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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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水鳥を救う

「ねえ、一人で暮らすのって寂しくないこと?」深理さんは訊いた。それはどうも遠回しな訊き方だった。

「ええ。でも学校もあるし、深理さんにも呼んでもらえるし」

「それがない時は」

 僕は彼女の唇に目を向けたまま何秒か答えずにいた。

「寂しい時もありますよ」僕は両手を深く組んで右の腿の上に落ち着ける。「時々、夜に魘されて起きると、感覚が普段通りではなくて、まだ何かに襲われそうな気がしていて、そうすると体の全部がしっかり布団の下に隠れていないと恐いんです。この家に僕以外誰もいないんだってことがとても恐ろしく感じられる。誰も庇ってくれないんだって思う。それは寂しさとは違うかもしれないけど」

「可哀そう」

「別に珍しいことじゃありません」

「なおさらよ」

「何だろう。今は思い出せないけど、同じ夢ではないですよ」

「夢の内容って思い出せないものよね。それでいてふとした時にそっくり思い出したり」

「そっくり思い出したものでも、もう忘れている」

「そう」

「深理さんは憶えていますか。何か、夢の内容を」僕は訊いた。彼女が別に夢の話を掘り下げようとしているわけじゃないのはわかっていたけれど、できるだけ長く話していたかった。

「今朝見たのは思い出すまでもないわね。なにせ今日の夢だったから」

「今日の?」

「今日についての。今、飛ばしてるでしょ? 私たちがこうしている間にも」

「ああ」

「川に舟を浮かべて飛行機が飛ぶのを見送るの。川岸には人がたくさんいて、二人に注目している。二人って、舟の私と、飛行機の、複座なんだけど一人で、知らない兵隊さんなんだわ。彼が合図をして座り直すなりプロペラが速くなって、ものすごい水飛沫が舞って、濡れるのと波に堪えながら私は舟を押さえて、目が開く頃には飛行機はもうずっと遠くで離水したところで、そのフロートから水が滴っているの。もっと見ていたいと思うのにそこでお終い。もう一度目を瞑ってもだめ。目が覚めるのよ。ね、いかにも私っぽいでしょう」

「確かに。深理さんらしいや」

「夢ってだいたいいつもいいところで終っちゃうのよね。終わりらしい終わりって滅多になくて、まだ続くはずのものが掠れて見えなくなるみたいな、そういうものじゃない? ずっと探していたものが見つかって手に入っても、こっちには何も持って帰ってこられない」

「わかります」

「ああ、そうだ、今思い出したんだけど、今の夢には前段があって、最初は飛行機じゃなくて水鳥なのよ。理科室の水槽にいたの」

「理科室?」

「なんだろう。学校の夢が多いのよ。ほとんどの場合、それは特定の学校ではなくて、時制もなく――つまり、私の経験してきたどこか一点の時代ではなくて、架空の場合もあるし、知っている人が出てくる時は時代が混ざっているのよ。中学の同級生と高校の同級生が一緒に出てきたりしてね。校舎の形は夢の中に入る度に違っていて、私が知っているようで知らない造りをしている。本物より複雑で、易々とは目的地に行かせてくれないのよね。行ったのに教室が違っていたり。一階へ行くのに三階へ上がったり、階段が途切れていて屋上に通じていなかったり、あちこちにあって縦に貫いてなくて。それで、今日の夢だけど、最初の事情は確か、ポンプの調子が悪くて、放っておくと魚が死ぬから、誰か面倒を見に行かなきゃいけない、とかそんな感じ。ようやく辿り着くと水槽に水鳥が居て、今度はそれを逃がしてやらなきゃいけないくなるのよ。ベランダから見下ろすと鯉なんかがいるような池はあるんだけど、離すのは川でないといけないの。つまり、海に繋がっているような水場でないといけない。それで私は川辺まで来て、でも桟橋が高すぎてそこで離すと水に投げ込むみたいだから、舟を探して川の流れに出るの」

