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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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男女の間に友情は成立しない

 他の多くの学校がそうであるのと同じように僕の高校でも秋に全校一挙文化祭を行う。各クラス、企画を練り、資金を募って材料をどっさり買い込み、足りなければまた金を集め、衣装を作り、教室を飾り立て、あるいは食材を買い、あるいは舞台装置を作り、二三日大いに盛り上がり、そして終わると同時に全てを破壊する。何という消費だろう。残しておいても他に使い道のないものばかり、ただその数日の狂乱のためだけに使い潰す。工作は創造の時点で既に破壊を内包している。終わったその日から処分を始め、翌日の昼過ぎには過ぎ去った夢の余熱に囚われたまま殺風景な教室で授業に戻る。でもその時点ではまだ誰も黒板や教科書といった日常を受け入れていない。

 そんな一週間には生徒会の活動も閑散とするものなのだけど、帰りのホームルームが終わってすぐ昇降口にいる僕を海部が捕まえて、手を貸してほしいと言って生徒会室に連れ込んだ。きっと生徒会役員が他に見つからなかったのだろう。最初に発見した獲物が僕だったというだけの話だ。

 生徒会室は緑蔦館の南向きの一階にある。緑蔦館というのは学生の城になっている結構古い建物で、校舎から少し奥へ入った離れ的な位置にあり、一階の北側は食堂、二階は和室が四部屋あって合宿に使われていた。名前の通りコンクリートの外壁に蔦が這っていて、夏になると緑色の蓑を被ったみたいに見える。でも竣工した時から緑蔦館という名前だったから、魔術師的に先見の明のある命名者だったか、それとも蔦の方が風情のわかる性格だったのだろう。僕はどちらかというと二番目の説を信じる派閥に属していた。

 生徒会室はいつになくものが散乱して、机や椅子は一脚たりとも壁と平行に置かれていないという有様だった。そして何より床が酷かった。プリントが落ちて足跡まみれになっている、なんて生易しいものじゃない

「なんだこれ……」僕は圧倒されながら呟いた。

 二つある印刷機の奥のやつの正面の床が真っ黒になっていた。それはなんだか巨大なまっくろくろすけが擂り潰された跡地のようだった。状況は間もなく理解できた。誰かがトナーを落っことしたのだ。

「海部がやったの?」僕は真っ黒の畔に立って苛々しながら訊いた。

「違う。それだったら自分で片付けるだろ」

「ほんと?」

「だから、俺じゃない。事務係かどっかの部活か、委員会か、クラスか、わからんけど、慣れないやつがインク切れたのにテンパってしくじったんだろ。どさくさで他の連中も監視してなかったか」

「トナーだよ。インクじゃなくて」

「知らんけど」海部は反対の壁際にある机にエナメルバッグを置いて中から箱型のファイルを取り出している。

「僕に全部やらせるような口振りだね」

「俺は俺で仕事があるからな。でもほっといたら固まるだろ、これ」

「いくら出す?」僕は海部に正面を向けてジャケットのポケットに両手を突っ込む。

「何で俺が金を出さなきゃいけないんだ」

「管理不行き届きで事務係に請求すればいい」

「じゃあお前自分で交渉してくれよ。俺が請求したってあんまり高いと返ってこないぞ」

「僕に頼んだのは海部だ」

 海部はしばらく僕を睨む。「仕方ない。牛丼一杯」

「嫌だよ」

「大盛り」

「食べ物じゃ僕は釣れないよ」

 舌打ち。

「千円」僕は言った。

「それはないだろ」と海部。「せいぜい半値だ。五百円」

 僕は一度首を横に振ったけれど、すぐに考え直した。千円というと手島模型に出している絵と同じ値段だ。この作業にそれと同じだけの価値があるというのだろうか。場合によっては絵は売値が九百円、八百円ということもあるわけだから、それより高くつけるというのはいささか癪だ。床を拭くだけの単調作業が絵を一枚仕上げるより大変な仕事だと思いたくはなかった。

