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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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カサブランカの窓辺

 堤防上の道を引き返し、駐車場のスロープを下りて月光を探した。滑走路の横ではまだたくさんのエンジンやプロペラが蜂の合奏のようにぶんぶん回っていて、排気の匂いも相変わらずだった。チームの面々はラジコンの周りに集まっていたので、そこで昼食を買ってくるからと言って何がいいか訊いた。みんな好き勝手に大声で注文した。深理さんはメモをとって最後にひとつずつ確認した。それからおやじさんの長靴がどろどろになっているのを見て、服は汚さないように、と注意した。駐機場を離れ、ステップ代わりに前タイヤで靴の土を落としてサンバーに乗り込む。僕は助手席に乗ってシートベルトを締める。深理さんは運転席の座席をひとつ後ろに調節して鏡の向きを確認してからエンジンをかけた。

 サンバーは二速で苦しそうに堤防を登った。深理さんはひとまず国道まで出て道沿いにスーパーマーケットがないか僕に探させた。片側一車線に加えて歩道が細いので気の抜けない道路だった。自転車を抜かすのに気を遣うし、横からの飛び出しも恐い。家々の塀が道路に迫って長い壁を成している。瓦葺の民家の背後には水田か耕地が広がっている。

「あ、虹が出ている」

 僕はそれを聞いて深理さん越しに右側の窓を見通した。二時方向に虹がうっすら見えた。雲が切れて朝の残り雨に光が当たっているのだ。北方面はまだ雨が降っているらしく黒い雲が虹の向こうに空母みたいにどっかり浮いていた。

「天気、よくなってきたね」と深理さん。

 僕はサンルーフに目を細めて「そうですね」と答える。

「雨は好き?」

「え?」

「私は好き」

「なぜ?」

「匂いが好き」

「匂い、雨の匂い」

「わかる?」

「どうだろう」

「この車、後ろの天窓が開くのは知ってた?」

「いえ」

「戻ったらそこを開けて上から飛行を見てみようか」

「面白そうですね」

「それでいい具合だったら、明日もそこでカメラを構えよう。きっと混むだろうから、少し遠くに駐めて」

「はい」

「あ、明日も来てくれる?」

「もちろん」

「よかった。ああ、ちょっと早トチリだった」

 僕はコンソールを見てサンルーフのスイッチを探した。エアコンのツマミやカーステレオのボタンやなんかしか見当たらない。結局それは天井のバックミラーのところにあった。

 車内での会話はほとんどそれくらいで、二人とも外に注意を向けていてあまり喋らなかった。僕は左右に流れる建物を眺めながらさっき土手に敷いていたブランケットの感触を思い出していた。あれは僕と深理さんのアジールだったのだろうか。アジールは開放空間にも成り立つものだろうか。あまりに隔絶され、あらゆる外界の刺激から干渉を受けない場所は閉鎖空間と同じような機能を持つのかもしれない。

 そして僕にとって意外だったのは深理さんが僕の体に興味を持っていたことだ。僕はそのことで少しだけ動揺していた。

 彼女にとってあんたは特別なのよ。妹さんはそう言った。そこにはやはり肉体的な意味も含まれるのだ。

 西に向かって五キロほど行ったところで直行する笹川駅の商店街に入ってようやく弁当を売っている店を見つけた。幅があって往来のない道なので路側帯に入ってアメリカ式に路駐する。

 入る前にもう一度靴の底を叩いて、揚げ物付きの弁当をいくつか選んでチームの人数分買った。深理さんは注文を確認する前に僕にお腹が減っていないか訊いた。僕は空いていないと答えた。強いて言えば喉が渇いていた。飲み物は近くに自動販売機があるのを見たけれど、安く買いたいならもう少し西へ行ったところにスーパーがあるからそこで買えと店の人が教えてくれた。

