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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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内的な損傷の二つの段階

 白州さんはカフのボタンを外し、ひとつ折り返してまたすぐに戻して袖を正した。腕捲りが癖になっているのだろうか。

「人間の傷は完治するものだろうか」彼は言った。

 僕は彼の袖から顔に視線を戻す。

 白州さんの目は古い深淵の探査からまた一時的に戻ってきて、現実の僕の目をしっかり捉える。

「いや、今のは質問じゃないな。ただ僕の考えを言いたかっただけだ。序詞みたいなものだ。つまり、傷というものには二つの段階がないだろうか。負った時の痛みと、そして傷口が塞がった後のしこりや違和感。この二つが。例えば足首を捻挫する。痛い。腫れて痣ができる。しばらくは歩行もままならない。痛みが引いて治癒する。ここまでが段階一。傷は消え、痛みは引いてしばらく、しかし足首を回すと音がするし、ある方向へ深く曲げると痛みが出る。傷が治癒した後もその不具合は長年消えない。死ぬまで残るかもしれないし、歳をとって痛みが酷くなるかもしれない」

「後遺症ですね」

「足の違和感くらい我々にとっては大したことのない問題だろう。しかし陸上選手にとっては人生を脅かすものになりうる。僕の場合は手が使えなくなると困るわけだ。もし自分の手や指が思い通りに動かなくなったら。とりわけシエラレオネ革命統一戦線の悪行の数々を知ってから、自分の手がちょん切られたら、両利きでもないし、奪い返せるものでもないし、その後の人生に光はないだろうって想像をすることがあるんだけど、現にそのレベルの傷を受けた人もいるわけだね。腕をちょん切られて、傷は塞がっても生きることに困っている人たちが。その中にはもしかしたら僕のように芸術で生計を立てていた人がいるかもしれないんだ。想像できるかい?」

「想像なら」僕は目を瞑ったまま頷く。

「何が致命傷になるかは生き方によって違う。それに、ここからが核心的なところだけど、それは肉体の損傷に限った話ではない。綺麗に内側だけが損傷させられることもある、ということだよ。その傷の深さによっては人生に干渉することもあるだろう。どうだろう、内的な傷の場合、当面の問題が癒されるまでが段階一、段階二は記憶の領域、ということににならないだろうか」

「昔のことを思い出して痛むことがあるように」

「内的な損傷も確かに喪失なんだよ。昔の自分を思い出して過去の幽閉を解いた時、それに比べて今の自分がどれほど逸脱した低い道を辿っているのか、その差異の大きさに愕然とする。ああ穢れなき栄光の道はかも高し」

「今の自分に価値を見出すことができない」

「そう。失われた価値の大きさに愕然とするのさ。もしもそれが失われていなかったら自分の人生はどんなに美しいものになっていたか、とね。人はそれを後悔と呼ぶのかもしれないが。ともかくそれは人生のモチベーションに関わることなんだ。深みに陥った自分自身を見ることで建設的な生き方からますます遠ざかるということは至ってありうることで、いいかい、そこから抜け出すことは決して易しいことではないからね。段階二の恐ろしさはそこにある」

 白州さんはタートルネックの襟に指を引っ掛けて折り返しを少し深くする。脚を組み直し、数秒ばかり眉間に皺を寄せる。視線は足元。

 ホールはまだ人々のお喋りで飽和している。

「うちの高校には職業体験のカリキュラムがあってね、インターンシップというのかな、保育園や公園といった選択肢があって、彼女が希望したのは小学校だった。たった五日限りだけど、二人ずつひとつのクラス、一人の担任の先生について教室の後ろに座って授業参観をやったり黒板の前に出てちょっと受け持ってみたりするんだ。小学校の授業というのは教科に関わらずほとんど担任が受け持つだろう。そうするとクラスごとの流儀がとても強い。一週間足らずでその空気を把握するのは至難極まる。担任の先生がある種の暗号で黙れと言えば一瞬でピンと静かになるし、手を挙げろと命じればみんな勢いよく手を挙げる。ところがこれが別の人間になると、もしそれが本職の小学校教師であっても、黙りましょうと言ったってお喋りを続けているし、手を挙げてと言ってもしんとしている。そういうものだ。人前で話した経験も少ない、子供の扱い方も知らない高校生にとって小学生のクラスは極限の逆境なんだ。まあ、教えてみなければそんなものがあるなんてわからないから、志願者がいるというのはおかしくはないんだが。