「鳥を水上機に変えたんですか」

「気付いた時にはそうなっていたのよ。頭のすぐ上に翼があって、陰ができて。夢の中ではいろんなものが無理矢理変化していくでしょう?」

「無理矢理?」

「自分で作った世界のはずなのに、思い通りにいかない。思い通りには、ね。ただ流されていくだけ。まるで他人が作った物語の上を歩いていくみたいに」深理さんはグラスに刺さったストローをぐるりと回して紅茶をかき混ぜる。

「深理さんは一人暮らしをしたことはないですか」

「私はない」

 彼女はストローから手を離して、今度は細長い砂糖の袋を手の中で回している。そこに目を落としている。

「ただね、私は自分だったらきっと寂しいだろうと思うの。自分だけのためにご飯を作るなんて面倒だから、残り物とか、缶詰やレトルトで済ましちゃおうって。それは不健康だし、凋落なのだろうけど、自分のために目標がなければ仕方がない。家族か誰かいれば、先行きはなくてもご飯を作る意味はあるもの。ご飯だけじゃなくて、他に生活のことも全部、私一人だったら、きっと駄目ね。ホスピスみたいになっちゃうわよ。ミシロくんは違う?」

「僕もご飯作るの面倒です。朝しか作らない日もある。お客さんが来ると少しはやる気が出る」

「友達を呼ぶの?」

「自分から呼ぶことはないけど、時々来ます。この間のラザニアはそれで余ったから」

「ああ、そうだったの」

「お客さんが来たら作るけど、でも毎日作るのは大変だし、彼らと一緒に住みたいなんて絶対に思わないな」

「厄介な友達なのね」

「前に魔女の話をしたの憶えてますか」

「ええ、うん」深理さんは思い出して頷く。

「大抵あいつなんです。うちに来るの。彼女なんか連れて」

「ああ、そうだったの」と目を大きくする。つるつるとした丸い目だ。

「きょうだいが多いから、家の中が落ち着かないんだろうな」

「でも、そうでしょう。中学生や高校生のカップルなんてそんなものじゃないかしら。二人だけの関係、親には言えない、どっちかの家に上がり込むことはできなくて、居場所がないの。特に夜は。だからミシロくんの家に逃げ込んでくるのじゃないかしら」

「ずっとひとりなのは寂しいかもしれないけど、その寂しさが誰かを救う時もある」

 深理さんはフライドポテトを口の中で咀嚼しながら僕の顔をじっと見て、飲み込んだところで「つまり、待っているんだ」と言う。

「そうかもしれない」

「いい生き方ね。一人でも心は孤独じゃないもの」

 とても嫌味のない言い方だった。けれど特別僕に向けられた言葉でもないように感じられたのでお礼は言わないでおいた。

「だけどそういう生き方は」と深理さんは言い足す。「誰も連絡をくれなかったり、長い間閉じ籠っていたり、誰も自分のことなんか必要じゃないのかもしれないって思い始めると、つまり、自分の意味の確証が得られないと、歯痒くて、辛いものだと思うわね」

「大勢に囲まれていても心が孤独だから?」

「本当に孤独な時にはこの宇宙の誰も自分のことなんて憶えていないみたいに感じる。もしも宇宙に一人きりだったら――」

「きっと死にそうなくらい寂しいと思う」僕は言った。

「実際どうかしら」

「色々なことを少しずつ忘れていくんじゃないでしょうか。記憶より先に、喋ることとか、言葉とか、自分の形、そういった人間としての機能や自己意識から、使う相手がいなくなって、だんだん忘れていく」

 僕はまた外を見る。田んぼは相変わらず鳥の楽園で、電車は来ない。隣家の石垣の間を綺麗な網模様のついた若いアオダイショウがするすると滑るように這っているのを見つけた。目に留めておくのがやっとというくらい素早く茂みの間に入って見えなくなってしまった。