 弁当箱でお重のようになったレジ袋を後部座席に載せて車を出す。その場で転回せずに商店街を北端までゆっくり走って折り返し、国道を跨いで反対側の南端までぐるっと回ってみた。道は広く両側の店の前にところどころ車が駐められている。ほとんど店の業務用車か外注の業者が仕事の途中で立ち寄ったというふうだった。幸いサンバーディアスはそんな景色の中に違和感なく混じっている。ちょうど南端の辺りに「カサブランカ」という喫茶店があって、深理さんはここでお昼にしようかと提案した。僕は時間が心配だった。おやじさんたちを待たせるかもしれない。深理さんは「律義なのね」とあしらって、「どうせラジコンに夢中になっているから待った気なんてしないでしょ」と言った。

 看板にユリの花が描かれているので地名よりは花の品種から名前を取ったのだろう。店の建物は質素だけれど調度に品があって気の利いた感じだ。ガラスが印象的だった。天井にはちょっとしたクリスタルのシャンデリアがいくつか垂らされ、衝立や扉の窓に嵌められた板ガラスは縁に土手が切ってあって屈折が華やかだった。音楽はかかっていない。ただ入口の横の席に中年の女性が三人集まって秘密諜報員みたいに会議をやっているのでさほど静かではなかった。店主は厨房のカウンターから入口を覗いて「好きな席にどうぞ」と言う。テーブルと椅子の配置にはかなり余裕があって、詰めれば倍は入りそうなくらい床が広く見えていた。深理さんは入口の敷物の上で立ち止まって短く店の中を見渡してから、左に進んで一番奥のテーブルを選んだ。窓の横なので店の裏手の景色を一望できる。ラミネートで挟まれただけのメニューにざっと目を通して紅茶とフライドポテトとサンドイッチを注文する。それから交代でトイレに入る。トイレの鏡も四辺に土手があった。

 僕が戻ると深理さんはレンズキャップをつけたままのカメラ写真の確認をしていた。モッズパーカーを隣の席に丸めて置いて、ラピスラズリくらい真っ青なトレーナー姿になっている。僕もジャケットを脱ぐ。

 窓の外は遠景に向かって果てしなく田んぼが続いている。刈り入れは終わっていた。まだ青い芽のある根元だけが規則正しく並び、朝の雨で黒く濡れた土の上に白鷺がいる。首を伸ばしたままちっとも動かない。大きさからしてチュウサギかダイサギだ。遠くにも同じような形をした白い影が点々としている。動いているのと固まっているのがある。イナゴやカエルを捕まえようとしているのかもしれないし、ひなたぼっこをしているだけかもしれない。その回りでハシボソガラスが落ち穂拾いをしている。もっと小さなムクドリなんかもいるけれど、色のせいで白鷺やカラスより目につかない。

 田んぼの右手には視界の果てまでフェンスでまっすぐに引かれた土地の境界がある。マーガリンおじいさんの言っていた鉄道が走っているのだが、単線だし往来はまるでない。廃線かと思うくらいだ。線路の向こうは山だった。上に建物が見えるので台地の裾というのが正確かもしれない。木々が深い緑色をしている。イノシシとか、タヌキとか、ノスリとか、そんな生き物が住んでいるのだろうか。田んぼの左手には隣家の石垣とイヌツゲの植え込み、石垣の下に赤々としたヒガンバナが列をなして咲いているのが僕の席からほとんど正面に見えた。

 そういえば以前羽田が見舞いに持ってきてくれた切花もヒガンバナ科の花だった。もっとユリに似ていたけど、何て名前だっただろう? 少し考えてみて、でも思い出せない。甘美な語感だったのは憶えているのだけど。

 思い出すのに諦めをつけて座り直す。

 深理さんも窓側の肘掛けに寄りかかって気持ちよさそうにしばらく外を眺めていた。僕に少し遅れて向き直り、太腿の上にだらりと手を組み、挨拶くらいに微笑する。そのまま目を瞑って深く息を吐く。胸が上下する。一往復。閉じていた瞼は一度薄く開いて止まり、再び緩やかな瞬きのあとぱちっと開く。

