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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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 僕は膝歩きに近づいて彼女の手を取ってから肩に手を回した。こんなのはダンスと同じようなものだ、というイメージでしばらく彼女の体に腕を絡めたままじっとする。つやつやした髪の上から首筋に頬を当てる。それは何か、初めて会った犬を撫で回す前に手の匂いを嗅がせて安心させてやるのと同じような意味を持った儀式だったと思う。僕と彼女では呼吸の速さが異なっていた。

 後ろに回ってジャケットを脱がせる。二の腕に手を滑らせる。背中のファスナーを下ろして肩から首筋へ絡みつくように登る。胸は深理さんほどは大きくない感じがする。腰はすっきりしている。下腹部に手を当てると、丸く膨らんだり平べったくなったりしている。僕は彼女の下着の縁を探り当て、出来るだけ乱雑に、そして短時間でことを済ませた。

 彼女は布団の上に倒れて肩で息をしている。額に汗が浮いている。

 僕は洗面所で手を洗う。ナイフで誰かを刺し殺したあとのようにしっかりと洗う。泡を流すと自分の掌や指先がいつもより薄黒く見えた。自分がどんな顔をしているか知りたくなかったから鏡は見なかった。ずっと顔を伏せていた。

 部屋に戻る。奥の間では妹さんが敷布団の一枚を伸ばして毛布の間に潜り込んでいた。こっちに背中を向けて眠っているみたいだった。

「もし君がまだ眠っていなかったら、そもそもの訳と経緯を聞いておきたいんだけど」

 僕はそのまま数秒のあいだ立たされていた。

「誠実な男だったな」僕が待つのを止めようとした時に妹さんは答えた。「一人でも生きていけるのよ。だけど、話すとか、遊ぶとか、セックスをするとか、そんな相手として私がいたらもう少し楽しいかなって、そういう人間だよね」

 僕は布団の横に正座をした。彼女は僕に背中を向けたまま話し始めた。たぶん僕が聞くことより彼女が話すことの方が大事だった。

「生まれて初めて男の方から振られたわ。今まで一度もなかった。ずっと私の方から振ってきた。付き合う前にこの人とは合わないと思えば断るし、一週間かニ週間、ちょっと付き合ってみて駄目だと思えば別れるし、相手が合わないって思っている時でも、私にはなんとなくそれがわかるの。それで相手がはっきり言い出す前に私の方から言ってやってきた。でも今度の人はとても感じがよかったのよ。私にぴったりな感じだったわ。それで何度かデートをしたんだけど、食事も奢ってくれたし、話も聞いてくれるし、ユーモアもあるし、悪くないなって思っていたわ。相手が私のことを本当はどう思っているのか、思い違いをしていたんだ。君よりも好きな人がいる、すまないけど別れようって突然言われて、本当にショックだった。ショックだったのがここに来た直接的な理由。

 でもそれから色々考えてみて、一番心残りなのは振られたってことじゃないんだって思えてきた。彼は叱る人だった。その前にグダグダ喋る人だったな。時間が余ると場所がどこだって自分の持っている雑学とかトリビアとか、そういうのなんて言うのかな、オタク的で他人にはわからない」

「蘊蓄?」

「そうそう。彼の場合途方もなく延々と飛行機の話をするのよ。あれはナントカ航空のカントカ型だとか、羽田空港のターミナルは世界的に見てナントカだとか。あんたそういうのわかる?」

「わかるかって、ナントカ・カントカだけじゃ君の話にはまったく何の情報もないじゃないか」

「とにかく飛行機の話よ。あんたこの店で働いてるんでしょ?」

「飛行機の機種くらいはわかるけどさ、僕は旅客機には詳しくないよ。空港のサービスとか、キャビンアテンダントの服装とか、そういうのは専門外だ」

「じゃあ何がわかるの」

「軍用機だよ」

「飛行機にもいろいろあんのね」

「君が無知なんだ」

「彼もそう言った」

「どんなふうに?」

「そんな話聞いていても私にはさっぱり分からないもんだから、基本的には黙って聞いていて、適当なところで適当に相槌を打っていたのよ。そしたら彼は、わからない、なんて言っちゃいけないって言うのよ。どうして? だってそんなことって普通の人間には目の向けようのない世界じゃない? それを知らなきゃいけない? そりゃあ、叱るっていうのは無言で冷たい目を向けるよりはマシなことだよ。いい方へ直ることを期待するから叱るの。もしも見捨てるつもりなら何も言わない。それはわかってる」

