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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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相対化する仕草

 床に生徒会報の『緑蔦』が一枚ぺらっと落ちていて、窓を見ていたので危うく踏んづけそうになった。ひとつかふたつ前の号だった。拾い上げて手近の椅子を引いて腰掛け、「魔女を辿って」に目を通す。読んだことのある話、「火事の夜」だった。

 先に断っておくと海部は文章の中で「僕」という一人称を使っている。口で喋る時には、それにメールの時だって「俺」しか使わないのだから、本人を知っている僕にしてみれば違和感でいっぱいだった。話の中の海部はまるで現実の海部とは別人みたいに気の利いた人間みたいに思えてしまうのだ。

 ともかくこういう内容だった。

 

 それから幾週かが過ぎて季節は冬になった。通りの向かいの家が火事になった晩、アリゼは何時間か姿を消した。向かい家の窓から火が噴き出して建物全体を包んでいくのを家族みんなで表へ出て見ていた。おやじとおふくろとじいちゃんばあちゃんと兄貴姉貴、弟共。アリゼがいなかった。他にも野次馬がわらわら集まっているせいで人数が多くて、火のほかに明るいものがないから、一人くらいいなくなったって誰も気づきやしない。柱が折れて飛び散る火の粉に釘付けになっていた。僕は家の中に戻って隅々まで探した。靴は玄関にあったし、庭用のサンダルも揃ってた。だから外には行ってないと思ったんだ。でも押入れの天袋を開けたってアリゼは見つからなかった。それでちょっと諦め半分に、というか頭を冷やすために、二階の廊下の窓を開けると焦げ臭い風が吹き込んだ。向かいの家は火事になって、家の人は通りに出て立ち尽くして、路地には遠くまで点々と野次馬の連中が見えた。夜だから前ボタンのパジャマだとかガウンだとかで出てきている人が多かったな。そのうち消防が来て、姉貴がサイレンの音の方向を探すついでにこっちを見上げて、何でそんなところにいるのか、なんて聞きやがるんだよ。アリゼがいなくなったことに気付いてないんだな。やっぱり家の中に引っ込んでるものだと思ってた。たっぷり三十分くらいも探したんだぞって教えてやると、姉貴のやつは、冗談だけど、まさかあの火の中に居るんじゃないのかって言った。それはさすがにおやじが頭を叩いたけどね。

 そこでまた一際大きな爆発があって、みんなそっちへ顔を向けてそのままアリゼのことは関心から追い出されてしまったようだった。今まで話してきたようにアリゼには用件不明のまま帰りが遅くなるってことが度々あったから、放っておいたってそのうち帰ってくるだろうと思ってたんじゃないか。魔女は最後姿を消すって掟をきちんと聞いたのは僕とばあちゃんだけだったから、今度こそ本当にいなくなったかもしれないって焦っていたのもやっぱりこの二人だけだった。まあ、もしもばあちゃんの耳がもう少しよくて、僕と姉貴の会話が聞こえていたらの話だけど。

 でもばあちゃんのことを悪く言うのはやめておこう。僕だって結局向かいの爆発に見とれていたんだから。

 そこへアリゼは上空からふわっと降下してきて、窓の前に滞空したまま「ただいま」と言った。寝着のスウェットに長いダウンを被って、箒の穂の根元に腰掛け、両足を箒のこちら側に下ろし、両手を尻の両脇に軽く置いていた。

「おまえ、どこに行ってたんだ」

「雨雲を呼びに行ってたんだ」

「どこへ」

「少し遠い」アリゼは南の方角に顔を向けた。

「消してやれないのか」

「どうやって。あの火は強力だよ。私の力ではどうしようもない」

 雨雲を呼ぶ? 気流で雲を運んでいるのか、水面から空気を押し上げて雲をつくったのか、せいぜいそんなところだ。何にしても風を使う。もしもっと強大な魔女だったら、火の回りを真空にするだとか、もっと大胆な手段を選んでいたかもしれない。

 火はいよいよ夜空を衝くほどに上り、黒く影になった家の枠組みは一部から折れて軋みを上げつつあった。消防は赤いランプを回りの家々の壁に映しながら放水を続ける。

 やがて雷鳴が響く。

 アリゼは窓に近づいて右足を外に返して靴を手に脱ぎ、その足の指をサッシにかけて安定をとりながら左の靴も脱いでこちらに渡した。竿で桟橋を突いて船がぶつかるのを防ぐようにして足を支えに箒の柄を先に屋内へ入れて窓を潜り、穂を外に残して廊下に飛び降りた。穂の水気を払って窓を閉め、襟ぐりを鼻の下まで引っ張り上げて「煤臭くない?」と頭を近づけた。確かに灰と、それから雨の匂いがしたのでそう言ってやった。アリゼは部屋に向かって歩きながらスウェットの裾で箒の柄を拭いた。箒は柄が樫で穂は榛の木の梢だったと思う。そいつを机の横に立てかけ、他の家族が全員外に居るのか聞いて、風呂が空いているのがわかるとアリゼは濡れたダウンを脱いだ。その目に向かいの火事の炎がゆらゆらと映っていた。アリゼは自分の旅立ちが近いということを感じ取っていたし、僕もまたアリゼがそれを感じ取っているということをなんとなく感じ取った。その夜の火事は確かにアリゼの背中を押していったのだった。

