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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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手島深理のレガリア

 制服のない高校だって式典までラフな格好でやるわけじゃない。入学式と卒業式の時だけは礼服が必要だったので、ブラウンの細かな斑点付きのスーツを親から貰っていた。牧場主の跡取りが着るみたいないささか田舎風のやつで、どんなネクタイも壊滅的に似合わなかった。だからそいつを一足早く卸して深理さんの大学の定期公演を聴きに行く時も首のボタンは開けていた。十二月上旬の土曜日のことだった。彼女は白州さんと僕を招待して、招待された二人は並びの席を取るために講堂の入り口で待ち合わせることにした。僕が大学に着いた時彼はまだいなかった。すぐにわかったのは他の人影さえほとんど見当たらなかったからだ。僕が早く来すぎたのだ。空は秋の晴れ間だった。気温は低い。ポーチの階段を下りて講堂を振り返る。堅牢な砂岩調の立方体にランセット型のアーチが埋め込まれて簡素なファサードを成している。

 思えば数年来この場所は深理さんの日常だったのだ。まだ僕の知らない彼女の影がここにはある。

 講堂を左手に見ながら道なりに進む。アスファルトの上に気の早い落ち葉がちらほらと散っている。銀杏の並木が輝く金色に見える。ツツジの植え込みの間に飛び石の小径が続いている。そっちへ入っていく。ツグミの鳴き声が頭上を左右に飛び交う。吐いた息が白い煙になって流されていく。校舎の間に出て屋根の高さを見上げる。そこで僕は堆積した時間の重さのようなものを感じた。日々同じ場所を歩くということは本人にとっては何でもないことだろう。でも追う者にとってその日常は重厚で複雑で様々な側面を持っている。とても一瞬で飲み込めるようなものではない。僕は僕の日常の外では、誰かの日常の中では常に周回遅れなのだ。

 僕は特にこのひと月深理さんの何かしらを知りたい、聞きたいという気持ちに苛まれていた。けれど本人を前にすると自分から訊くきっかけを掴むことができなかった。訊いてはいけないことなのではないかという予感が僕の言葉を堰のように押し留めた。そんなもどかしい状況の繰り返す間に僕はもうこの話は白州さんに振ってしまうべきなのではないかという気がした。もし彼が僕の「待ち」に本気で期待しているなら話してくれるだろうし、僕はそれを聞くべきなのだ。そう思った。

 僕が講堂の正面に戻っても白州さんはまだ来ていなかった。五十代の夫婦が何組か、時に十代二十代の若い世代を連れてロビーに入っていく。演奏者や裏方の学生も奥の校舎の方からぽつぽつと歩いてくる。楽器は既に舞台裏らしくほとんど何も手にしていない。あってもわずかな手荷物だけだ。恰好はスーツか控えめなドレス。僕は端の欄干に避けて彼らの流れを見ていたが、僕の前を三人の横並びで行き過ぎたうちの一人が急に振り返ってこっちを見たので、その原因が僕なのかそれとも僕の後ろにある別の何かなのかわからなくてどきどきした。

 結局僕だった。顔を見てわかった。稲浪という人だ。黒いダウンの下に品のいい鼠色のドレスを着ている。

「ねえ、君、手島模型に居た子だよね」稲浪は少し前屈みに僕の顔を覗きながら犬みたいに遠慮なく歩み寄ってきた。「名前は……ええと、なんだっけ、こう、雪みたいな」

「ミシロです」僕は答えながらちょっと吹き出した。

「あーそうそう。招待されたの?」

「はい」

「フカリちゃんは……まだ来ないか」

 フカリちゃんというのは稲浪流の深理さんの呼び方だ。そういえば前に会った時もそう呼んでいた。経緯は知らないけど、深理というのは確かに読みにくい名前だ。ミリ? シンリ? 自分でも「あまりシックじゃない」と言っていた。

 それから稲浪は僕の胸元を指差した。「良いスーツだね」

「親のを仕立て直したんです」僕は青いコートの前を広げてもう少しスーツを見せた。

「じゃあ、楽しんでってね。寝るなよ」

「はい。頑張って」

 稲浪が連れのところに戻るとそのグループは残し目にこっちを見て僕が誰なのか訊きながらガラス戸を押して講堂に入っていった。

 稲浪が手島模型に来ていたのは、というか、ちょうど稲浪が来ている時に僕が手島模型に訪問したのはだいたい一年前のことで、彼女は深理さんとカウンターに開いたグラビアを挟んでエースパイロットについて喋っていた。どうしてルフトヴァッフェのパイロットはみんなして宝塚みたいなきらきらしたブロマイドが残ってるんだろう。写真の質もさることながら、やっぱり素材がいいんだよな。そんな話。稲浪は別に飛行機に興味はなくて、ちょっとした好奇心から雑誌を開いていただけのようだった。