 そこで目が合ってしまったので僕はどきっとして思わず彼女の顎に目を逸らした。ここで堂々と見返していられるくらい度胸があればよかったのだけど、残念ながら僕は控えめな人間だった。

 店はぱりっとした黒いシャツを着た強面の老人が一人で切り盛りしていて、精一杯愛想を込めた顔で使い捨ての紙おしぼりと紅茶を持ってきた。紅茶はあまり味はしないけれど渋みもなくて喉が渇いている僕にはよかった。

 隣家の庭には立派な柿の木が立っていて、その枝に小鳥が四羽飛んできた。僕が見ていると深理さんも振り返って「鳥さんがいる」と言った。

「ヤマガラですね」

「ヤマガラ」彼女は少しゆっくりにして繰り返した。

「ええ」

「目印は何?」

「顔が白くて体が橙色でしょう」頭は黒く背中と翼は青っぽい灰色である。

「そうか、模様でわかるのね」

 深理さんは鳥の種類にはあまり詳しくないみたいだった。

 強面のマスターは次にフライドポテトを持ってきた。ケンタッキー式に皮付きのまま櫛切りにしたやつで中がほくほくだった。それはいいとして紅茶もポテトも値段から予測できる量の三倍くらいはあった。紅茶のグラスはジョッキといい勝負だし、ポテトはピザを一枚乗せるくらいの平皿の上に山盛りだった。サンドイッチの量も案の定だった。メインが七面鳥、ローストビーフ、ハムカツと三種類あってどれも味はよかった。

「ねえ、あなたのこと聞いてもいい?」少し食の落ち着いたところで深理さんは訊いた。脚を組んで背凭れに背中を預けている。

「僕のこと?」口の中にあったポテトをひとかけ呑み込んでから訊き返す。

「そう、色々」

「色々」

「例えば、どんな場所で生まれたのか」

「出生は和歌山」

「遠いのね」

「まあ。でも長い休みには帰るのが習慣で」

「田舎の方?」

「家は市内でしたけど、田舎に住んでいる親戚も多いです。僕が行くのは日高ですね。和歌山から車で南に一時間くらい。山の斜面に畑があったり。道が細くて危険なんですよ。細いだけじゃなくて山を上るのに道が葛折りになっていて」

「鳥の種類も多い?」

「多いと思います。いろんな鳴き声が聞こえるから。カッコウ、ウグイス、コジュケイ、鳥の他にもいろいろ動物がいますよ」

「例えば?」

「虫も多いし、シカもいるし、ヘビも出る」

「森へ入るのが好き?」

「ええ、まあ。道に沿っていく分には」

「夏休みには虫網を持って」

「そうそう」僕は腕をテーブルの上に差し出して外側と内側を交互に上にする。「昔の方がずっとアクティブな子供でしたね。真っ黒に日焼けして、サンダルのせいで足の甲が縞々になって」

「今年は行ってないの?」と彼女は腕の生白さを見て訊いた。

「行きましたけど、そんなに長い時間は遊ばないですよ。暑くならないうちに林の中の道を歩いて鳥を探したり、そのくらいです。小さい時より日差しが駄目になってきて」

「素敵ね、それでも」深理さんは目を伏せた。山とか林の匂いとか、そんな景色を想像したのかもしれない。「今の実家に移ったのはいつ頃なの?」

「僕が四歳の頃です。だから和歌山の家のことはほとんど記憶にない」

「こっちの方がずっと長いのね」

「ええ」

 深理さんはそこで質問を休憩して紅茶を飲み、七面鳥のサンドイッチをひとつ取って食べた。窓の外の田んぼでもコサギが一羽歩き回りながら右に首を傾げて地面を物色し、稲の株の隙間から藁色のイナゴを一匹咥え上げたところだった。

「深理さんはどこで生まれたんですか」僕は訊いた。

「群馬。もう少し言うと安中。聞いたことある?」

 僕は首を捻る。

「高崎と富岡の辺り。今の地元に比べたってあんまり上品な土地じゃないわね」彼女は苦笑いする。「私が生まれる頃、お父さんはまだ大学の事務室で働いているぺーぺーで、借り家がそこにあったの。模型屋に移ったのは私のおじいさんが店をやめた時」