「六百円でいいよ」僕は言った。いくら不人気な絵でもそこまで下がることはなかった。

「わかったよ。おまけしてやる」海部は言った。

 それで決着だった。

 トナーは粉塵である。海部はこぼれた端っこの疎らなところに指をつけて親指と人差し指で擦りながら「これって粉なんだな」と言う。箒で掃き集めるか雑巾で拭き取るか、しかし粉の近くに足を下ろしただけで舞い上がるくらいなので箒はよくない。穂に付着したら長らく残って掃く度に床に黒い線を引きそうだった。濡れ雑巾を使うことにして飛散防止のためにまず黒くなった床全体を濡らしてやる。幸い霧吹きが転がっていたので拝借。ジャケットを脱いで、中は白とグレーのボートネックなのだけど、袖を汚したくないので肘まで丁寧に折り返した。下は黒なのでいい。何年前のものだかわからないラテックスの手袋をつけて四つん這いで外側から攻めていく。霧吹きで濡らし、雑巾で濃い方へ集める。本来熱をかけて定着させるものだからか、床に染みついている感じはない。それでも拭ききれないところが筋になって残る。なかなか厄介である。

 海部はその間にもう一台の印刷機でB4版を何百枚と刷りながら、上がったものを鋏式の裁断機で四つに切っていく。全校アンケートだという。文化祭の感想でも書かせるらしい。

 僕は黙々として手を動かす。そのうちふとアリゼのことを聞いてみたくなった。

「アリゼが実在だって、『魔女を辿って』を読んでる限りじゃ僕は思わなかったよ」僕は独り言より少しはっきりしたくらいの声量で言った。

 海部はしばらく黙っていたが、「まあそうだろうな」と答える。

 裁断機の刃の噛み合って擦れる音、ハンドルが台座に当たる衝撃。

「海部とアリゼは極めて親しい友人同士のような関係だったんじゃないだろうか」僕は言った。

「俺とアリゼが?」

「兄弟でもなく、血の繋がりもなく、同い年で、十年も同じ環境で育った等しい関係だ」

 海部は切ったアンケートを揃えて、最後の印刷を終えた印刷機の電源を切り、まだ刷っただけのものを置いて黒板の下にどっかり据えてあるソファに横になった。家で使わなくなったものを誰かが持ってきたもので、革が裂けたところを黒いガムテープで補強してあった。

「男と女の間に友情はあり得ない。情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。しかし友情はない」

「誰の言葉?」僕はせっせと黒いトナー粉を集めながら訊き返す。

「ワイルドだよ」

「オスカー・ワイルド?」

「読まないのか。せいぜい一編くらいは読んでおけよ」

「それで?」

「俺は男でアリゼは女だ。友達じゃない」

 僕は少し待ってから「どういう理屈でそうと言い切れるんだろうか」と訊く。

「男と女の間には他の感情が働くだろ。欲求、拒絶、愛、憎しみ。そういう駆け引きから、あるいは、エスコートしなきゃいけないだとか、女は姦しい、男は幼い、そういったジェンダーから隔絶されたところにあるのが友情だ」

「穏やかで、ドライな?」

「そういう関係」

 真っ黒の端に合唱祭の広告の紙が一枚下敷きになっていて、上に乗ったトナーの粉をこぼさないように拾い上げ、何回か折って粉を閉じ込めてごみ箱に持っていく。それを外したところには綺麗な直角が出来上がった。立ち上がったついでに遠目に床を見てみる。一度拭いた領域も周りに比べるとまだ少し黒ずんでいた。

 さらについでにソファの方を見ると海部は仰向けに腕を組んで目を瞑っていた。窓の外には暖色がかってきた大気の中を校門に向かっていく生徒の疎らな行列が見える。

「男と女の友情が全くないとは思わないけどな」

「まあ、あるんじゃないか。女に対して何の欲求も衝動も抱かないならな」

「つまり、男も女も生粋の肉体的同性愛者なら?」

「ワイルドは男色だっただろ。あの作家が自分の定めた友情の枠内で男の肉体を求めたなら、それは俺の解釈では破綻だ。友情ってのはもっと乾いたものだ」

「アリゼとの関係は湿ったものだったというわけだね」

「ああ」

 僕はトナー集めを続けながら少し考える。

「海部の言う愛ってのは家族を大事にするって意味合いではないんだろうね」

「違うだろうな。結局どこか他人ではあるんだよ。血の繋がっている兄貴姉貴とは感触がぜんぜん別物なんだ。ただ、たぶん俺とアリゼが近くに生きていた間、そこに愛は存在していなかった」

「というと?」

「まだ子供だったってことだよ。幼かった。だから、ただ喧嘩しているだけで、お互いのことを男とも女とも思ったことがなかった。今だからそういう関係、アリゼとの間にあった感情が愛情だと把握できる」

