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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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人間の土地、取り残された飛行機

 中学校に徒歩だけで通っているという生徒は学年に一人か二人、自転車だけというのも十人くらいしかいなかった。生徒の九割はバスか電車を使っていた。学校は駅からそれなりに離れていて、朝の始業前、昼の授業終わり、夕方の最終下校と一日に三回はルートにアリの行列のようにブレザー姿が連なった。田舎道なので駅前を除けばスーツが混じることはない。教師は大抵愛車通勤だった。狭霧は朝は一番混んでいる時間帯に教室に来て、部活のある日は最終下校を待って部活の同輩やクラスメートと連んで駅まで歩き、途中まで彼女たちと一緒に電車に乗り、乗り換え駅からは大概一人になる。部活が休みの日はどうしていたのか知らない。友達を見つけて帰るか遊びに行くか。それとも彼女は本が好きだから、図書室に寄って本を探して、ラッシュアワーを過ぎてから一人で帰るということもあったかもしれない。いずれにしても当時の僕には知る機会のない事情だった。

 蒸し暑い日だった。僕は乗り換え駅から下りの電車に乗り、東側の扉の横に背中をつけて目を閉じた。電車が動き出し、瞼の向こうに光と陰の流れを感じる。ウォークマンの密閉式のイヤホンからビョークの「ハイパーバラッド」が聞こえる。オーロラのような凍えた幻想的な声。天井の空調から乾いた冷たい風が吹き出していた。

 電車が木や建物の陰を抜けて日向に出る。車内に光が差し込む。僕はその明るさに反応して目を開ける。架線柱の影が鼓動のように定間隔に床の上を走っていた。向かいのドアのところに白い脚が見えた。見慣れた制服だった。両足のスニーカの間にエナメルバッグを置いてその上にプール道具の巾着を乗せ、胸の前で文庫本を読んでいた。ページが眩しいらしく目を細めている。表紙が強い光の下で影になっていて題名は読めない。彼女は左手で本を支え、右手は頬の横や耳の後ろで頻りに髪に手櫛を通したり撫でつけたりしていた。彼女の髪は普段からしたら信じられないくらいぼさぼさに広がって色も少し赤っぽく見えた。とても熱心に、そして静かに本を読んでいるので僕が見ていることにはまだ気づいていない。そうしてしばらくの間車両の通路を挟んで向かい合ったまま、一人は本を読み、一人は窓の外を眺めていた。

 ふと彼女――狭霧が顔を上げ、僕の視線に気づいて人当たりのいい顔をつくった。僕はイヤホンを外して狭霧が何か言わないか少し待った。けれど向こうも僕が声をかけるのを待っているようだった。

「こっちに来たら? 読み難そうだけど」僕は訊いた。日の当たる側にいるから読みづらいのだ

「いいの?」狭霧は慎重を期して訊き返した。

「いいよ」

 僕が答えると狭霧は本に栞を挟み、こっちの扉の横まで荷物を全部持ってきて元通りの配置を再現した。足の間にエナメルバッグがあり、その上にプール道具の巾着が乗っている。二人は扉の片側に寄って立っている。

「ああ、やだなぁ」狭霧は前髪を掴んで下に引っ張りながら小声で言った。「私ったらすっごく酷い髪の毛してるでしょ。まるでアメリカ人みたい。いつもはこんなんじゃないの。もっと纏まってるんだけど」

「うん」僕は少し笑った。

 狭霧は僕の反応を確認して電車の前方に少し目を向けた。食事中の草食動物が時々草丈の上に顔を上げる時のあの感じだった。それから何か言った。でもそれが控えめで低い声なので辺りの騒音に掻き消されて僕の耳には十分な音量が届かなかった。

 僕は「何?」と訊き返した。すると彼女は僕の方に半歩だけ肩を近づけて、頭を少しこちらに倒してまた低い声で言った。

「リンス・イン・プールだったらみんなもっと真面目にやるんじゃないかな、って」

「それはそれで肌が窒息しそうだけど」僕も頭を傾けて小声で答えた。周りから見たら仲がいいというよりは作戦直前の打ち合わせみたいに見えたかもしれない。

「塩素よりマシだって」

「柴谷は泳ぎも上手いよ。速いし綺麗だし、すごく気持ちよさそうに泳ぐじゃないか」

「泳いでる間だけだよ。陸に上がったらろくなことないもん。どうしてちゃんとしたシャワー室がないかな。あんな水道管剥き出しの冷たい消毒水シャワーじゃなくてさ、個室でお湯が出て、石鹸もあって、せめて銭湯くらいの設備」

「あったとしても休み時間が足りない」

 狭霧は何度か頷く。「人間はやっぱり陸の生き物なんだな。水に入る時は少し冷たい思いをして適応することもできるけど、戻ってくる時は着替えも面倒だし、結局汗もかくし、割と疲れるし、本調子に直るまで時間がかかるもの。なんというか、プールのあとの授業って不思議な感じがしない? 暗い水槽の中に居るみたいな」

「暗い水槽?」

「うん。水族館にあるような水槽。展示室が暗くて、水槽は円筒形で、その中にクラゲなんかが浮かんでいて、それを七色のLEDで照らしているの。クラゲは水流に身を任せてひらひら揺れながら浮かんでいるの。いつもより教室が静かで――居眠りが多いのかな、それで、先生の声がぼんやり聞こえて、さざ波の音が頭の中に残っていて、そのせいで考えがスローになっている」

