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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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ヌードモデル

 白州さんは話を続ける。

「当時僕の下宿は北上野にあって、町並みからして狭くてごちゃごちゃしたところでね、見かけはほとんど本とか画材とかを詰め込んでおくための押入れのようなものだったが、それでも僕はその中で生きていたし、よく絵を描いてずいぶん汚したから、四年になって引き払う時には壁を塗り直してやらなきゃならなかった。アトリエって呼んでいたのは、うむ……なんでかな、そうか、通りに面した門がアールヌーヴォーみたいでね、そこから奥の階段までまっすぐに抜けるトンネルがあったんだ。それがちょっとした趣を醸していたからかな。彼女を招き入れたところで僕はとりあえずお茶を出して、画材を用意して、その間彼女は針金みたいなちゃちな脚のついたちっちゃなテーブルでお茶を飲んでいたんだけど、『ねえ、服は着たままでいいの』って訊いた。

 もしかしてそういう意味だと思ったのかって僕は焦って訊き返したね。

『かもしれないなって思ってちょっと身構えてたの』彼女はそう答えた。『でも、実際、裸の人をモデルに描くこともあるのよね』

 それは偏見だったな。画家だからって誰かを真ん中にイーゼルで囲んで一斉に描くことなんて滅多にないんだよ。無論、滅多にないってだけで、やった試しがないわけじゃなかったけどね。

 僕は窓の前に椅子を置いて、そこに彼女に座ってもらって、絵を描きながら話を続けることにした。画家とモデルが絵の制作と並行しておしゃべりするかどうかは画家次第だな。どうしても気が散るって人間はしないだろうし、僕の場合にはあまり頭を使う話題でなければ平気だった。つまり論理学の守備範囲の手前までだな。論理頭が出てくると僕の絵はてんで駄目になるんだ。あくまで感性が独裁していないとだめなんだよ。

 一方彼女はモデルの心得が気になるみたいだった。『自分が描かれている時にモデルの人はどんな思いでいるのかしら』とね。

 ヌードモデルは大抵副業なんだよ。本業としてやっていくのは需要を見ても身体的にも厳しい。一日に八時間もじっとしていたら、まあ普通は二十分置きに休憩を挟むんだけど、それでも一日中じゃ体がコンクリートみたいになっちゃうね。だから大抵は別に本業を持っている。女性の場合、勤め人、主婦、学生、身分はいろいろだな。僕が話を聞いたのはファッションモデルをやってるって女の人だった。つまり普段から自分の体を意識すること、必要なポーズをとることに慣れた人だ。その人によると、ショーの時には人前に出るということだけじゃなくて、自分の裸体を晒すことも覚悟しなきゃいけないんだそうだ。当然露出の多い服もあるし、透けている服もある。服のラインを潰さないために下着をつけないことが屡々あるし、舞台裏ではさっさと着替えなきゃならない。確かに覚悟がなければできないことだ。だけど、もし抵抗がないのなら大して重たい覚悟でもない。その人はその点ちっとも悩まなかった。自分の肉体に自信を持っているし、それが損なわれないように努力していた。

『展示会や教室で大勢に見られる時ってどんな感覚なのかしら』

 それはつまり、見る人の視線をモデルがどう感じるかってことだよね。それならその人は意識していなかった。ポーズを維持しないといけないって体の緊張はあるんだけど、頭では何か別のことを考えているみたいだったな。ふとした時に少し表情が変化するんだけど、それが周りの画家たちの言動とは全然無関係なタイミングで変化していた。言ってみればその人はモデルをやっている間は体の表面にしっかりした殻を閉じて、全く外側に影響を受けない内側で自分の時間を楽しんでいるらしかった。

 僕はデッサンを取りながらこんなふうにモデルの話を聞かせていたんだけど、彼女は何も訊き返さなかった。彼女も考え事をしていたのかもしれない。でもそれが何なのか僕は想像しなかった。彼女は慣れたモデルと同じように肩の力を抜いて固まっていた。

 そのうちタイマーのアラームが鳴った。彼女は肩と腰を伸ばして、僕は調子を訊いた。首が攣りそうだって答えだった。君ももう知っているだろうけど、彼女は肩と背中と腰が、特に腰かな、すごく弱いんだよ。時々起きられなくなるくらいだからね。