「あの店先代があったんですか」

「ええ。前はもっといろんなおもちゃを扱う店だったのよ。熊本城の模型もあったし、金魚すくいゲームも置いてた。そういう昔ながらのおもちゃ屋さんって、古い下町ならちょっと探せばあるでしょう?」

「ちょっと活気がなくて、パッケージの箱が日に焼けて色が薄くなっていたりして」

「そうそう、そんな感じ。私のお父さんに代替わりしてから飛行機がだんだん勢力を伸ばして全域を支配しちゃったの。売れ残りは安く処分して。お父さんとしては飛行機一本に絞ってもいいなら継いでやろうってつもりだったみたい」

「じゃあ、あのボードゲームと一緒に天袋に入ってたのって」

「うん。看板を掛け直す時までにどうしても売れなかったもの。いくつかは群馬に持っていって近所にあげたりもしたけど」

「なるほど」

「それで、お父さんは東京の大学をあちこち回るからあの家でもいいとして、お母さんは不便でしょう。遠い、狭い、古いの三拍子。それで群馬の方の家も残して、そっちが手島家の本拠なのよね、今は新潟に移っているけど、手島模型にあんまり物がないのはそのせい。手島家の支所なのよ。雛人形だとか、スキー板とか、不要不急のものは全部向こうにあるし、先代のものは大概選別してしまったから」

 僕はストローで紅茶を吸って紙おしぼりで手を拭く。深理さんはハムカツのサンドイッチを齧っている。

「おやじさんが店を継いだのと講師になったのとどっちが先?」と僕は訊く。

「ああ、確かに、どっちだろう。でもほとんど同時じゃないかな。東京で店を継ぐのと仕事と都合がついたから移ったんだと思うわ」深理さんは指先で口の周りに付いたパン屑を取りながら答える。

「それで万年講師なんだ」

「そうかも。まあどっちにしたってフランス語の先生なんて買い手市場だから」と彼女はちょっと難しい顔をして言った。

「そういうものですか」

「うん。大学が就職予備校みたいになってきて、企業がトイックだとかトーフルだとかいうから、どこの大学でも英語の教授ばっかりどんどん増えてるのよ。フランス語もドイツ語もイタリア語もだんだん減らされてるわね」

「おやじさんの専門は哲学ですよね」

「文学でも哲学でも、境遇は似たようなものじゃないかな」

 僕はその時急に可笑しくなって吹き出すのを我慢した。

「どうしたの?」

「ごめんなさい、おやじさんが流暢に外国語を話すんだなあと思ったら」

「ああ、似合わない?」

「少し」

「それはきっとお父さんがあなたに対して常に日本語で話しかけてきたからよ」彼女は少し考える。眉間に二本皺を寄せて斜めに窓の外へ目を向ける。でも景色を見ているわけじゃない。鳥の影を追っているのでもない。視線はすぐに僕の方へ帰ってくる。「ねえ、英語の授業でグループの話し合いに日本語を使ってはいけないっていうのない?」

「ん?」

「例えば、日本の農業をよくするためにどうしたらいいか、グループの中で英語だけで話し合うの」

「あー……、あります。班で机をくっつけて」

「だめって言われるけど、大抵はこっそり日本語で話し合ってるでしょ」

「そうかもしれない」

「当然、ほとんどの子が英語より日本語を得意にするのも一つ原因なのだろうけど、そこには身内なのに母語でない言語で話すことへの抵抗感や恥ずかしさがあると思うのよ。きっと、少なからず」

 僕は言葉の重みを量るつもりで彼女の目を見ながらまた肯いた。

「耳慣れない言葉や理解できない言葉が人と人の間に溝を掘ることもあるのね」彼女はそう言うと耳朶の下で顎に手を当てて少し首を傾けた。「それが家族の中だとどう作用するのか微妙なところだけど。うちではみんなが揃ってもほとんど変わらないわね。私もお父さんも日本語でやってるわ」