 そこで試しに教える教科は学生の方が自分で決める。社会でも図工でも、担任の先生が持ってる授業なら何でもいい。彼女は国語にした。六年生のクラスとはいえ、それでも彼女は巧かった。ジェイン・ヨーレンの『月夜のみみずく』を読んでいる途中だったんだけど、先生といくらか相談して、元の絵本から変えられたセリフとか、本来のセリフが持っている意味とか、そういうのを話したんだ。授業を進める足しにはならない内容だったけれど、まあ、それがむしろ良かったのかもしれない、子供たちはなかなかいい雰囲気だった。彼らにしてみれば先生が違うんだから内容が噛み合っていなくて当然だったんだな。生徒に喋らせる時に担任の真似をしたのも効いたか、そうでなければ、彼らも知らずと気配のレガリアを感じ取っていたのかもしれない。手本に音読して聞かせたのがまたうっとりするような読み方だったからね。彼女は本当に何に当たってもそつなくこなす以上の魅力を小分けに隠し持っていて、新しい横顔を見せた時に人を幻滅させるようなことがまるでなかったよ」

 白州さんはそこから目を細めて、両手の指に少なからず力を込めた。

「しかし、しかしだ、どうしようもなく自棄的になった人間は――もう正常な生き物に戻ることはできないと決め込んだ人間は、だ、自分の死や消失や世界の崩壊を顧みないものでね。彼にとってはもはや神を殺すことすら不敬や罪に値しないんだ。そう、彼がやったのはまさに神殺しだった。

 問題は最終日のその授業が終わった後の昼休みに起こった。一人の男の子が掃除の終わったあとで畑に来てほしいと言って彼女を呼び出した。そこが小学校で一番奥まっていて人気の少ない場所だったからだ。校舎の西側と裏山の法面に囲まれていて、人がいるとすれば朝に当番の生徒か先生が水やりに来る時か、授業で畑の世話がある時くらいのものだった。彼女が来た時そこにはまだ誰もいなかった。早秋のことでね、空いっぱいにトンボがひなたぼっこをしていた。こっそり待っていたのかもしれないけど、彼はほどなく彼女のところまで歩いてきて他に誰の目もないことを確かめた。それから極めて礼儀正しく一礼して、そして彼女に倒れかかった。彼も歳にしては立端があったから彼女の胸に顔を埋める具合になった。彼女はすぐに彼のことを引き離した。彼女はまだ周囲に誰もいないということを確認していなかったし、それ以上に突然のことに驚いて、それで、接触を拒絶するというのは順当な自己防衛だろう、彼女の突き離した指先が彼の頬を引っ掻く形になった。

 彼はしんとしてほっぺたを押さえながら言った。『先生、どうか救ってください』と。

 救うってどういうことだろう。

『息のできる場所を用意してほしい。生きていいと思いたい』

 彼女は彼の様子に恐々としながら『生きていていいのよ。そう思えないの?』と答えた。

 すると彼はかぶりを振って、『生きていてはいけないと思わされることしかない』と言った。

 彼はたぶん失望したんだろう。彼女ほどの存在なら自分の蟠りを受け止めてくれるかもしれないと思えたんだろう。しかし違った。結果は拒絶だった。かすかな期待は打ち砕かれた。彼はもしかしたら彼女の人間的な側面を最初に暴いた人間だったのかもしれない。