 僕は狭霧の言葉をイメージした。青い海水が一杯に溜まった教室の中をファンシーなクラゲたちがゆっくりと漂っていた。「それはとてもよくわかる気がするよ」

 狭霧はその言葉が本物かどうか確かめるみたいに時々目を逸らしながら僕の表情を窺っていた。

 僕は手に持っていたウォークマンを鞄の中に仕舞う。イヤホンを指で巻いて結ぶ。

「私、これを読んでるの。『人間の土地』。サンテグジュペリ」狭霧は本を僕に見せた。宮崎駿の描いたブレゲ14が表紙だった。

「星の王子様の」

「そう。これはもっとあらゆる世界についての言及だけど」

「どんな本?」

「そうだな……」と手にした本に目を落として考える。

 電車はその間もがたがたとレールの継ぎ目を越えていく。床下でモーターが唸っている。 

「サンテグジュペリ本人の視点で書いているの。彼は航空草創時代のパイロットで、新しい航路の開拓のためにアフリカやアンデス山脈や未開の地に飛び込んでいく。文字通り飛行機で飛び込んでいく。でものろのろ、ふらふらと。当時の飛行機はどれも貧弱で非力で、発動機は気難しくて、風に負けて岩肌に激突したり、プロペラが回らなくなって砂漠のど真ん中に不時着したり、それがしょっちゅう。彼はその行く先々で目にしたものから得たインスピレーションをここに記述している。ありていに言えばエッセーの短編集」

「いま読んでるのは?」

「バークの話。時々読みたくなるの。バークは奴隷なの。でももともとはモハメッドという名前の羊飼いだった。だから奴隷の使役から解放される時、バークと呼ばれることに反発する。私はバークではなくモハメッドだ、自由の身なんだって。でも彼はそれから不安な夜を過ごすの。バークであった自覚とモハメッドである自覚との間にしっかりとした繋がりを確認できずにいたから」

「もうかなり何度も読んだみたいだ」

「できるだけゆっくりね。話を憶えてしまうとつまらなくなりそうだから」

「適度に忘れた方が面白い」

「そうなの」と狭霧は頷く。

 話が途切れる。僕はその沈黙の間『戦う操縦士』の表紙を思い出していた。澪がよく読んでいた本だ。サン=テグジュペリと言われて狭霧には『星の王子さま』を挙げたけど、僕の中ではむしろ『戦う操縦士』の著者というイメージの方が強かった。

「ねえ、私の家にもひとつ模型があったよね」狭霧が訊いた。

「ウェストランド・ワイバーン」

「ていうの?」

「うん。ウェストランドっていうメーカーが開発したワイバーンって名前の飛行機。航路開拓時代って一九二〇年代?」

「そうだね。八十年九十年前」

「確か一九五〇年くらいの飛行機だから、その本の時代より二三十年新しい」

「どんな飛行機なの?」

「どんな?」

「うん」

「そうだな……、プロペラがついてるけど、あれはレシプロじゃないんだ。つまり、それまで主流だったガソリンエンジンじゃない。ターボプロップて、ジェットエンジンでプロペラを回すの。戦闘機でターボプロップというのは本当に珍しいんだ。イギリス海軍が戦後に発注してほんの短い間だけ空母の上で使われて、すぐにプロペラの付いていないジェット機に取って代わられてしまった。だから一言で言うと時代に取り残された飛行機なんだよ」

「時代に取り残された」狭霧はぼんやり口を空けて神妙な調子で反芻した。

「ジェットエンジンはレシプロよりずっとレスポンスが悪いから本当は戦闘機には向かないんだ。レシプロなら送り込む燃料を増やしてその分強い爆発でピストンを押し込めばシャフトはすぐに回転を速める。ジェットエンジンでも爆発が強くなるのは同じだけど、それをタービンで拾うまでにラグが出るんだ。機械継手と流体継手の違いみたいなものだな。それでもだんだん素早くなってきてるし、もともとレシプロよりパワーがずっと強いから、大した欠点ではないって思われてるようだけど」

 そこで僕は喋るのを中断した。次に何を話題にしようか迷ったというか、何のために喋り始めたのかを見失っているような気がしたのだ。

「あ、饒舌になったね」と狭霧。

「ごめん、機械の話はわからないよね」

「いいよ、続けて。今はわからないけど、ちゃんと聴いてるよ」狭霧は窓に顔を向けたまま斜めに僕を見据えていた。黒くて虹彩の判然としない瞳。その曲面に窓の形をした光が映っている。「レシプロにはピストンとシャフトがあって、ジェットにはタービンがあって、その逆ではないんだね?」

「うん……」

 僕は少し呆気に取られていた。詳しいのを褒められるとか、ちょっと畏れられるというのはよくある反応だけど、続けてほしいというのはあまりなかった。しかも狭霧は決して僕の話を面白がっているわけではないのだ。狭霧が関心を向けているのは話の内容よりもむしろ喋っている僕の姿だ。そう解釈するのが正しい気がした。嬉しくないではなかった。

 でも「ちゃんと聴いている」というのは彼女にとってはもう少し意味のある言葉だったのかもしれない。

 今はわからないけど、ちゃんと聴いてるよ。

 狭霧は相変わらず扉の横の手摺に凭れて手前の窓の外に目を向けていた。いくつかの駅を過ぎたあと、彼女が先に電車を降りた。

「聞く」って奥が深い行為なのよ。


そういえば暗い水槽というモチーフはもう一度出てきますね。

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