 

 僕は拾った『緑蔦』を読み終えて紙を置いておくのに適当な場所を探す。どこかに『緑蔦』の残部ばかり集めた山があったはずだ。

 僕が立ち上がったところでどういうわけか急に印刷機が音を立てて動き始めた。給紙用のローラをぐるぐる回して腰のラックから白紙を吸い込み、スタンプのがしゃっという音がしてベロのところに真っ白なA3の紙をそのまま一枚だけ吐き出した。海部が使った方の印刷機だ。一枚だけ吐き出してしまうとそれから二枚目を吸い込むでもなく一切動きを止めて黙り込んだ。近寄って見てみると電源スイッチはONの向きでコンソールも光っていた。

「触ったのか?」海部が横に来て訊いた。

「いいや。さっきの印刷が残ってたんじゃなくて?」

「だったら真っ白で出てくるかよ」

 海部はベロに落ちたA3の白い紙をふわっと持ち上げて南の窓へ持っていって光に翳した。当然、透かしがあるわけでもなく、文字が浮かび上がってくるわけでもない。

 コピー機はともかくとして印刷機はファックスを受けるための電話線も繋がっていないし、無線にも対応していないからどこかのパソコンから信号を拾ったわけでもない。としても磁場や電磁波で電流が生じて誤作動ってことはある話だ。

「アリゼが送ったのかもよ」僕はそう言ってから『緑蔦』の山をキャビネットの上に見つけて持っていた一枚をそこへ帰してやった。

「いや、電気魔法は得意じゃない」

 僕はジョークのつもりだったのだけど、その答えだと海部が真に受けたのかそれともジョーク返しなのか微妙なところだった。「魔女を辿って」によればアリゼの得意な分野は風だ。さっきの話にも雲を連れてくる云々というところがあった。

「きっと特訓したんだ」僕は調子を合わせた。

 すると何を思ったのか、海部は窓に当てていた白紙を角をきっちり合わせて四つに折り、ルーズリーフを挟んでいるファイルのポケットに差し込んだ。まるで珍しい鳥の羽根を一本見つけたような扱いだった。

 僕はハンドクリームを手に塗ってジャケットを着込み、鞄を閉める。

「印刷機、今度こそ電源切るよ?」

「なんだ、もう帰るのか」

 僕は答えずに黙って扉まで歩いた。肯定だ。

「ちょっと待ってろよ。あと半分わけたら終わりだから」

「どうして?」僕は立ち止まって海部に向かって肩幅に足を開いた。

「どうしてって、お前今日なんか予定あるのか?」

「ないけど。でも、僕が海部を待つ筋合も、海部が僕を待たせる筋合も、ないんじゃないかな。アリゼの存在を信じるなら勝手に信じていればいいと思うけど、それで君が彼女に帰る場所を用意しておかないというのは矛盾だよ。僕はそれは逃げだと思う。君が居ないところにアリゼが帰ってきたらどうするのさ」

 海部はいかにもふてくされて、机に片肘を突いて顔がひしゃげるくらい強く頬に手を押し当てた。

「じっくり考え直すには一人の方がいいだろう」僕はそう言って外から扉を閉めた。

 緑蔦館を抜け出すと西の空にまだ高い半熟の夕日が見えた。

 海部が怖れているのはアリゼが存在しないことだけではなかったのだ。当たり前に傍にいて他の誰もが彼女を認識している、そういう状況も海部の価値を失くしてしまう。だから不確定なままにしておきたい。微妙な距離を保っていたい。他の誰にも本当の存在だと思われたくない。自分だけがアリゼを繋ぎ止めている。自分だけが。そういう感覚に酔いながら、でもそれは呪縛でもあるのだ、そこから抜け出したくもあり、誰かに助けを求めているのかもしれない。僕はただアリゼの存在を確かめることに真摯ではない海部の態度に反発していた。


 その日も僕はアリゼの夢を見た。部屋の玄関を開けると廊下までオレンジ色の分厚い光が差し込んでいた。やはり夕暮れだった。そしてアリゼはリビングのソファに座って『人間の土地』を読んでいた。