「遡及した愛に過ぎない?」

「一緒にいる間にアリゼを女と認識したのは一回きりだ」

「それ、火事の夜じゃないの?」

 海部は肯定しない。少し沈黙がある。「お互い大人になってどんな目で相手を見るのか、それがわからんのだよ。現実のアリゼが俺のイメージ通りの大人になっているわけじゃないだろう。全然定まらないんだよ。現実のアリゼが目の前に現れても、驚くとかどうとか以前に、アリゼ本人だって認識できるか確証がないのさ」

「普通の人間以上に姿を変えているかもしれないからね。なにせ魔女だから」

「そうさ、それが問題なんだ」

「すれ違っても君は気付かないかもしれない。アリゼにはわかる。だけど彼女は君に失望するだろう」僕はそう言ってソファの方を見た。「そして君が想像しているのは、求めているのは、完全な、完璧な女性になったアリゼだ」

「俺はそれを生理的に求めているのだろうし、お互いの位置づけをはっきりさせるためにも男女の関係の中に落とし込むのはきっと必要なことなんだ」海部は素直に言った。

「アリゼもそれを求めているのかどうかは、でも、わからない」

「……はあ、面倒くせえ」海部は大声で言って急に起き上がると両腕を頭の上に伸ばしてあくびをした。猫みたいにこれ見よがしに口を開くので僕の方からは海部の上顎の硬いところが見えるくらいだった。ひとしきり伸び終えると机に戻って裁断を再開した。

 人間の関係が全て性別の関係に帰結すると考えるのはあまりに虚しい。恋愛対象になりうるか、そうでないか、そういった判断を誰かに向けること自体が虚しいことじゃないか。生殖を担う立場になるまで性別を持たない魚がいるように、人間にもそれを意識しない期間はきちんとあって、けれど、大人になるにつれて、自分の性別を認識するにつれて、区別のない原始の海から追われていく、そんな変化はあまりに人生を貧しくしてしまう。中性の幼さを残したまま生きていける選択肢があるとしたらどんなにいいだろう。

 僕はそう思うのだけど、海部は違う。彼はアリゼを女として見ている。そういう描写が『魔女を辿って』にも時々表れるのだ。

 アリゼに関する色っぽい描写が学校で問題になったことがある。色っぽいといっても間違えて脱衣所の扉を開けてしまったなんて程度のことなのだけど、校長か教頭がびびってそういう表現は控えるようにと頼んだらしい。夏前のことで、海部は生徒会顧問の先生と交渉して校長と話をつけた。その辺りの経緯は一回「魔女を辿って」を休載して会報全面に記事が出ていた。海部に言わせれば学校側の懸念は全く事なかれ主義で、それが表現の自由への配慮よりも先に立っているのがケシカラン、無粋であるという。生徒に官能小説を読ませる高校だなんてメディアに袋叩きにされるのが怖いとでも? 全く骨なしである。そんな高校は猥褻沙汰より先に骨なし検閲の咎でネットに晒してやる、と海部。校長を前に実際そんな脅迫が通ったのかどうかなんて『緑蔦』の読者にはわからないのだが、海部の勝ち誇った感じを見ているとどうやらその一件以来も自由に書いているようだ。

 僕は掃除を進める。早く終わらせてさっさと帰りたかった。トナーを入れておくのにプラスチックの袋だと静電気が悪さをしそうなので、ラテックス手袋でシールドしているのをいいことにゴミ箱に手を突っ込んで誰かがくしゃくしゃに丸めたマクドナルドの紙袋を発掘した。広げて一山作ったトナーの粉末を慎重に掬い入れる。黒色火薬を扱っているみたいな緊張感があった。真っ黒になった雑巾をトイレに持っていって濯ぎ、仕上げに床全体を拭いてからもう一度濯いでごしごし洗った。きつく絞ってから会室の奥でほとんど放置されている椅子の背にかけ、手袋を外す。水が冷たいせいで肌がじんじんして赤い斑点模様になっていた。脇に挟み込んで温めながら部屋の真ん中に集められた長机をぐるりと一周する。普段なら会議用に枡形に合わせられているものだ。剥がして丸めた貼り紙や空き缶に立てられたマジック、各種の書類の余りが散乱している。共用の場所なんて整理しようとするだけ無駄なのだ。前に羽田が磨き上げていた窓だって今はもう水垢だらけになっているし、絵具を飛ばしたのか緑色の飛沫が点々としていた。


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