表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
93/132

堕天

 白州さんはそこで上着の内ポケットから試験管みたいなのどスプレーを出して口の中にさした。舞台の上ではパンツスーツを着た学生が譜面台や椅子を抱えて左右に行き来していた。僕は左前に座っているご主人の背広の肩に点々としている白いものがフケだと気付いてからちょっと気になっていたけれど、白州さんの話に集中するために正面の席の背凭れにある席番号プレートをじっと見つめていた。

「僕は君の聞きたい話を話せているんだろうか」

「ええ、続けてください」

 白州さんはのどスプレーを仕舞いながらちょっと壁の時計に顔を向け、それから話を再開する。

「僕とミコトが今の関係に至った二番目の契機は高校卒業から一年と少し経った頃に訪れた。つまり僕の方は芸大の二年目だったわけだが、課題研究のテーマがなかなか思い浮かばなくてね、上野公園で中学生の野球をぶらぶら眺めていた。ううむ、課題研究というよりも学校そのものに対して不満があったのかもしれないな。少し僕についての話になるけど、芸大に通い始めてからというもの、単に指導教員と反りが合わないというんじゃなくてだね、結局、テーマは自由と言っておきながら彼らは自分の弟子として学生を育てざるを得ないわけで、技巧と一緒に価値観だとかも暗に教えている。教授一人の価値観というのは芸術界全体ではほとんど中道というわけじゃないだろうし、世間一般でどんな絵に人気が集まるのかという基準を相手にしたら、もっと極端なものであるはずなんだ。それは学生個々の持っている手付かずの美的感覚を損なってしまうものなんじゃないだろうか。僕はもともと反抗的な人間だから、彼らの指導に対して極めて複雑な思いを抱いていた。つまり、僕は高校やなんかでは、不良じゃないけど、ひ弱で歪んだ問題の多い子供だった。けれど、それは普通であることを求められる場所だからであって、美大やなんかに行けば自分と価値観を共有できる人間集団があるんじゃないかって甘い希望を抱いていたんだ。そして現に大学には一風変わった基準の小さい社会が形成されていた。僕は最初喜んでそこに飛び込んだ。しかしみんながみんな一風変わっているというだけであって、彼らが僕と同じ意見を持っているわけじゃなかった。当然のことだ。集団を維持するためには他の多数に僕が合わせなきゃいけない。合わせるために自分を曲げる。そういう状況が実は少なくなかった。結局苦痛になってきたんだよ。結局僕はどこの社会でも異端らしくみんなから距離を置いて生きていくのが一番楽なんだと思っていた。それじゃあまるで高校時代の生き方に逆戻りだが、なんとか踏み留まって大学生に戻ることができたんだな。それはミコトがいてくれたからだよ。他人の下らない価値観なんか聞き流して自分のことに集中できるようになったんだ。だから、彼女との邂逅は僕にとってもひとつの転換点だった。その直前に僕はあらゆる反社会的不満を抱えながら気晴らしに中学生の野球を眺めていたんだな。狭いグラウンドを囲うフェンスの外から、横道の木陰のベンチにヒッピーみたいに足を上げてさ。表の緑道から案内所の横をちょっと入ったところにベンチがあるんだよ。表のフェンス脇にもいくつかあるけど、そっちは野生のおじさんたちが大概使っていてね、幸い横道の方はベンチがひとつしかないから、そこだけ押さえてしまえば尊い孤独を邪魔されることはなかった。

 声をかけたのは彼女の方だった。彼女は通りがけに試合に目を止めて表から見ていた。それがちょうど緑道を見通すところだったんで僕に気付いたらしい。もしかして白州くんじゃないのかって。近寄ってそっと見てみたら、やっぱりそうだった。僕は酷く驚いたな。誰かに話しかけられる用意なんてしてなかったからね。何よりそれは手島深理だった。僕と彼女が顔を合わせるのは高校の卒業式以来だったし、お互い制服でなしに私服だし、僕はヒッピーみたいにだらしない恰好をしていたし、彼女は僕が知っている頃よりずっと太っていた。彼女はその時ちょっと古風なサマードレスを着ていたはずだけど、いささかタイトというか、あまり体に合っていなかったな。『手島深理か』って僕は訊いたね。そうでもしないと信じられない気分だった。その瞬間の僕はとてもたくさんのことに驚き、うろたえていた。

