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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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機転の利かない人間だから

 七月。その日も雨だった。風に流された大粒の雨が廊下の窓ガラスを叩いていた。さらに突風が吹くと向かいの棟の屋根に溜まっていた雨粒が飛ばされてきて、クラスター爆弾が落ちたみたいな「ばばばっ」という音がした。

 校則というほどのものではないけれど、学校の決まりの中に、体育、技術、美術の授業、それと理科の実験の時は生徒は体操服・ジャージに着替える、というのがあった。それらの授業は教室の移動が伴うので、前後一時間の授業はジャージのままで受けてよいという補則もあった。生徒の間では上だけジャージを着て下は体操着のハーフパンツという格好が暗黙のオシャレコードになっていて、夏場に半袖短パン、冬場に上下真っ青な長いジャージを合わせるのは不慣れな一年生だけだった。冷静に考えればいずれにしても一人で外に着ていけるような格好ではないのだから、学校社会特有の階層意識の作用だったと思う。大抵の子供が知らぬ間に魔法にかけられているのである。

 休み時間は十五分。次の授業が美術室なのでクラスメートはほとんどすでに移動してしまって、教室には日直しか残っていなかった。僕と、それから伊東という吹奏楽部の女子だった。色白で背が高くて、黒い短い髪をいつもピンで額の上に留めていた。ヒマワリみたいに影のない明るい感じの性格だった。狭霧は学年ではかなり活発な方の女子グループに属していたけど、伊東もそのグループの一員だった。

 僕らは教室に残って黒板をきれいにしていた。例によってジャージ姿だ。前の授業が数学なのだけど、担当の先生に癖があって、数式の説明をする時にチョークの先を何度も、執拗にといってもいいくらい黒板に叩きつけるのだ。そのせいで黒板に点々とチョークの塊がこびりついていて、ラーフルを一回擦っただけだと流星みたいに尾を引くから、何度も擦ってやらないといけなかった。ラーフルのことが可哀そうになってくる。それから粉を穴に集めて、濡れ雑巾で桟を拭く。雑巾は汚れるので水道の冷たい水できちんと洗って配膳台の梁に干しておく。伊東はその間にラーフルをクリーナに掛けておく。伊東の仕事も結局手を洗わなければならないのだけれど、寒い時期はどちらかというと僕の仕事の方が苦役だった。僕らは教室の電気を消して教科書と絵具セットを手に廊下に出た。

「ミシロさ、狭霧の家に行ったんだよね?」伊東は僕の少し前に出て半分振り返り、気持ち程度に目を合わせて訊いた。彼女は黒いフリップ式の珍しい道具鞄を肩に掛け、教科書と筆箱を小脇に抱えていた。

「うん。先週の金曜日でしょ?」僕は絵画道具のための入れ物を持たない主義だったのでパレットと絵具と水入れを教科書と一緒くたに抱えていた。

「ミシロは狭霧と家が近いの?」

「近いよ。駅は隣だけど、金曜は届け物をした後にそのまま歩いて帰ったくらいだから」

「へぇ、小学校は? もしかして幼馴染なの」

「小学校は一緒だけど、でも、幼馴染ってほどじゃないよ。五年の時に柴谷が越してきてからだから」

「へえ、そうなんだ」伊東はチェシャ猫みたいににやにやした。僕が顔を見上げると表情をニュートラルに戻して向こうに目を向けた。「家にいる時の様子はどうだった? 変じゃなかった?」

「柴谷が?」

「うん。ミシロのこと歓迎してた? 淵田とのことがあってからなんだか変なの。学校で会っても自分から挨拶してくれないの。もちろん私から『よっ』てやれば返事してくれるけど、あんまり積極的じゃないの。それはなんだか私に対して、相手に対して信用の疑いがあるみたいな感じなのよ。本当に自分を友達だと思っているのか、みたいな疑いがあるのよね。人間関係の橋をしっかり踏んで確認し直しているみたいなの。点検中は通行止めなのよ」

