偶像のレストア
玄関の扉を開け閉めする衝撃が壁を伝わってくる。深理さんが帰ってきたようだ。起き上がって頬に畳の跡がついていないか確かめる。箪笥の上に置いてある時計を見ると僕が家を出てから一時間と少し経過していた。深理さんが出て行ってからもかなり時間が経っているはずだった。そんなに遠くまで行かないとアイスを買えないのだろうか。
「おかえりなさい」階段の上の欄干から顔を出して一階を見下ろす。
「ユミは?」
「寝ちゃいました。眠ってます」
「眠った?」深理さんは階段を上ってくる途中で足を止めて上を向く。その目には驚きと呆れが混じっていた。
「本当です」
残りの階段を上って奥の和室に入る。妹さんは横向きになって顔の前に手を丸めている。寝息は規則正しく、瞼が開きそうな気配はない。このまま十年でも百年でも眠り続けそうな深い眠り。黒い髪が枕の上に広がり、一部が頬に被さって唇に掛かっている。
「よく眠ってますよ」
「ええ、まったく」と深理さんは溜息をつく。そして僕の顔をじっと見つめた。瞼が腫れぼったくなっているのに気づいたのかもしれない。それは僕が何を感じたのか、なぜそうなったのかを考えるための時間、沈黙だった。結局深理さんはそれについては何も訊かず、ただ僕を見つめているだけだった。
彼女はレジ袋を持ち上げて「アイス食べる?」と訊いた。
「何にしました?」と訊きつつ袋を覗き込む。厚紙の箱がひとつ、ドライアイスに囲まれて入っている。袋の手前に突いた手が冷気を浴びている。
「ヨーロピアン・シュガーコーン。あの子これが好きなの」
僕はアイスクリームを食べた時の歯の冷たさとか舌触りを想像してから「食べます。せっかくだから」と答える。
「じゃあ私も」
深理さんは羽織っていた黒いマントみたいに長いカーディガンをハンガーに着せて次の間の長押に掛け、レジ袋を持って腰の後ろを叩きながら階段を下りる。僕も続く。彼女は箱を開けて中身を二つ出してから冷凍庫に仕舞い、浅いボウルに水を汲んでその中に袋のドライアイスを流し込んだ。ボウルはシンクの中だったが、調理台の上まで煙が這い上がってきて一部は床までしゅるしゅると滑り落ちていった。深理さんが悪戯っぽく息を吹くと、煙は一斉に溢れ出して煙が晴れた合間からシンクの底が覗いた。ボウルの中では水に沈んだ石鹸のような塊がぷくぷく大粒の泡を吐き出していた。
「やったことあるでしょ?」
「ええ」
「まだ楽しめるわね」
僕もシンクの中に手を入れて煙を煽いでみたりする。手がひんやりする。我々はドライアイスが消滅していくのを観察しながらシンクの傍でヨーロピアン・シュガーコーンを食べた。案の定深理さんの方が早く食べ終わって、最後のひとかけを飲み込んだところで「ユミが酷いことをしたでしょう」とシンクを覗き込んだまま言った。
「いいえ」
「わかっていて押し付けたようなものだわ」
「気にしないでください」
深理さんは首を振る。
「でも一つだけ教えてください。どうしても僕が必要だったのか」
「謝らないとね」
「いいえ、僕は怒っていませんよ。訊いたのはただ単にそれが気になったからで」
「本当に?」この日の深理さんは僕の扱いに酷く慎重になっている感じだった。
「本当に」
深理さんはレジ袋をきれいに伸ばして細長く折る。丸めて流しの下の扉に仕舞う。
「正直に言うと」深理さんはそう言ったあと唇を窄めて「見せた方が早いか。仕方ない、こっちに来て」と居間の方へ抜けて店の照明を点けた。
蛍光灯がぽつぽつと手前から点灯していく。床が照らされる。向かいの半自動扉のガラスは外のシャッターが下りて暗い鏡のようになっている。そこに僕と深理さんの姿が映る。ショウケースの扉が開いてその手前にプラモデルの破片が散らばっている。近寄ってみるとそれは48スケールの零式水上観測機だった。ほとんど粉々になっている。パーツの接合部が外れているだけでなく、パーツ単体が中程で折れて白い断面が見えているところもあった。この機種は翼の支柱だとか細くて繊細なパーツが多いのだ。ダメージを受けやすい。事態を飲み込んでから、僕の胸の内側は蝋燭の灯がふっと消えたように寒くなった。