 彼は決して貧しい人間ではなかった。友達もたくさんいたし、話も上手かった。平日には毎日習い事があって、その分おもちゃにも事欠かなかったし、家にはプレステとゲームキューブが揃っていた。ほら、大抵ならあるにしてもどちらか一方だろう? 休みの日には遊びに行くか、呼ぶか、そういった男の子だった。彼の両親は勉強や家事の必要性であれば彼に日々口煩く言っていた。でも、もっと根本的に、彼の命や存在の必要性に関しては無口に過ぎた。親にとって彼がいかにかけがえのない存在か、さらにいえば、彼の内なる自己決定がいかに尊重されるべきものか、明確な手段で伝えることをしてこなかった。親と子供で遊ぶ機会が少なかったのかもしれない。ご褒美をあげることと、感情や価値観を共有することは全く別のことだからね。彼の中で親の期待は相当歪めて理解されていたんじゃないだろうか。それはただ成績や立ち振る舞いといった通俗的な基準にだけ頼っていて、彼自身の好む何かに没頭することで親の喜びを得ることができるとは思えなかったのかもしれない。習い事だって、単に種類が多いというだけで、全てをつつがなくこなすためにはどれか一つに没頭するわけにいかなかったからね。他の何を犠牲にしようとこれさえあればいい、という生き甲斐にはなりえなかった。おかげで彼の精神は中空だった。人生は楽しい。でもそこに何の意味や目的があるというのか? 僕が成し得たいものなどない。そんな人間を世界は求めていない。

 しかし境遇が彼を変えたり育てたりしたわけじゃない。同じ親に育てられても自分の存在に疑問を抱くことなく、無垢に生きていける人間もいる、そういった人間の方が多いだろう。彼の場合、自分の命の意味についての疑念は運命的なもので、生まれ持った素質が開化した時に自然と身に付いた視座のひとつだった。いわば先天的にませていたんだよ。そういう子供には大人が嗜む以上の哲学がもっと早くから必要になるものなんだ。例えばキルケゴールの名前をまだ知らなくても、キルケゴールの言ったことを理解して啓発されることは十分可能だろう。そうした子供たちが世の中には確かに存在している。そして彼と同じように多くが不遇の目に遭っている。なぜなら世の中の大勢の大人は愚かにもキルケゴールさえ嗜まず、従って普通の――自分の人生に意味を見つけやすい――子供と彼のような子供とを区別することさえできないからだ。その中でも彼が特別に不幸だったのは、彼の両親がいずれもそうした愚かな大人だったことに他ならないだろう。もし片方でもそれに気付いてやれたら、答えを見せてやることはできなくても、答えを探す場所を残しておいてやることはできたはずなんだからね。

 あるいは手島深理も十七歳までは愚かな大人の価値観を育てていたのかもしれない。当時の彼女は十二歳の少年が自殺を思い立つなんてことに考えが繋がらなかった。本気で彼を心配するよりは自己防衛のための不審と恐れが先に立った。だから改めて彼を抱きとめてやるようなこともしなかったし、彼女が生きてゆくために彼が生きていることが必要だとも言ってやらなかった。そうするべきだったなんて僕は思わない。ただ、ミコト自身はそのことをあとで悔んでいる。

