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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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利根川荒野

 零式水上観測機は二週間もするとすっかり元通りになってショウウィンドウに戻っていた。約束の日に僕が手島模型に行くとシャッターの前にブルーグレイと白のツートーンのサンバーディアスが横付けされて、運転席でおやじさんが窓を開けて煙草を吸っていた。エンジンはかかっていない。僕を待っていたらしい。深理さんは初めて会った時と同じように隣の公園でしゃがんで黒猫を触っていた。ネコはその一匹しかいない。若くて毛並みのいいネコだ。僕とおやじさんが話しているのに気付いてそのネコにさよならのひと撫でをする。道を渡りながら僕に挨拶して「行きましょう」と言う。

「ゼロ観は直りましたか?」

「ええ。見ていく?」

「時間あります?」

「それくらい平気よ。大したロスじゃないでしょ」深理さんはいかにも上機嫌に提案する。「見た方が納得するから」

 彼女はおやじさんからキーホルダーを受け取って左側のシャッターを開けた。濁った水槽色のガラスの中に模型が見える。ゼロ観ももう違和感なく並んでいた。ガラスにほとんど張り付いて修理の痕跡を探したけれど、罅一つ見当たらなかった。もちろん塗装のムラもない。見かけは完璧に戻っている。

「フロートの支柱に真鍮線を通したんだよ。塗っている間に持つところを間違えて取れちゃったから」おやじさんがサンバーの窓から説明した。

「え、余計なこと言わないでよ」と深理さん。

 僕は当然複雑な気持ちになった。僕が直したところを親父さんがやり直した、ということになるからだ。僕のレストアはもともと完全なものではなかったけれど、それでも不完全が過ぎたのだ。

 僕は背伸びして半開きのシャッターを下ろし、鍵を閉めてスライドドアからサンバーの後部座席に乗り込む。憂鬱な天気だった。空がのっぺりと白く曇っていて時折ぱらぱらと小さな雨粒が網のように降ってきて窓に伝った。

 江戸川を渡り、我孫子から先は利根川の右岸に沿って一時間ほど東へ向かって真っすぐ、途中橋の袂や水門を避けながら走った。平坦な道、平坦な河原、平坦な水、平坦な対岸。景色に変化がない。開けた窓から柔らかい風が絶え間なく吹き込む。あんまり圧力が均一なので頬の皮膚感覚が麻痺しそうだった。サンルーフから高圧線の高架が見える。数条の黒い線が集合と分離を繰り返しながら少しずつ右へ、鉄塔を頂点にしてまた左へ、ゆっくりジグサグに走っていく。終わりなく繰り返す。

 それはどこかプレーリーやパタゴニアといった地平線いっぱいの荒野を貫くハイウェイを連想させた。惑星規模の箆で均したような荒涼とした大地に、わずか一筋限りの人工物、そして自分一人。他に人間の営みの気配はない。

 あまりにまっすぐでナビの用もない。助手席の深理さんは振り返って、そこの鞄を取ってと僕に言った。乗った時から左の席に黒のフェールラーベンがひっくり返って、中身が少ないせいで空気を抜かれたみたいに萎れていた。

「そう、それ」

 僕はちょっと持ち上げて重くないのを確かめてから前の座席の間を通して送った。深理さんは中を開けて半分に折られた大会のチラシを取り出し、参加チームを順番に載せたプログラムに目を通して「これお父さんのチーム?」とおやじさんに訊いた。

「月光って書いてあるんじゃないか」

「ねえ、水上機はなかった?」

「飛行艇もないなあ。水に浮かべたものを回収するものがないからね。船がない。沈んだらもっと悪い」

 大会の場所も利根川荒野の一角だった。河口の方に巨大な画鋲みたいな利根川河口堰の柱が並んでいるのが見えた。海水の逆流を防ぐための水門だという。ということは放っておけば大潮には海水が上がってくるわけで、この川にも海嘯があるのだ。その重たい鋼鉄の扉の東西に海と川が隔てられている。そこが川の終わり、荒野の終わりなのだ。

