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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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穏やかなチェス

 深理さんは最後に肩を撫で下ろして僕の背中を離れ、今度は向かいの席に座った。つぎはぎのゼロ観の目の前である。顔を近づけて不安そうに確認する。

「おやじさん、今日は車で出かけているんですね」僕は背凭れに肩を預けて全身の力を抜いた。

「そうなの。友達と一緒に今度ラジコンの大会で飛ばす機体の調整に行っているの」

「ラジコンもやるんだ」

「あまり深入りする気はないようだけどね」

「へえ、楽しそうだな」

「ミシロくんも行く?」

「え?」

 深理さんは立ち上がって冷蔵庫の側面に貼ってあるカレンダを一枚捲る。「十月十一日」

 僕はちょっと目を閉じて「空いてると思います」と答える。

「きっと?」

「ええ」

 目を開けると彼女は唇の横の辺りを指で触りながら微笑している。でもそれは僕に向けられたものじゃない。内的なものだ。

 前に時計を見てからさらに一時間ほどが経過していた。ドライアイスはまだ残っているけれど塊は小さくなっていて煙もほとんど出ない。空調が低く唸っている。天井の灯りは点いていない。接着剤の匂いが残っているだけだ。全てが安定に戻ったのだろうか。

 深理さんが自分のマグを両手で取り上げて「来て」という。

 僕はピンセットを仕舞い、カーディガンに腕を通して自分のコーヒーを持っていく。テーブルの上につぎはぎの零式水上観測機とおやじさんのツールボックスが残される。

 手島家の二階には階段を上がった向かいにユーティリティがあって、向かい合わせに置かれた本棚の間に小さなテーブルとチェアが押し込まれている。手島家の書斎といってもいいだろう。北向きなので光はあまり入らないけれど、通りに面して広い窓があるので公園が一望できる。なかなかの眺めだ。南側の庭は周りの家に囲まれていて手狭だから、日当たりさえ気にしなければ書斎の方が居心地はいいかもしれない。低いテーブルは脚と台座が籐で編まれ、その上に丸いガラスの天板が載っている。深理さんは持ってきたマグカップをガラスの上に置いて次の間に入る。

押入れの前で「確かここの天袋だったわ」と言って手を伸ばす。桟には届いているが襖には届かない。セーターが上に引っ張られて裾から白い柔らかそうな腹部が見えた。それを見て僕はひどく喉が渇いたような感じがした。さっき妹さんが僕に求めていたのはきっとこういう感情なのだろう。

「椅子を持ってこないと駄目か」と深理さん。襟に手を入れて下着を直し、腰を左右に捻ってから裾を直す。

「下、開けてもいいですか」僕は押し入れの襖に手を掛ける。

「ええ、いいわよ」彼女は少しきょとんとして答える。

 押入れを開ける。下には衣装ケース、上は棒を張っておやじさんのジャケットやシャツが掛けられている。中段がある。僕はその梁に体重をかけて軋まないか確かめ、足をかけ、柱の出っ張りを手掛かりに登った。目線は鴨居より上にくる。天袋の襖も楽々開けられるし中も見える。

「平気?」と深理さん。手を前に出して僕が落ちてこないか心配する。

「どれですか」僕は訊く。

 深理さんはそのままの体勢で下がって「ああ、それ」と指差す。僕は「これですか」といくつか当たりを付けて彼女が頷いたのを取り出す。手を伸ばして渡す。天袋を閉めて中段から下りる。深理さんが手を差し出してくれたので支えにする。押入れの襖を閉める。飛び下りた時の物音が大きいかなと思ったけれど、幸い妹さんはぐっすり眠ったままだった。少なくとも奥の間の敷居からはそう見えた。深理さんは念のために入っていって妹の首筋をくすぐった。「起きていれば表情に出るから」と言うのだけど、果たして嫌がって寝返りを打っただけだった。深理さんは襖が開いたところに戻ってきて僕と並んでもう一度妹さんを観察した。動きはない。静かに襖を閉める。

「コントラバス、持って帰ってきてるんですね」僕は本の山の麓に寝かされたケースを見て訊いた。

「盗まれると恐いから」

「楽器泥棒ですか。こんな大きな楽器でも」

 深理さんはその場に立ち止まってケースを見下ろす。

「泥棒といってもほとんど部内者なんだって。少なくともそういう噂なの。人目は忍んでも、こっそり侵入するわけじゃなくて、堂々と持っていくのよね。ヴァイオリンとかフルートとか、流通の多い楽器は売りに出されても探し出すのが難しいからよく狙われるようだけど、だから私のが安全ともいえないし、傷をつけられたり、だいたい、失くしてしまうことそのものが恐いものね」