 でもなぜ僕はそれがアリゼだとわかったのだろうか。彼女は前回とは全く違う格好をしていた。紫のワンピースを着ていた。それだけならまだいい。髪の長さが全然違っていた。前は綺麗なボブヘアだったのに、今度はつやつやのワンレンになっていた。そのせいかどうか、顔立ちだって少し違って見えた。

 彼女は僕が目の前に立つまで顔を上げなかった。だから僕もそれまで話しかけなかった。

「まだここにいたんだ」

「そうね」アリゼは顔を上げる。

「今日の印刷機、あれは君がやったの?」

 アリゼはその質問には答えずに本を閉じてソファの上に置いた。

「姿を変えたね」

「こんなのは大した変化じゃないわ」アリゼは自分の髪を撫でる。指にかかってこぼれ落ちる長い髪の動きは何か水流のようなものを思わせた。

「それでも積もり積もってもとの姿を忘れてしまう魔女がいる」

「そうね。その噂は本当」

「君は自分が変化していくことに不安を感じないんだろうか。自分を失わない自信がある?」

「どうだろう。でも、じっくり鏡を見ていればわかってくると思うの。それが紛れもなく自分だって」

「どうしてわかるんだろう」

「それはね……仕草よ。仕草は私にもあなたにも特有のものだから」

 人は容姿ではなく仕草を愛するのだ。白州さんがそう言ったのを僕は思い出す。

「仕草というのはね、意図的な体の動かし方じゃないの。瞬きの仕方とか、そういう、基礎的で、変えようのない、無意識の部分をいうの」

「なるほど」

「変えようのない、自分でも気づきようのない、無意識の細部よ」アリゼは確かめるようにもう一度言った。

「仕草が同じなら、容姿が違ってしまってもいいんだろうか」と僕。

「たとえ変えようと思わなくたって多かれ少なかれ人間は変わっていく。変わってしまう。魔女じゃなくたって自分の姿を忘れていくのよ。人間が生きている限り、死に向かっていく限り、必ず。変わらずにいることの方がよほど難しいの」

「そういった避けようのない変化の間をつなぎとめているのもやはり仕草なのか」

「そうね」とアリゼは答えたけど、あまりはっきりと言い切ったわけではなかった。「逆に、容姿が同じなのに仕草が違っていたらきっととても気色が悪いと思うの。君は僕の知っている君じゃない。一体誰なんだ。憑依されてるのか。そんなふうに思うはず」

 彼女は立ち上がってワンピースの裾を直した。

「ただね、何が不安かというなら、それはむしろ私自身の実在そのものよ。海部もそう言っていたでしょう?」

 僕は頷いた。

「こうして別の世界を渡り歩いていると、時々感じるの。今私は現実に戻ってきたと認識しているけど、この世界は他の人々が認識している現実と本当に同じものなんだろうか、海部と私の世界はきちんと重なっているのだろうかって。あなたは狭霧に対してそういうふうなことは感じないの? 空間的にも、それにもしかしたら時間的にも隔てられてしまっているのかもしれない」

「感じるよ。大いに感じる。彼女のメールを読んでいるとまるで彼女が本当にその時代の人になってしまったように思えることがある」

 僕の夢なのだからアリゼが狭霧のことを知っていたって何も不思議はなかった。

「世界の隔たりというのは私にもつなぎようがないの。隔たりを認識するのがまず難しいから。意識できない細部の仕草が変えられないのと同じ」

「どうすればいいんだろうか」

「お互い向かい合ってじっくりとすり合わせるしかないでしょう」

「君にとって海部の存在、彼の信念は意味のあるものだったんだろうか」

「それは高い灯台のようなものなの」

「灯台?」

「荒れ狂う波を越えていくにあたっては何の助けにもならない。でもそれを目指して進んでいくこと、それを目印にして針路を定めることはできる。なんの手掛かりもなく漂流しているよりずっといい。現実的な意味はないけど、心の支えにはなるでしょう」

「ねえ、魔女の旅というのは、つまりあえて荒海に漕ぎ出すことなのだろうか。根拠なく確固とした自分自身を解体して、もっと相対的な、多角的な位置づけに改めるための試練なんじゃないか。今ふとそう思ったよ」

「そういう意味もあるでしょうね。部分的には、ね」

「だとして君たちだけがそれを課されるのは――」

「魔女が普通の人間より高度な認識力を持っているからでしょうね。より広く世界を、より深く自分を、見つめることができる。そう、狭霧と同じように。少なくとも、あなたが狭霧に抱いたイメージと同じように」

 そう、狭霧と同じように。

 僕は彼女の目をじっと見つめた。そこに僕の知っている何かがないか確かめようとした。

「君は本当にアリゼなんだろうか?」僕は言った。

 けれど彼女が答える前に夢の中の映像はどろどろに溶けて闇の中へ消え去ってしまった。いくらしっかりと瞼を閉じて呼びかけても、再び彼女の姿が現れることはなかった。


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