 僕が入っていって深理さんにイラストを渡すと、稲浪はそれを見て一応感心しつつもパイロットの絵は描かないのかって訊いた。オンナノコって大抵は機械の話より人間の話の方が好きなんだな。僕は内心いささか傷ついたので、ちょっと当て付けっぽいけれど、後日ハンス・マルセイユの肖像を模写して深理さんに頼んだ。そういえばそうだ。その件で何も言ってくれないということは、悔しいけど、とっくに忘れてしまっていたのだろう。

 深理さんは学生としてはほとんど最後に、先生らしき人と二人で歩いてきた。深理さんは黒いドレスに黒いコート、先生はチェックのツイードブレザーにくっきり折り目のついた黒のスラックス、ワイシャツに紐ネクタイ。深理さんは階段を上ったところで僕に気付いた。ぱっと微笑して肩の前で細かく手を振る。僕は先生に会釈した。

「白州くんはまだ来てないの?」

「待ってるとこです」答えながら僕は用意しておいた明治のストロベリーチョコレートの箱を彼女に渡した。「これ、持ってってください」

「わあ。どうもありがとう。アンサンブルまでに彼が来なかったら二人で帰ろうね」

 先生が一緒なので手短に済ませる。僕も手を振って見送った。

 ほとんど人の流れが途切れたくらいに白州さんは電話をしながらゆっくり歩いてきて、階段に差しかかる前に立ち止まって用件を済ませてから一段飛ばしに上ってきた。

 携帯電話は持たない、と前に言っていなかったっけ。僕の思い違いかもしれない。

「遅れてすまない」と言いながらジャケットに携帯電話を仕舞う。ネイビーのスリーピースに同色で金ボタンのアルスターコート、内はシャツではなくキャメルのタートルネックだ。

「寒かったろ」

「涼しいくらいですよ。ここまで少し歩いたし、さっきこの周りをぐるっと散歩してきたんで」

「だから、悪かったって」

 僕が皮肉を言ったみたいに聞こえたのかもしれない。そんな意図で言ったのではないけれど。僕は青いコートのポケットに突っこんだまま両手をちょっと持ち上げた。

「それ、なかなか粋なツーピースだね」白州さんも僕のスーツに言及した。

 ロビーに入って、彼はトイレに行くというので独りで先にホールに入る。防音扉の前で招待券を切ってもらって前方の席を取る。おそらく愛娘撮影したい族だろう、最前列から三列目くらいまではぎっちり席が埋まっているのに、あとは中央に少し塊があるくらいで全体的に斑状だった。お互いの間にできるだけ均等に空白を空けておきたいような心理が働いているのかもしれない。コートを脱いで膝の上に畳む。僕の左三つ空けた席に女性の三人組が座っていた。二人は若く学生か卒業生、あとの一人はどちらかの母親らしい。手前の若い人はセミフォーマルに黒のワンピースとグレイのジャケットで首に真珠のネックレスをつけている。前の列はひとつ左から五十くらいの夫婦が座っている。僕からはご主人の黒いビロードの背広の肩とポマードで固められた後頭部がよく見えた。

 ホールは格納庫みたいに天井が高く、そこに埋め込みの照明が点々と灯っている。誰がどうやって電球を交換するのだろう。ちょっと不思議だ。客席にはやや急な勾配があり、二階席が後方に広がって桟敷が左右に突き出している。壁は白い石がきっちりと積み上げられた模様、舞台の背景は真っ白なパネルを奥に向かって何枚か重ねた具合で、その真ん中に据えられた一枚の大壁画のようなパイプオルガンが白木の躯体の手前に銀色の管を整然と並べ立てている。

 白州さんが前方の扉から入ってくる。僕は一度立ち上がって居場所を主張する。跳ね上がった座面を押さえて座り直す。彼はコートの畳み方を確認しながら通路を上ってくる。僕の右隣、通路沿いの席を空けておいた。

 高い頭上の空間に人の囁めきやカーペットの吸い残した足音が亡霊のように蟠っていた。

「聞かせてくれませんか、深理さんのこと」僕はとうとう言った。僕にとっては言う機会を長らく窺っていた言葉だけど、白州さんにとっては唐突かもしれない。別の話が始まると切り出す機会を失ってしまいそうだった。

「そう訊かれるのを待ってたよ。君が彼女のことを知りたいと言った時、それは僕の役目だ、と僕は答えた。天使像の時だな。そのはずだ。」白州さんは僕の隣に腰を下ろしてズボンの裾を気にしながら答え、それから手の指を合わせて短く瞑想した。

 沈黙。

 彼は目を開けて脚を組む。

「僕が話せるのは十六歳からの彼女のことだけだ。僕はそれ以前の彼女には会ったことがないから何も知らない。従って話せることもない。さらに言えば、僕の知っている限りということは、彼女についてとはいえ、あくまで僕と彼女についての話に始終することになる。それを承知で聞いてくれよ」