それは怒りだった。二階で寝ている女を叩き起こして一撃殴ってやるところを短く一瞬思い描いた。
「手を」と背後の深理さん。僕の肩を両側から押さえている。
僕は肘を曲げて強張った右手を肩の高さに持ち上げた。
彼女は腕を離して右手でその手を下から取り、左手を甲の上に被せた。文鳥でも捕まえるみたいな具合だった。
「罰は必要だ」僕は言った。
ほんの少し前まで僕の体を満たしていた怒りは真空に吸い出されるようにしてすっかり醒めようとしていたけれど、僕はどこか上辺でそれを認めまいとしていた。
「もういいのよ」
背中から抱かれる僕のさまは目の前の暗いガラスに映っていた。床に散らばった破片もひとつひとつ見えた。深理さんは目を伏せていた。
「珍しく模型を見たいなんて言うものだから開けてあげたの。それで、埃が溜まっていたから私はクイックルを取りに行って、その間に落としたのよ。意図的に。あの子は『ごめん、落としちゃった』って言うのだけど、無為だったら落としたところで声が出るでしょう。何かしら、悲鳴が。でもなかった。ほとんど隠すつもりもないみたいだった。わざとだってアピールしているみたいだった。それで私は殴ったの。思い切り」
「殴った」
「ええ。渾身の力で。あの子の頭どこか腫れてなかった?」
「いや、気づかなかった」
「よろけてそこの壁に打ちつけたの。それくらい強く殴ったのよ。見て、まだひりひりする」深理さんは上下の手を入れ替えて右の掌を僕の顎の下に見せた。「そんなことすべきじゃなかった」
「なぜ? 後悔するようなことじゃない。正しい報復だ」
深理さんはそこで一層強く僕を捕縛した。
「怖いのよ、自分が人を傷つけるということが、とても」
「だから」
「そう、どうにかしたい、でも自分では手が出せない、だから」
「だから僕が」
「ええ」
二呼吸ほど置いて僕は彼女の手を解いた。
破片を拾う。上翼が外れ、右のフロートの支柱全部とプロペラ一翅と翼の梁線の幾筋かが折れ、ピトー管と後部座席の風防に至ってはどこかに吹っ飛んでしまって見当たらなかった。胴体は尻尾の方からパーツの分け目で裂けていた。コクピットの中もかなり壊れている。胴体を振ると中でからから音がした。尻尾の隙間から取り出してみて計器盤だとわかった。
「直せる?」
その言葉には妙な威力があった。僕は肯く。肯くしかなかった。まず目の届く範囲にある破片を拾い集めて居間のテーブルに持っていった。それから上に着ていたカーディガンを脱ぎ、床に這いつくばって風防とピトー管を探した。深理さんは僕のカーディガンを抱えて横にしゃがんで見守っていた。そいつらは結局棚の下から出てきた。体の右側が埃まみれになった。手島模型の床はもともとがボロなところに目を瞑れば結構清潔だけれど、棚の下の隙間までは掃除が行き届いていない。手を突っ込んで掻き出すので指先に何かが当たる度にゴキブリかカマドウマじゃないかとびっくりした。目当てのものの他に五センチくらいのネジと埃まみれのアース・ブラックキャップと上着用の大きなボタンと百円玉と十円玉がひとつずつ出てきた。
最後のパーツを持っていってひとつひとつ断面が合うか確認しながら数える。結局ゼロ観は全部で十八の破片に裂かれていた。
「腕を出して」と深理さん。僕が言うとおりにすると台所で絞ってきたタオルで埃や汚れを拭ってくれる。折り返して黒いTシャツの脇腹も同じようにする。
「自分でやります」くすぐったかったので僕はそう言った。
けれど彼女は「いいから、そのまま」と。それはなんだか有無を言わさぬような口調だった。
「流し込みのタミヤセメント、ピンセット、それと目玉クリップか何かスタンドになるもの、貸してください」
「いつもお父さんが使っているのでいい?」
「いいんですか、勝手に使って」
「だってそれしかないもの。構わないわ、私が使わせるのだから」