 僕らは少しの間黙って歩く。お互いが柴谷狭霧について考えていた。

「淵田とのこと?」と僕は訊く。

「そう、関係こじらせて。――あれ、知らないの?」伊東は驚いた。「二人、付き合ってたんだけど」

「知らない」僕は首を振った。「……てた?」

「そ。一二ヶ月かなあ。淵田から狭霧に。彼女はOKして、でもすぐに噛み合わなくなっちゃったんだな。絶対淵田が悪いんだけど、でもなあ、狭霧も少し変だったかな。悪い別れ方だったから、お互い今でも目を合わせないのよ。廊下なんかですれ違うと、一緒に歩いてる私までぴりぴりしちゃうのよね。そう……、狭霧には家のこともあるし、先生が心配して私にも話を聞くくらいだから、ミシロなら知ってると思ったけど」

 僕は茫然としていた。僕はそういったゴシップには疎いのだ。誰と誰が付き合っているとか、そういう話題にはあえて首を突っ込まないことにしていた。

 けれど心当たりならあった。狭霧は一時期校門の外に一人で立って誰かを待っていた。季節は冬で、もうすっかり空が暗くなっているのに彼女はマフラーに鼻までうずめて、時々交差させた足の前後を入れ替えながらコートのポケットの中で使い捨てカイロをしゃかしゃか振っていた。

 僕は手を振って挨拶して、「誰か待ってるの?」と訊いた。

 狭霧は「うん」と肯く。でもそれだけで何も説明的なことは言ってくれない。

 面倒臭がられているのかもしれないと感じたので深入りはしなかった。僕も少し歩幅を小さくするだけで、立ち止まりもしない。一往復だけの短い会話だった。僕はそれから何度か同じような彼女の姿を見かけて、その度「じゃあね」とお別れの挨拶だけを互いに交わし続けていた。

 僕が思い出しているうちに教科書の上でパレットがだんだん奥の方へ滑り出していた。慌てて腕の中のものを抱え直す。その時教科書の見開きに挟んでおいたプリント類がすっぱ抜けて、床の上に全部ぶちまけてしまった。僕は機転の利かない人間だから、動転した勢いでとんだヘマをやってしまうことが少なからずあった。幸い渡り廊下を過ぎた開けた空間だったので通行妨害にはならなかったけれど、生徒たちは下級生も上級生もみんな迷惑そうに脇に避けて通っていった。大勢の人間が僕に注目しているという状況がことさら焦燥を煽った。

 伊東は拾うのを手伝ってくれた。スケッチの類もいくつかあって彼女は「わぁ、上手だね」とか気の紛れることを言ってくれた。こんな話のあとでなければ照れていただろうけど、どうも素直に喜べなかった。

「柴谷と淵田って、どういう事情なんだ」美術室までの残りの道のりで僕は訊いた。訊きづらかったけれど、訊かなければ気が収まらなかった。

「本人に訊いたら?」伊東は素っ気なく答える。

「そこまではしたくないよ。そんなことしたら柴谷が困るじゃないか」

「私はね、ミシロが知ってると思って言っちゃったの。それは謝るよ。だけどあなたが知らないことを知ってたらちゃんと隠してたよ」

 休み時間の美術室では生徒たちがまだ思い思いのことをしていた。スケッチブックを取ってきて見せ合ったり、乾燥棚へ行って他クラスの知り合いの作品をコケにしたり、机の天板を起こして文房具とビー玉でピンボールをしているのも居た。狭霧は入口正面奥の窓際のストーブの辺りで他の友達と話をしていて、伊東が遅れて加わると、一緒に歩いてきた僕の方にもついでに顔を向けた。伊東から話を聞いたのか、少しばかり特別な感情を秘めた表情だったかもしれない。僕らは目を合わせたけれど、その短い一瞬の間に僕は上手く微笑むことができなかった。

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