 肯く。

「何から話すのがいいか」それから白州さんはまた少し沈黙する。目は何も映していない。薄く開いて足元の闇を凝視している。その向こうに過去がある。

 僕は待っていた。

「僕が最初に……十六の彼女のことで最初に思い当たったのは容姿のことだ」彼はゆっくりと言葉を始めた。「ありふれた表現に頼ることをあえて避けないとすれば、当時の彼女の美しさは別格だった。他に言いようがない。美しい。もちろんそこには今のミコトが綺麗でないなんて意味はちっとも含まれていない。それは断っておかなければならないし、この先の話を聞くにあたって君にも確かに覚えておいてもらわなければならない。高校時代の彼女がどれほど綺麗だったか君に見せてやりたいよ、ミシロくん。本当に見せてやりたい。無論、今よりずっと痩せていたというのもあり、今ほど簡単には笑顔を見せなかったというのもあるだろう。しかし、もっと根本的に、あらゆる点で、可視的な要素から深く内側に隠された要素まで、人間としての組成が今の彼女とは少しずつ違っていたんだよ。それらの要素が絶妙に組み合わさった結果、彼女はこの世のものとは思えないくらい綺麗だった。なのに――いいや、だから、というべきかな――本気で彼女に憧れている人間はほとんどなかった。男たちのプロポーズを一手に引き受けるマドンナっていうのはどこの集団にもある存在だろうけど、彼女は違っていた。そういう女の子は別にいたんだよ。その子が単に注目を引いているだけなのに対して、手島深理は何か不可触の聖域の中にある女神みたいな感じだったね。決して目立つ役を引き受けるような人ではなかった。だけど彼女の存在そのものにとても影響力があった。彼女が教室に入ってくればどういうわけか直接に挨拶をしない連中でもお喋りが疎かになるし、先生が彼女を当てると眠っていた奴も目を覚まして傾聴の姿勢になっている。例えば、マドンナが出来のいいブロンズ像だとしたら、彼女は天気みたいなものだ。ブロンズ像と天気。そんなものを引き合いに出すのはおかしいよ、確かに。でも本当にそれくらい次元の異なることなんだ。天気というのは、つまり、風向きが変わるとか、雷を連れてくるとか、人々のいる空間を丸々変えてしまうような、そういった存在だった。いわば気配のレガリアを持っているんだよ。それは彼女自身にすら抑えようのないものだった」

 白州さんは腿に腕を乗せて猫背に語っていたけれど、そこで体を起して「レガリアという言葉はわかるかな」と訊いた。

 僕は肯かなかった。

「王位の象徴などという意味を持った英語なんだが、原義としては何らかの地位の印となるものを指すようだね。天皇の三種の神器、鏡と剣と玉なんてまさにこれだ。あるいはもっと卑近なところでは徳川の紋所というのもレガリアのひとつかもしれない。水戸黄門のあれだな」

 白州さんは僕が飲み込んだのを確認して先を続ける。

「当時の僕はよく学校をさぼってアトリエや公園で絵を描いていて、たまさかまともに一限から出ていると珍しがられたけど、そういう持て囃され方とも、やっぱり彼女の存在感は違っていた。当時の僕も彼女の美しさには気付いていたね。だけどそれは、一度くらいはモデルに描いてみたい、目の前に座らせてじっくり眺めたらどんなだろうって程度の妄想に過ぎない。付き合えるのかなとか、どんな生活をして、どんな音楽を聞いて……、そんな人間的な領域にまで想像が及ぶことはなかった。そういう人間的な背景を切り離して捉えるのが、正しいというか、妥当に思われる対象だったんだ。思うに、僕の抱いていた『手の届かないもの』という感触は他の多くの男子も共通して抱いていたんじゃないだろうかな。僕はあまり同級生と活発に世間話をするタチではなかったが、聞いた感じではね。男うちの女子の好みの話なんかで名前が挙がると、だいたいは敬遠してしまう。それはだめだ、失礼だ。そんな雰囲気になる。昔のミコトがどんな存在だったかに関してはそんなところだ。全く不思議なものだけどね、でも少しはわかってもらえたかな。尤も僕の記憶に過ぎない。彼女の人間的なところを、僕が目にしなかっただけ、目にしていてもこの数年の間に都合よく忘れてしまっただけかもしれない。僕は著述家ではないから言葉遣いにしても正鵠を射ないものが多いだろうし、絵にしたってある人物の抽象的なイメージについては君の方が得意だろう。当時のミコトを君に見せたかったというのにはそういう意味合いもある」

 僕は頷いた。つまり昔の深理さんは「聖なるもの」だったのだ。西洋の絵画では天使とか聖人とかを描く時、伝統的に頭の上に光の輪っかを浮かべるか顔の背後に後光を描く。不信心者にもそれが畏敬の印であることくらいは一目でわかる。そういう記号を捧げるにふさわしい存在だったということなのだ。

@聖徳大

「僕」のスーツはバーバリーです。

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