「案外、殺伐」

「そうね」深理さんはちょっと笑ってから「そういえば、聞かせてあげるって言ったのに、まだだったわね。だけど……」と奥の間に顔を向ける。

 人が寝ている横で弾くわけにもいかない。

 彼女はしゃがんでケースの金具を開け、蓋の陰の中に少し覗いた共鳴胴を指で三四度叩く。硬い音だ。

「もともと家ではあまり練習しないの。防音でもないし、隣も近いし、昼間に時間がある時くらい。コントラバスの音ってどれだけ遠くに離れてもまるで真横で弾いているみたいなのね、他の楽器に比べると決して大きくはないのだけど、あんまり低音だから――音というよりは振動なのよね、だから板壁でもコンクリートでもお構いなしに貫通して、全然、うちなんかじゃほとんど外で弾いているのと同じみたい。それに――」とケースを閉めて廊下に出る。

 僕も追っていく。

「それに床も傷む」彼女は書斎の前で廊下が一番広くなっているところを指差した。

 そこだけフローリングが窪んで化粧が割れそうになっていた。膝をついてそこに触れてみる。ここに楽器を立てて、横に立って寄りかかるように弾くのだろうか。

「あの楽譜は?」と訊いて僕は立ち上がる。

「ヒンデミットの『コントラバスとピアノのためのソナタ』」

「ヒンデミット」

 深理さんは曲の頭のところをちょっと鼻歌で歌ってみてくれた。のっそりした感じの曲だ。

「ゲリー・カーのを聞いて面白そうな曲だなあとは思っていて、でも楽譜が難しいのよ。格別に複雑というわけではなくて。音部記号ってわかる? ト音記号、ヘ音記号って」

「ええ」

 深理さんは楽譜を拾ってきて欄干の横で僕に見せる。「ハ音記号なんか読めないわよね」

 五線の左端に仏頂面で居座っている記号に目を近づける。まるで見たことのないミョウチキリンな記号だった。

「この引っ込んだところに重なるのが『ド』なの。せっかく先生に買ってもらったのに、耳コピの方がよかったかなって思っているところ」


 僕が天袋から下ろしたのは古いゲームボードだった。色々模様の違うマグネットボードを着せかえて、チェッカーやソリティアなんかのゲームができるやつだ。ボードも駒も全部盤の中に収納できるのでとてもコンパクトに仕舞っておける。それを書斎の籐のテーブルに置く。箱はまだ開けない。コーヒーの入ったマグからは依然うっすらと湯気が立ち昇っている。窓から公園の木々の葉が風に揺らされているのが見える。深理さんは東側の椅子に腰かけ、目で僕に向いに座るように勧める。強制力はない。もっと軽くて小さなものだ。僕は勧めに従って向かいから深理さんを見る。やはり綺麗な人だな、と思う。細面で、肌は白くほんのり赤い血色があって、本当にこの世のものなのかどうか不確かに感じるくらい綺麗だ。窓から浅く入った光が髪を小麦色に染める。瞳にも同じ色が映っている。僕はその目を見返し、窓に目をやり、廊下の先にある奥の間の襖を窺う。その間深理さんは僕の目から目を離さない。僕は自分がばらばらに分解されてしまうような不安を覚える。それは、どうしてこんなに美しいものが僕の前に存在し続けてくれるのか、という非現実感と、それが永遠には続かない、いつか必ず失われてしまうだろうという喪失の予感が微妙に入り混じった感覚だった。それはたぶん悲しみに似ていた。

 僕はコーヒーを飲む。

「綺麗だと思わない?」深理さんはようやく僕から目を離して奥の間の襖を見た。

「確かに綺麗ですよ。でも好きにはなれない」

「そうね」と少し鼻で笑う。「彼女は人々の激しい関わり合いの中で生きている。愛も憎しみも全て激しい。めまぐるしく移り変わり、咲いては枯れる。まるで証券取引所のよう」

「株式は?」

「私はやらないわ。原資もない」

「僕も」

「でも、私も昔は彼女と同じような生き方をしていた。分別のない人間だった。分別のないということが、綺麗であること、無垢であることの一つの条件なのよ」

「あなたは綺麗だし分別もある」

「無垢ではないのね」彼女はそう言いつつもくすぐったそうに笑った。

「困ったな」

「でも、事実だもの。私は無垢な人間じゃない。いわば、彼女は私の白い影のようなものなの。大事にしてやりたくもあり、殺してやりたくもあり。どちらともつかない。私は……私はね、彼女に私自身の戻りたい過去と消し去りたい過去をともに重ねているんだわ」深理さんはコーヒーカップに手を伸ばし、指先が取っ手に触れたところで動きを止める。まるで道に迷ったかのようだった。立ち止まり、標識を探し、どれが進むべき方角か見極める。取っ手に指を絡ませ、ほんの一口飲んでテーブルに戻す。