 彼女は当然の返事に軽く肯いて『座ってもいい?』と訊いた。

 僕はまだ少し頭を持ち上げただけで寝転がっていたからね。さっさとベンチの端に避けて、座面を払って、彼女が座れるようにした。

 それだって所々ペンキが剥げてささくれ立っていたり、雨が跳ねて砂がこびりついているようなところもあって、もともと綺麗なものじゃなかったんだが、彼女はそんなことは気にも留めずに隣に腰を下ろして、革のサンダルの爪先に入った砂粒をいくつか指で取り除いてから、『どっちが強いの?』とまた訊いた。野球の話だ。

 考え事をしていて点数は数えていなかったから、どっちが勝っているかはわからない、とかなんとか、そんなふうに答えたと思うよ。

 それから少しの間どっちのチームのプレイが上手か真剣に観戦してみたんだな。どちらかというと青と黄色の二色使いのユニフォームの方が上手だった。僕に比べて彼女が随分落ち着いているってこともその時わかった。彼女にとっては僕との邂逅くらい、なんてことはない出来事だったんだな。単なる同窓生の一人に過ぎないんだよ。そう思うと僕は自分の緊張が少し馬鹿馬鹿しくなった。彼女の落ち着きがうつったんだ。

 幸いなことに彼女の方でも僕のことを少しは考えていたらしく、二人の沈黙の一点を突いて『ここにいるってことは美大に通ってるのね。授業はないの?』というふうに訊いた。

 十一時頃だったな。午前では一番憂鬱な時間帯だよ。実際僕は取るべき授業を休んでいたんだ。それは正直に言った。相変わらずのならず者だって彼女は思っただろうな。だから何か言われる前に僕も彼女がそこにいるわけを尋ねた。

『妹の観賞会の付き添いだったの。だけど友達と出かけるって放り出されちゃって。先に帰るか、待っているか、迷っていたところ』彼女はそう答えた。それから、せっかくだからもう少し話さないか、近くにいい喫茶店はないかって。

 味の良し悪しは別として何軒か知っている店はあったから、できるだけ空いているところに連れて行こうと思って少し歩いた。あんまり煩いと声が通らないだろう? 野球場の横も少しばかりそんな空間だったんだよ。それなりに応援や野次があったからね。そのせいで話に集中できないのは嫌じゃないか。僕は歩いている間に教授とか課題とか、大学について思っていたことをほとんど彼女に話してしまった。彼女が喋らせたといってもいい。聞き上手なんだよ。どうしてそう思わせるのか説明するのは難しいけどね。

 茶店で席を取ってから僕も彼女の大学はどこかって訊いた。別にどうってことはない質問だ。そうしたら彼女は横を向いて、眉間に皺を寄せて『実は行ってないんだ。受験に失敗したんだ』って。じゃあ浪人生なのかっていうと、それも違うって言う。

『就職ってわけでもないんだけど、家の店を手伝ってるの』

『家の店?』

『うん。ちょっと特殊なの。豆腐とか、洋裁とか、そんなんじゃないの』って。

 彼女のお父さんが模型屋をやっていて、彼女が大学に行かずにそれを手伝っているって僕が知ったのはその時だ。僕は別に模型屋が他人に言いづらいような商売だとは思わなかったけど、とするとだね、彼女がそういう事情を話した相手は以前からの顔見知りでは僕が初めてだったんじゃないかな。むろん憶測に過ぎないけどさ。彼女の話は……、そうだな、結構長かったよ。その茶店は池之端の少し奥まったところにあって、観光客なんかは少なくて、土地本来の静けさとか、軒先の木々の緑の天井とか、僕はそういうのが好きだったな。上手く言えないけど、夏前の蒸した日でも、高原の冷たい水で洗ったみたいな空気がそこにはあるんだよ。その日はたまたま野球を見に行っていただけで、普段のエスケープではその店に逃げ込んでいることも少なくなかったね」