「私がお父さんの店を手伝い始めたのは高校を出てからなの」

「ええ」僕は視線を戻して頷いた。

「お父さんは少し前からちょくちょく千住に通って店をどうするかって話をおじいさんとしていたのね。で、いよいよおじいさんが癌で駄目になるという時に、お父さんは店の引き継ぎのために、私はそれにくっついて家事のために移ったの。それがだいたい……そうか、七年前になるわね」

 深理さんは僕の目を見て、でも時々思い出すために窓の方へ視線を逸らしつつ話した。テーブルの縁に両手をかけてそこに目を落とす。

「そんなわけで、模型とか飛行機の勉強を始めたのもその時期。ゲームをするとか、雑誌を読むとかね、ほとんど厭々だった。それでも今は少しでも専門的な知識を持っているってことがちょっと得意なの。そのことでお客さんに重宝がられたり、少なくともなんて無学なんだってクレームを受けることもないでしょ。それって自分の知識や、その知識のために費やした人生のある時期を肯定できるということなのよ。その時間でもっと別の生き方ができたかもしれないと気付いた時、じゃあ、現に積み上げてきたものが不要だったのか、もしイフの自分が手に入るならそれを捨ててもいいのかって。私は嫌よ。実際の人生のルートでよかったと思いたい。そうやって、重くても薄くはない、人生の重石にはなるもの」

 深理さんはテーブルの縁に置いた指先に心持ち力を込めていた。話し終えるとその手を引っ込めて膝の間に挟んだ。むろん僕の方から彼女の膝はテーブルの陰になって見えないのだが、どうもそんな具合だった。

彼女の話し方が少し硬くなったのを僕は感じていた。ただ話の中のどの要素がそうさせるのかまだ僕にはわからなかった。妹さんが言っていたことが何か関係しているのだろうか。僕は聞きたかった。もっと深く彼女のことを知りたかった。でも訊いてはいけないような気がした。自分から踏み込んではいけないような気がした。そんなことをすれば今この時間をやさしく包んでいる柔らかな膜のようなものを決定的に破ってしまうような気がした。

 だが君はあくまでも待つべきだと思う。白州さんはそう言った。

 その通りだ。

 僕たちは二人ともどこか互いの深みに入り込むのを慎重に避けることによって今この時のささやかな安定を守ろうとしているようだった。もどかしく、そして心地よい時間だった。

「ちょっとお喋りしすぎたかな」彼女は腕時計を見たあと、最後に残しておいた紅茶を飲んで紙ナプキンを取って唇に押し当てた。もう行かなくては。カサブランカはいい店だったし、深理さんと長い話ができて僕は幸福だった。この時間がいつまでも続けばいいのにと思った。この温かい日の当たるテーブルで深理さんともっと話し続けていたかった。でもいい時間というのは決まってとても速く流れていくものだし、必ず終わりが来るのだ。僕はテーブルの上に残ったいい時間の残滓を胸いっぱいに吸い込んだ。それから鞄を探って財布を出そうとするなり彼女は「いいの、私が出すから」と制止した。

「割り勘にしませんか」

「私が誘ったんだから、大丈夫よ」

 いい時間は終わる。夢と同じだ。実際のところ僕はまだ子供で、彼女には僕に奢られる筋合いなんてない。僕が手にするわずかな稼ぎだって手島家から与えられたものなのだ。

 立ち上がって椅子を戻した時に隣の石垣をもう一度見た。ヒガンバナが赤々と咲いているだけだ。ヘビはもういない。

 それからサンバーでもう少し西へ走って、弁当屋の女将に教えてもらったスーパーで飲み物を買った。ついでに乳製品売り場を確認すると確かにマーガリンしか置いていなかった。

意味がないわけではないがつながりと示唆が希薄な一節

深理さんの言う「水鳥」が序盤で狭霧が詠んだ啄木の「白鳥」にかかっていることに気づいた。

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