 僕は描き始めると工程の最初の一割くらいは筆が速い方だから、彼女はデッサンを見てちょっと驚いたな。で、それからちょっと思いつめた感じに、もう一度始めから描いて欲しいって言った。どうしてって訊いても、お願いだからって、それだけだ。結構いい具合に描けていたんだけどね、まあ、いいや、紙を新しいのに替えて、タイマーをかけて。新しいポーズをとって、形を見て、そうして僕が手元に目を落とした時だ。彼女はそろっと襟のボタンに手をやって服を脱ぎ始めた。ああ、前開きのワンピースだったね。途中で腰紐を解いて、上から下までボタンを外す。前を開いて袖を抜き、シャツを脱ぐ。

 僕はどうしていいものかこの時ほど困ったことはないな。『なぜ今日を除外したの?』って訊かれた時だってこの時ほどじゃなかった。彼女の様子を目の前にして、その要求にはとても根深いものがあるんだとすぐにわかった。だから描くことはできたんだ。けれど裸になった彼女はそれまでよりもっと僕の視線に怯えているようだった。できることなら丸くなりたい、背中を向けたい、それをどうにか我慢しているみたいだった。

 結局僕は見ていられなくなってタイマーを止めた。それから……、そう、見ていられないからといって隠すのに毛布をかけてやったり目を瞑ったりするのでは彼女の意図を突っぱねることになりかねないだろう?

 僕にミコトの全てがわかるわけじゃない。だけど、思うに、彼女は僕の持っている美の苗床に触れることで浄化されたかったんだ。僕が描くことで彼女は芸術になり、人間性の泥濘から隔離された神聖な領域に戻ることができる。僕は血清のようなものだった。

 彼女の関心は美と肉欲の間だった。つまり絵を描く人の目とセクシィなビデオを見る人の目の違いだな。僕は別にそれが対立するものだとは思わないね。むしろ似通ったものだ。古代の塑像には素直に女性の肉体を象ったものが多いし――ヴァレンドルフのヴィーナスだとかね、それに性的欲求から絵の鍛錬に走る人間は今でも多いんじゃないかと思う。僕のある同輩はね、家にインターネットは引かれていないし、エロ本を買ったりする度胸も金もないから、それじゃあ絵を描いて満足しようってことで絵画的生活をスタートさせたんだ。高校時代には友達に売れるレベルになっていた。それでそのまま美大に入ってくるんだから、まあ天賦の才もあったんだろうけど、そいつは大学でも人物の素描では飛び抜けて写実的なのを描く奴だったな。そいつの絵は教授だって、技巧の面では高く評価していた。肉欲は美観を得る動機付けにもなるって証左じゃないかな。

『白州くん、意外にロマンチストなのね。本当に私の体を綺麗だと思ってくれる人も中にはいるかもしれない。けれどそれが全てではないのよ。直接聞いて知っているわけではないけれど、それは絶対にそうなのよ』

 彼女の言い分は正しかった。肉欲を美観の一分とするような考えは違うよ。レイプだとか、暴力的な肉欲もあることは確かだ。そこに対象全体を尊重する心はない。実力に任せる肉欲は土足で人の家を荒すようなもので、そういう人間の目には美観なんかない。ただ、人生の愉しみとして性欲処理のためのセックスを肯定的に捉えている人間が男女とも少なからずいることは事実だろうし、美とか暴力とかそんなお膳立てはなしに単にセックスを楽しみたいという考え方は別に否定すべきことでもない。あるいは異性の癒しとなることに誇りを持っている人もいる。

 彼女は高校を出た後、店の休業日でお父さんも仕事に出ている昼間に一人の男を頼っていた。その男はカナダ人のスカウトで、ビデオサイトの経営者でもあった。そのサイトが配信しているのは女の子が部屋とかリビングにカメラを一台置いてその前で色々する映像なんだ。色々っていうのは、マスターベーションや自己愛撫から、一人で喋ったり、大食いしたり、ダンスを見せたりってだけのもある。大抵は一人で共演者はいない。つまり性交渉はほとんどない。オーディション形式で、撮影クルーがいて、本番のビデオもないわけじゃないが、ほとんどは単独だ。収録の時もあるし、チャットと並行したライブのこともある。日本で言う一般的なAVとは違った形式だけど、北米や欧州ではそういった会員制のアダルトサイトやなんかがかなり普及しているんだ。彼女は高校生の時分に最初に声を掛けられて、その時は応じるつもりなんかなかった。取り合わなかったのは当然だ。だけど事情が変わっただろう。自分がそういう界隈にも相応しい人間になっているんじゃないかって気がしていたんだ。