「アジール」

「あるいはシェルター、サンクチュアリ。僕が思った通り静かで涼しくて、ミコトもそこを気に入ってくれたんじゃないかな。彼女がよく喋ってくれるから、僕も夢中になって聴いていた。コーヒーがあとどれくらい残っているかとか、ウェイターの動きとか、周りのことは全然気にならなかった。まるで人間の注意を遮断する空気の層が二人を包んでいるようだった。話が終わってしまったのは、ただ単に、彼女が話をやめたからだ。疲れたのか、頭が空っぽになってしまったのか、背凭れに力を抜いてコーヒーを飲み干した。その時の顔は最初に僕を見つけた時よりずっと明るくて満足そうだったよ。

 それで茶店を出てから、ああ、お勘定は僕が払うべきだったんだけど、彼女が学生に気を遣って割り勘にしてね、それから大学に行って中を案内してみせたんだ。まじめな連中は授業中だから校舎の外は割に静かだった。せいぜい鳥が鳴いてたくらいだよ」

「鳥?」

「じいじいって鳴く小さなカラスみたいな、薄青くて頭の黒いの」

「オナガだ」

「そう、オナガだ。五匹くらいいた。その下を僕が先に歩いて、あれが絵画棟、僕が入り浸っているところ、あれが美術館、図書館……。音楽学部の方は僕もなかなか用がないから新鮮だったね。その時僕は思い切って彼女にモデルを頼んでみた。僕は道具を持ち歩いていなかったし、彼女も僕のアトリエに興味があるみたいだったから、日を改めて、絵に描かせてくれるなら下宿にお呼びしようって切り出した。そんな提案ができた訳は、何というか、彼女が以前ほどは遠くて高い存在には感じられなかったからだよ。あくまで、以前に比べれば、だけどね。その降下のせいで彼女はむしろ他の人間の感性にきちんと訴える存在になっていた。目に見えない神が人の姿を借りて降臨するととても神々しく美しい姿に見える、というような感じだな。彼女も表情や感情を持った人間だということ、それよりも、呆けたり勘違いをしたり、へまをする人間だってことが僕にもようやくわかってきたんだ。そうして答えを待って、彼女が『いいよ』って言ってくれた時――それだけじゃなくてさ、『いいよ。喜んで』だったんだ。まあ、嬉しかったよな。それはすごく人並で俗っぽい喜びだった。だけどそれを押さえる理由も方法もなかったよ。僕は酷く舞い上がって、今夜は部屋の掃除に捧げよう、明日から休まず学校に行こう、そんなふうに考え始めていたところだった。ところが彼女は言ったんだ。『ねえ、どうして今日を除外したの』って。

 僕はまた酷く動揺したな。全身がぶるぶる震えるくらいだった。それでも何とか理性を保って『だって、君は妹を待っていないといけないはずだ』なんて返事をしたんだがね。

『いいのよ。あの子は好きなだけ遊んでくるつもりだから。遅れたら先に帰ってて、なんて言われたもの。私には個人的な用事はないから。白州くんが今日は駄目だと言うなら、もちろん別の日でもいいのだけど』彼女はほとんどきっぱりとそう言った。

 僕は折れて、というよりも覚悟を決めて、彼女の前を下宿に向かって歩きながら、どんなふうにもてなせばいいか必死で考えていたけど、あとから考えてみれば、彼女は同窓生に出くわしたことで完全だったかつての自分自身の気配を感じて、それで取り返しのつかないくらい不安定になっていたんだよ。彼女に会った時点から僕にはある種の責任が生じていたんだ。

白州さんが「手島深理」と「ミコト」を呼び分けていることにお気づきだろうか。

今まで白州さんの発言の中で深理さんが「ミコト」だったのはこれを受けたものです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