「私は本質的に、きちんとした信念や生き方を持っているような賢明な人間じゃないの。目的や自分のためになんて、そんな積極的な理由は。だから、天秤がひとつあって、右の皿には楽しみや好きなものを乗せて、左の皿には嫌なものを乗せて、まだそれが右に傾いている。そういう微妙なもの」そう言って僕に微笑を向ける。健在です、というアピール。「ごめん。私の話じゃなかったね。ねえ、あの子はあなたに何て話したの」

 僕は少し考えてから、妹さんが何を話したか、できるだけ鮮度を保ったままの状態で伝えた。その間午後の光は相変わらず深理さんの頬や瞳を美しく照らし続けていた。コーヒーカップの真っ黒な水面から湯気がゆるゆると立ち上っていた。深理さんは鳶色に光る瞳を僕に向けたまま、時々膝の上で手を組み直しながら聴いた。彼女は事情のあらすじをあまり把握していないようだった。彼女の手元にはステンドグラスの破片のように断片的な描写だけがあって、僕がそこに説明書きを示してやることで、ようやく全体図が見えてきて、ああそういうことなんだと納得している様子だった。

 僕の話が終わると深理さんは長らくガラスの上に置きっぱなしだったゲームの箱を開けた。プラモデルの箱と似た匂いがした。盤の表はソリティアのボードになっていた。そいつをチェッカーのボードに替えてチェスの駒を中から取り出し、白い駒と黒い駒を分ける。深理さんは僕に白を与えて黒を取っていく。指先大の小さな駒の底にマグネットがついていてボードに吸いつくようになっている。前列にポーンを並べるのは僕にもわかった。そこから先はわからない。深理さんは「見て」と言って一番手前の列に黒い駒を並べていく。僕は白い駒でそれを真似る。

 時間の流れはかなり穏やかになっていた。妹さんの起こした大波が収まって普段の手島模型的な凪が戻りつつある。そう、手島模型というのは本来凪いだ場所なのだ。窓の外の公園にオレンジネコが歩いているのが見える。

「ミシロくん、いまさらだけど、久しぶりね」深理さんは脚を組む。「しばらく会っていなかったものね」

「四ヵ月ほど」

「去年会うまでは十六年も知らなかったというのに、不思議なものだわ」

「ええ」

「ラザニア、美味しかった」

「食べましたか」

「もちろん。あんなに美味しいものを食べていてよく太らないわ。帰る時にお皿を渡すから、私が忘れていたら言って」

「はい」

「それから、殲撃十型、八型二、シャオロン、それと強撃五型もあったか。貼っておいたけれど見た?」

「いいえ、まだ」

「忘れてた?」ちょっとおどけて。

「正直」

「それに描いてもらいたいのがかなり溜まってきているの。お願いね。あとでリストを渡すわ」

「はい」

「あと、祭は来た?」

「ああ、ええ。少しだけ」

「うちも町内会の縁で少しばかり噛んでいたのだけど」

「いや、なにせ人がいっぱいで」

 見つけられなかった。けれど、そうか、彼女もいたのか。大通りを埋め尽くす晩の人混みの中で周りの目を引く深理さんの姿を思い浮かべた。

 彼女は駒の整列したボードをちょっと傾けて中から取り出した二つの小さなサイコロをガラスの上に振った。からんと音がする。一と五の目が出る。僕は二のぞろ目が出る。数字の大きい方、彼女が先手だ。

 僕はポーンが歩であることくらいしかルールを知らなかった。深理さんに駒の動かし方を教えてもらう。しかし彼女もあまり得意ではない。僕が慣れてくると同じだけ彼女が上達して結局立場が入れ替わらない。「負け続けるとつまらなくなっちゃうわよね」と彼女は訊いた。

「だからって手加減されるのもつまらないと思いますよ」と僕は答える。「結局、深理さんには敵わない」

 それでも僕らはチェスを続けた。素人の戦いなので一番一番はとても短いのだけど、それも五番十番と重ねていくうちに一時間、二時間というスパンになっていった。僕らはとても長い時間静かに穏やかにチェスを続けた。勝ち負けは問題ではなかった。それは何か壊れてしまったもの、ひしゃげてしまったもの、食い違ってしまったものを元通りに修復するための儀式のように思えた。

 秋の夕日が西の空を赤く染める。カワウのV字編隊が上空をパスしていく。ねぐらの上で散開して各々広い螺旋を描きながら降下していく。餌場は川でも川に浮かんだまま眠るわけじゃない。昼間は隅田川や荒川で魚を獲り、日が傾くと水面に立った杭の上で翼を乾かしてから飛び立って水元公園やなんかの森に帰る。十六時半を回る。深理さんは駒を並べ直すのをやめ、ボードをそのままにして立ち上がる。マグカップの中でコーヒーが乾いていた。


この節の情景描写は金工室の事後に通じるものがあると思います。

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