 その男は、まず、マギル大の経済学部を出て妙なビジネスで成功したなんて、頭のいい、妙な才能のある奴なんだが、加えてなかなか思索的な人間だった。彼女が建設的な生き甲斐を喪失しているってことにすぐ気付いたんだ。男は彼女の良き相談相手になった。彼女を明るくするために方々へ連れ出して、そして多くの助言を与えた。ほとんどは雪の結晶のようなものだった。綺麗だが手の上に乗せればすぐに消えてしまう。男は根気強く日々欠かさず彼女に雪の結晶を与え続けた。その中でも、視聴者が君のことを必要としている、という言葉は効いた。溶けることなく彼女の中に入り込み、ちかちかと音を立てながら光り続けた。彼女の存在は肉欲によって意味を与えられる。彼女を動かすだけの力があった。彼女はそこで写されることを承諾した。その頃の彼女はネガティブな意味で積極的だったんだ。堕ちるところまで堕ちてみようって自棄的な気持ちに生かされていた。それでも、彼女に存在の意味を説いたという点では、根本的に彼女を回復に向かわせたのは、確かに、その男かもしれない。

 男は部屋の扉を閉ざし、準備を進めた。撮影は実感のないものだった。見ている人間が目の前にいるわけじゃない。ただカメラがあるだけなんだ。直接体を交えるわけでもない。でもその映像に視聴者がつく時、こちら側の性行為とあちら側の性行為は確かに連動している。共時性があるんだ。しかもそれは一対一の関係ではない。彼女一人が大勢の相手をしているわけでもない。見ている彼ら一人一人がそれぞれの彼女を相手にしているんだ。あくまでイメージの中でね。そんなことは普通の人間にとっては大した事実ではないだろう。人によって自分の見え方は違う。それだけのことだ。けれど彼女はウェブカムの経験を通してそのことに過敏になっていた。再生数の分だけ彼女の存在は確かになり、肯定されていく。しかし同時に実在の肉体とは無関係のところで彼女のイメージは汚されていくんだ。

 僕と彼女が再会した一日はあまりに重厚な一日だった。僕にとっても、たぶん彼女にとっても。僕が危惧すべきは彼女が浄化を済ませてしまうこと、そして僕の元を去ってしまうことだったし、あまりに急激に関係を進めてしまったことを彼女も意識していた。現状を正しく受け入れて、お互い相手を冷静に見つめ直すための時間が必要だった。僕にとって彼女が、彼女にとって僕が、これからも必要なのかどうか。それは僕も彼女も了解していた。だから彼女は夜が更けても帰ろうとしなかった。次からいつモデルをやってもらうのがいいか、何曜日の何時というところまで話し合った。翌朝も僕が学校に出るまで部屋に残っていた。何より先に、そう、ディナーを作ってくれたな。夕方ちょっと買い出しに出て、材料と安物のワインを買って、スパゲティなんて大した料理じゃないはずなんだが、凝ったトマトソースで、茹で上がった麺にバターを和えて、あれはおいしかった。忘れられないよ。一生忘れられない」

 白州さんはそこで話をやめて、しばらく人差し指の先をつまんでいた。「ひとつ言えるのは、僕とミコトの関係の起源がいささか唐突で、それに、急激なものだったということだよ。ここから先は、僕から言うこともない、今の我々を見てもらえればわかることだ」

 彼は言わなかったけれど、深理さんが直面していたのもアイデンティティの問題だったのじゃないか。彼女の自分は外側から全く見えないところで粉砕されたのだ。初めて白州さんのアトリエに入った時に見た深理さんの絵がその時のものだということに僕は気づいた。あの絵は彼女がその砕かれた状態から立ち直るためのひとつの指標だったのかもしれない。つまり絵という不変のものが彼女の在り方を定めていったのだ。

 それに気付くとともに頭の中がぼんやり痺れてきた。あまりに多くのことを聴き、あまりに多くの過去を想像しすぎた。それは僕のものではない。僕には関係のなかったはずの過去だった。

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