「新潟?」

「そう。お母さんは建築学の先生なの」

「建築学って、どんな?」

「うーん、そうね、例えば、どんな建物が地震に強いのか、何分の一かの模型をコンクリートやなんかで作って、振動装置の上に載せて実験してみるの」

「ビル?」

「新しく考えた構造の時もあるし、何百年何千年前から残っている建物の模型を作って、どうして今まで壊れなかったのかを考えることもある」

「温故知新」

「うん」

「安中時代は群馬の大学に勤めていたんですよね」

「勤めていた、というか、研究生扱いね。お父さんの大学に留学に来たところを、いわば世話係になってもらったのが馴れ初めみたい」

 僕はポテトをひとつつまむ。深理さんも釣られてひとつ取る。

「家ではお母さんがフランス語で話して深理さんは聞いて、深理さんが日本語で言うのをお母さんも聞く?」

「だいたいね。時々、それなんて意味?って聞き返されるから、場合によっては彼女の言葉で説明するけれど。年々それも減ってきて、……ああ、そうだ、昔はどうだったかな。考えてみれば私が小さな頃は家の中でもっとフランス語が飛び交っていたはずだけど、何語だったかって、あんまり記憶にないものね。読み聞かせなんかは本がフランス語だからフランス語だけど、普段の会話となると……、案外憶えていないのね」彼女はそう言ってちょっと新鮮そうに目を大きくする。

「そういうものですか」

 少し考えたあと深理さんは答える。「ミシロくんでも誰かが言ったことをその音の通りに記憶していることってあまりないんじゃない?」

「どうだろう」

「人間の記憶の機能だと思うけれど」

「脳はものごとを抽象化して記憶することで容量を増やすって聞いたことありますね」

「それは私の言ったことの裏付けになる?」

「おそらく。話をするという経験そのものや話した内容、相手の様子は憶えているけど、どんな表現だったか、具体的なディテールは、何か特別な印象付けがなければ失われてしまう。昔に見た洋画の筋は憶えているけど、字幕で見たのか吹き替えで見たのかは憶えていない」

「ああ、そうね。そういうことでしょうね」深理さんはポテトをひとつ食べながら考えたあと、半分くらい納得する。「ともあれ、時には私もぺらぺら外国語を喋るということなの。どう、ちょっとこのテーブルが長くなった?」

 僕は首を振った。どちらかというと元々長いテーブルだったということを思い出しただけだ。少し椅子を前に出して座り直す。

「彼女のこと?」深理さんは唐突に訊いた。

「え?」

 僕が顔を上げると彼女は上機嫌そうに何度か頷いた。それだけだ。深理さんは僕が狭霧のことを想像していたんじゃないかと指摘したわけだけど、僕は自分でも狭霧のことを考えていたのかどうかよくわからなかった。

 強面のマスターはサンドイッチを作った後片づけを終えて厨房の中でコーヒーを飲みながら美術手帖の十月号を読んでいた。

 そうやって僕がマスターのことを観察している間、深理さんもまた僕のことを観察していたようだった。彼女の前で気を抜くとすぐ観察されちゃうんだな。観察されるのは無防備だからだろうし、弱みを握られているみたいでちょっと嫌だった。目が合うと彼女はまた言い訳をするみたいに微笑した。

 僕が目を離すからいけないのかもしれない。そう思って目を逸らさずにいて気付いたのだけど、彼女の微笑は右目より左目の方がわずかに細くなるようだった。じっと見て、観察して、ようやくそうかもしれないと思えるくらいの微妙な違いだった。でもその非対称性に僕はちょっと愕然として、そして少しほっとした。

 この作品の中で最も穏やか一節といってもいいんじゃないでしょうか。

 少し早めに言っておくとこの小説は部分的に震災文学です。深理さんの母親の研究内容で少し先触れを出しているのと、熊本城も少し効いてるかと。

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