱小オケの公演を聞きに行っちゃうものなんだよ」
「それはわかります。たぶん環境なんですよね。臨場感というか。ホールに自分の席があって、ステージには楽器があって、奏者がいて、そういう専用の空間を共有している」
稲浪は廊下の方に顔を向ける。ぼちぼち楽器を持った集団が舞台裏に戻り始めていた。
「そろそろ時間だよ」
「あと何分?」深理さんは呼びかけに振り向いた。
稲浪は応えて懐中時計を見せる。
「あ、ほんとだ。ねえ、あなたたちの席ってどのあたりなの?」
「一階の前の方ですよ。少し右寄り。ステージに向かって右寄り。……ああ、何列目だろう。七か八か、それくらいだと思います」
「そう、ありがとう。じゃあ、ミシロくん、白州くんをよろしくね」深理さんは言いつつ窓の外を横目に見た。
「ごめんよ、今日はデートだから、これにて」と稲浪は言い残して深理さんを連れていく。女二人でデートをするから君は一人だぞ、という意味なのだろうか。よくわからない。
僕はあまり音楽を嗜まない人間なので曲選びにはいつも難儀しています。