 堤防を越えて川岸に出る。堤防の斜面は生命力の衰えてきた黄色い芝で覆われ、その中に全く緑色のシロツメクサの群生が所々こんもりとした斑点をなしていた。河原はアシやマツヨイグサの深い草叢になっていた。水門の手前の低地に芝を短く刈って整地した滑走路があり、堤防の裾に沿って出店の白いテントが並んでいた。まだ営業はしていない。設営のトラックやバンが横付けしている。リハーサルに来た人々の車は堤防を下りて滑走路の端に集まっている。雨は止んでいるけれど、地面は沼のようにぬかるんでいて、靴を下ろすのにちょっとした覚悟が必要だった。飛行機の整備を始めている人々の中には長靴も見えた。

 飛行機の規模はどれも僕が両腕を広げた程度で、それでもスクーターには負けないくらいの威圧感を持っている。スケールにすると1/7か1/6だろう。おやじさんが仲間と一緒に用意したラジコンは海軍の月光を模して、2ストロークの4㏄ガソリンエンジンを二つ積んでいた。造形は結構リアルだ。風防とキャノピーもきちんと無色透明、機体形状も妥協していない。全体に深い緑、主翼前縁の黄色、翼の先と胴体の日の丸。不釣り合いに太い銀色のマフラーが両方のエンジンナセルにくっついているのだけが縮尺通りではない。仲間内の会話を横で聞いていたところでは、おやじさんは仕上げの塗装を担当したらしい。

 おやじさんの仲間たちに挨拶すると、その中の一人が僕の名前を聞いたことがあるなと言った。頬の削げた眉毛の濃い人で、頭を垂らしてちょっと悩んだあと、「あ、絵だ」と行き着いた。「手島さんのところに貼ってある絵の作者が君か。はあ、なるほど。隼の絵は憶えてる? 実はね、あれを買ったのは私なんですよ。何と言うか……、シックだね、君の絵は。よく描けていると思う」それから彼は握手を求めた。手の熱、硬さ、込めた力。なんだか新鮮だ。絵はおやじさんとの付き合いで買ってくれたのかもしれないし、その言葉だってお世辞かもしれないけど、ちょっと嬉しかった。

 月光を始動する。スロットルを開いてひっぱたくくらいにプロペラを押し回すと、ばたばたと音を立ててエンジンに火が入った。マフラから白い煙が吹き出す。出力を上げるとコガネムシの羽音くらいの高音になる。双発なので左右のエンジンが共鳴して余計に虫っぽく聞こえるのだ。辺りには排気のガス臭さが充満している。何も月光だけがエンジンを回しているわけじゃない。二十機くらいはいる。やっぱり日本人だから旧軍機モデルが多く、アメリカ、イギリス、ドイツのモデルがそれに続く。少数だけどジェットエンジン搭載のもいた。音を聞いた感じではダクテッドファンではなく本式のタービンエンジンだ。いかにも可聴域ぎりぎりの甲高い音がした。

 深理さんはキヤノン・50Dを物々しく首から提げて、月光がエンジンを回す過程を写真に収めるだけ収めたあと、人の群れを抜け出して土手を登って上流の方に離れていた。黒のモッズパーカーに真っ青な無地のトレーナー、下は黒のパンツ。NBのグレイのスニーカはソールの周りに泥がついている。そこらじゅう地面がぐじょぐじょなのだ。彼女がズボンを穿いているのを見たのはこの日が初めてで、正直なところかなりきつそうだった。

 服装としては僕も似たような感じで、ジャケットが緑のほぼ色違い、中のTシャツが白のプリント、ズボンは同じ黒で、ただ靴はブーツだった。その服装はさすがに似すぎていて二人きりで並ぶと思うとちょっと恥ずかしいような気もした。

「燃料の匂いでちょっと気分が悪くなっちゃった」僕が歩いていくと深理さんは勝手に言い訳をした。「下の様子は」

「周波数の打ち合わせやってます」

 操縦無線の周波数が重ならないようにしておかないと自分の飛行機が他人の送信機(プロポ)に反応したりその逆をやったりする。同時に飛ばすのが一機でも、地上で整備している機体のプロポが飛んでいる機体に干渉するとまずい。