彼女はおやじさんがいつも使っているツールボックスを持ってきてテーブルに置いた。ツールボックスといってもハセガワの古いA帯の細長い箱をそのまま使っているだけで、ボックスアートに小池繁夫の紫電改が描かれている。オレンジ色の雲をバックにフラップを開いてF4Uと交差するところだ。深理さんが蓋を開ける。ニッパーだとか鑢だとかいろんな工具が鉄屑みたいに放りこまれている。僕が要求したものは全て入っていた。
「道具はいいわ。でも、あなたはいいの? つまり、作らないと決めていたのには訳があったんじゃない?」
「あったかもしれないけど、それは、いずれにしても嫌だったから作らなかったんです。今はそんな」僕は苦笑して相手を見上げる。「だって、直さないと」
深理さんは後ろに下がって食器棚の中段に手をかけ「優しいのね」と後ろめたいような微笑で呟いた。
「いけませんか」
「いいえ。でも、優しさは時に自分自身を傷つけるものよ」彼女は顔を俯け上目に僕を見て答えた。「それが見返りを求めるものなのか、それとも咄嗟にしてしまったことなのか、相手にはわからない。その前に、相手が気付いてくれない時だってある」
「そうかな…」
「そうよ。健気なものよ」先生みたいに言い聞かせて彼女は食器棚を離れる。
まずプロペラをスピナと一緒に根元から抜いて胴体前部を逆立ちさせる。折れた胴体の断面に接着剤を薄く点々と塗り、貼り合わせる。隙間にさらに接着剤を流し込んで様子見。うまく逆立ちしているので隙間はきちんと接したまま広がってこない。同じ要領で他の部分もくっつけていく。自立しないところはマスキングテープで保護したクリップで挟んでリンゴ飴みたいに上手く立ててやる。
四十分くらいかけて全体を終わらせた。機体内部を直すのがやっぱり一番難しかった。下の主翼とエンジン部がしっかりくっついているので一旦全部割いてしまうということもできない。ピンセットを突っ込んでなんとかくっつけた。接着部はセメントのてかりが残るし、塗料も少し落ちるのでどうしても罅が残ってしまう。でもおやじさんが塗料の調合をどうやっているのかわからない。僕にできるのはそこまでだ。台車に載せて遠目に眺めてみる。形は元通りになった。しかしそこには毀れる前の姿から何か永遠に失われてしまったものがある。よくわからない。でも確かに欠けている。
深理さんはアイスと一緒に買ってきたものをトートバッグから冷蔵庫やパントリーに仕分けたあと、僕の作業の間斜の席に座って頬杖を突いて静かに見守っていた。僕が息をついたところで腰を上げてコーヒーを淹れてくれる。椅子にだれっと座った僕の前にカップを置く。それから今度は僕の肩に両手を掛けて肩揉みをする。
「お疲れ様」
「なんとか、まあ。レタッチをすればもう少しマシになると思うけど、色の具合がわからないのであとはおやじさんに任せます」僕は揺さぶられながら答える。
「ええ、十分やってくれた」
今日の深理さんはなんだか「触れ合い」に積極的なようだった。妹に対抗しているのかかもしれない。それとも久しぶりだから適切な距離感を忘れているのかもしれない。僕は少し忘れていた。夏までの僕がこんなに深理さんに触れられていたらどきどきしすぎて気絶していたかもしれない。でも今はそこまでの感動はなかった。白州さんとの関係が僕を変えたのかもしれない。それとも妹さんのせいでただ感覚が麻痺していただけだろうか。いずれにしても彼女の肩揉みは純粋に気持ちがよかった。目を瞑ると眠りに落ちてしまいそうだった。
「私も肩凝り腰痛持ちだからね。揉むのは得意なの」
保冷剤はわかった。殴ったからだ。自分の手を冷やすよりも相手の頬、あるいは頭を冷やしてやりたかったのだ。でも僕が来るまではあの部屋に入れなかった。決心がつかなくて握ったままになってたんじゃないだろうか。玄関の方を覗き込んで確認してみたけど、冷凍庫に戻したらしく下駄箱の上にはもう見当たらなかった。
アンのハリケーン(本物)と深理さんの零観(模型)は対です。ともにバラバラにされ、片やそのまま、片や直される。ただ両者は根本的に存在意味が違う。模型の方は何度レストアされても、どれほど長く存在し続けても意味は変わらない。もとの価値を保持し続ける。直すことがナンセンスだということはない。本物ではない模倣物であるがゆえに意味を保ち続けるのです