 彼は彼女に望みを断たれたことを確かめるとその場では謝って教室に戻った。その日の帰りの会で彼女の実習も終わった。二人はまるで接点のない元の関係に戻った。彼女は高校で一目置かれる存在に戻り、彼の方は次の日からまた友達と遊び倒して、それから日曜の深夜に回送列車に飛び込んで轢死した。彼女がその事件を知ったのは翌朝のニュースだった。現場の映像を見ても、死人の名前を見ても彼女はまだ何の感情も起こさなかった。自分に関係のあることだと気付かなかったからだ。顔写真と記憶の中の顔がふと重なってようやく事態が飲み込めた。それでも彼の言ったことが本気だったのだと少しの寂しさと感心を覚えただけだった。それが通学の道すがらだんだんと冷たい闇の色を帯びてきた。自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだ、対応次第では彼を生かしておくことができたのではないかということに気がついてきた。人間は直接的な感覚の外で起こった怖ろしい出来事を自分と結びつけて捉えるのが酷く不得意な生き物だろうけど、それでも時間が経てば事実は否応なく理解されるものだからね。授業が始まって少し、教頭が廊下から入ってきて彼女を呼んだところで理解は明確な罪の意識に変身した。もしも彼を助けていたならこんな罪ほど重いものは負わずに済んだのではないか……。仮に彼を救っていたとしてもそれはそれでまた別種の苦があったに違いないと僕は思うよ。だが彼女には起こってしまったことが全てだった。彼女は教頭の後ろを歩いていって校長室で警察の聴取を受けた。警察が彼女を指名したのは彼が連絡帳の最後の行に彼女の名前を書いていたのが見つかったからだ。彼女は洗い浚い話した。もしかしたら伏せていた方がいいことがあるかもしれないとは思ったが、そこに何の目的があって、その目的のためには何を隠せばいいのか、そんなことを考えている余裕はなかった。思いつくことは全て話して、刑事さんにもう戻っていいと言われた。刑事さんは彼女に非があるとは思わなかったらしい。でも腰を上げる気を起せなかった。力が入らなかったわけじゃない。教室に戻るのが怖かったんだ。自分の罪を校長室の中に留めておきたかった。刑事さんが気の利く人でね、プロだからそういった間接的に関係してショックを受けた人々の扱いには慣れていたんだろう、教頭や相棒の刑事を追い出して、コーヒーを淹れて、若年自殺の動機傾向だとかを個人的な視点で聞かせたんだな。大抵は家庭の環境とか、持って生まれたものだって。原因が学校にあったとしても、それは学校に行かない人生を受け入れられない本人のさだめか、隠れ場所を与えられなかった親の責任だ、と。だから君には防ぎようがなかったし、そうすべき責任や義務もなかった。それが説教のあらましだな。彼女は刑事さんの話で自分が彼を死に追いやったわけではないということには納得がいって、まあ、単に時間が経って心が落ち着いたというのもあるだろうけれど、授業が終わる十五分くらい前に校長室を出た。

 授業中の廊下なんてただでさえ背徳の空間だろう。他のみんなは教室できちんと座っていて、端から端まで誰もいない。遅刻か、罰か、保健室か。異端の陰の道だ。彼女はそこで他の生徒たちと自分の間に引かれた境界や、孤独な個としての自分を意識した。誰も自分の代わりにこの重荷を負ってくれない。人が負ってくれないものは自分一人で負うしかない。それまで他の大勢に任せきりにしていた多くのことを一人で考えなければいけない。それは確かに世界の蓋を開いて視野が開けたということかもしれない。でも遠くが見える分だけ不安は大きくなる。彼女の無垢、正確にいえば、罪の意識を持たないでいることが彼女の神聖さに欠かせないひとつの要素だった。彼女はそうしたかつての自分の無意識を自覚した。つまり、それが事実であれ幻想であれ、罪の自覚が彼女を徐々に変えていった。氷河が大地を削っていくように長い月日をかけて、心の性質や、体や、仕草のつくり方、全てを。彼女の纏っていた気配のレガリアも少しずつ色合いを変え、やがて輝きを失った。

 その過程で彼女はいささか自分のことを軽視するようになった。『自分の生に何の意味があるのか』この命題が彼から彼女に引き継がれたのかもしれないが、彼と彼女では当然解釈も異なる。彼女の場合、自分のためにしかならないことに気力が起こらなかった。自分と世界の繋がりみたいなものが希薄になっていた。大学に行くことにも意味を感じなかった。もちろん表には出さなかった。学校では彼女の神聖さは保たれていた。でも受験は失敗だった。そこに彼女のお母さんの転勤が重なって、おやじさんの世話と店の手伝いが彼女の肩にのしかかった。勉強より家事の方がずっと遣り甲斐があった。家計のために働くのでもよかった。彼女にしてみれば、罪を負うということは明るい世界からの脱落であり、償いに自己の尊重はない。自分自身に罰としての奉仕を課し、そうすることで自分を説得した。結局彼女は家族のための生活に落ち着いてしまった」

白州さんは深理さんから当時の話を聞いたのだろうか。それにしてはいささか客観的な情報が含まれていないだろうか。

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