「何機か一緒に飛ばさないのかな」と深理さん。

「見てみたいですね、編隊飛行」

「パイロットの連携次第ね」彼女は滑走路の方に顔を向ける。目の下まで上着の襟を立てて鼻を隠している。まだガスの匂いが届くのだ。

「もう少し離れますか」

 僕が訊くと、深理さんは上着のポケットから車のキーを取って「トランクにピクニックシートがあるんだけど、取ってきてもらってもいい?」と渡した。

 僕は土手を下ってなるべく草の根の張っていそうな地面を選んで踏んでいく。「シート」と言われたけど、表が起毛、裏がするするとした防水布地の青緑のブランケットで、端に折り畳んで仕舞っておくためのバッグがくっついていた。

 サンバーに鍵をかけてもう一度土手を登っていく。彼女は今度は川の先の方へ高く視線を上げていた。

「世界の果てに来たような気分だね、なんだか、海の方を見ていると」

 僕もミーアキャットの見張りみたいに横に並んで海の方を見た。緩く広がった河口にもはや明確な陸と海の境目はなく、その向こうでは大気の霞みが果てしない水平線を覆い隠していた。

 我々は川を右手にして堤防の尾根に通った自転車道を歩いていく。アスファルトの上には所々に白い線で標高が示されている。地表も空もあまりに起伏がなく、まるで一枚の大きなカーペットのように広がっている。上空にチョウゲンボウの小さな影が見える。茂みの中でアオジが鳴いている。チヨーコロコロ、チヨー、と澄んだ声。ヒイ、ヒイ、ヒイ、ヒイとやや甲高いセッカの鳴き声も聞こえる。深理さんはカメラを両手で持って僕の前を歩いていく。小鳥が茂みの上に出てきてアシのちょっとした茎なんかに掴まっているのを僕が見つけて指を差すと、深理さんがズームを一杯にしてそれを狙う。撮れたのを屈んで覗いてみると、そうするのは空の明るさを遮らないと液晶が光って見えないからだけど、肉眼より詳しく写っているので種類がわかる。オオヨシキリ、オオジュリン、コジュリン。種類がわかったらまた歩き出す。

 百メートルほど来たところで彼女は「この辺でいいか」と滑走路の方を振り返った。時間帯のせいか人気はない。ラジコン用エンジンの音も遠くに聞こえる。川岸に比べると堤防の上の土は比較的固く乾いていた。自転車道と土手の下り始める間の平坦な土地にサンバーから持ってきたブランケットを広げて座る。

 深理さんは踵を揃えてまっすぐ立ち、両手を水平に伸ばして深呼吸をした。

「どうです?」と僕は彼女を見上げて訊いた。

「うん。とってもいい気持ち。寒くもないし、景色も素敵」

 滑走路に目を向ける。一機がスピードをつけてばたばた跳ねながら走っている。まだ飛び立たない。地面の感触を確かめているだけだ。

「ううん。イベントのことじゃないの。ただ、風の匂いとか、空の響きとか、そんなもの」

「場所?」

「狭苦しさがないでしょう。人間の息遣いみたいなものがたくさんの空気に拡散して、薄められて。ここでは生々しい形や輪郭を保っていることができない。空間と、密度と」

「エントロピィ?」

「そう、エントロピィ。的確な言葉だわ。土地を持て余して少し荒れているくらいの方が好きなの。空白とか、手付かずとか、それはすべて可能性だもの。実際に開拓しなくても心に余裕をもらえれば、私はそれで十分」

 彼女は僕の横に腰を下ろし、肩にかけていたケースからハイテク湯呑みみたいな白い望遠ズームレンズを取り出して膝とパーカーの身頃で囲いを作った中でカメラにつけ替える。できれば風のないところでやりたい作業だ。埃が挟まると撮った画像に全部その影が入ってしまうし、機械的にもよくない。ただ始めに地上にいる飛行機を撮っておきたかったのでさっきは短いレンズをつけていた。

「お父さんの虎の子なの」と彼女は顔を沈めたまま言う。

 外したレンズにキャップを被せてから体を起こし、片膝を立てて腕で櫓を組むように構える。被写体の大きさと速さがどれくらいか感覚を掴まないといけない。

鳥も飛行機もたくさん出てきます。

実際2010年体育の日にあった東庄のイベントです。前日は天気がそんなに良くなかったみたいです。

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