「ともかく、君は寮になんか入らずにこの家に残って店の手伝いをしていれば少しは彼に話が合ったかもしれないと思って後悔した。間接的に、深理さんに嫉妬したってことだ。彼女だったらきっと彼と話が合うだろう」

「たぶんね」彼女はちょっと変な声でそう答えたあと、またひとつくしゃみをした。

 僕は上を向いて考え込んだ。喉の皮膚がいっぱいに引っ張られている。妹さんは僕が何か反論しようとしているのを察知して窓際にあった冬掛けを引っ張って全身を隠した。そのせいで僕はもぞもぞした繭のようなものに向かって話しかけなければならなかった。

「彼は君に知識の要求はしていなかったんじゃないかな。わからないと言わないでくれっていうのは、わかると言ってくれという意味じゃない。別に理解してほしいわけじゃないんだ。君の言うとおり、彼の趣味の話は世の中の全ての人間が知っているようなことじゃないし、知るべきことでもない。個人の中だけで楽しめばいい話だ。彼だって自分が話すことで相手が自分の趣味に興味を持つなんてことは期待していないはずなんだ。ただ、彼が指摘したかったのは、君の聞き方がやっぱり酷いってことだな。どんな瑣末な話であっても相手が自分のことを好きならきちんと聞いていてほしい、彼はきっとそう思っていた。なのに、わからないなんて言ったら、あんたの話はつまらない、だから聞いてなかった、そう宣言しているようなものだよ」

「だって、実際わからないんだもん」繭の中から籠った声が聞こえる。

「興味のない理解できない話でも憶えておくことはできる。ちゃんと聞いていたらナントカカントカにはならなかったはずだ。もし憶えていることもできないなら、相槌なんか打たずに黙って聞いているだけの方がずっといい」

 妹さんは冬掛けを跳ねのけて毛布を少し直した。「ねえ、もうほっといて」

「わかった」と僕は諦める。

 妹さんはもぞもぞと体の位置を微調整したあと規則正しい深い呼吸に入る。僕はしばらく毛布に包まれた妹さんの後姿を見守っていた。そしてふと「僕の考えをひとつ聞いておいてほしいんだけど」と訊いた。返事はなかった。だから僕は言わなかった。自分の声が誰にも届かずに行き場を失って消えてしまうのが怖かったからだ。それに、僕は疲れていた。自分の疲れに気づき始めていた。肩と頭がレンガのように重かった。

 僕は腰を上げ、「ごめん」と一声かけて次の間に入った。

 本の部屋だった。ロの字型の板箱が二層から三層に積まれて壁際に整列して、その中に本が詰め込まれているのはもちろん、板箱の天面、机代わりの卓袱台、部屋の隅にも違法建築のように本が積み上げられている。図書室の本のように表紙が外れていたり題字が掠れて消えかけているのも多いが、ほとんど哲学の本だった。その麓にコントラバスの暗い赤の大きなハードケースと安っぽい桃色のピアニカと開いた楽譜が無造作に置かれている。深理さんは奥の間で譜読みでもしていたところに妹さんが押し入ってきたから慌てて避難したのだろう。

 奥の間との仕切りには波千鳥の平面的な彫刻のついた欄間が嵌めてあり、透かしを通ってきた光の中に小さな羽毛のような埃の筋が無数に見えた。布団を散らかしたせいで埃が舞っているのだ。その動きを目で追う。いくつかの埃は廊下の板の上に落ちる。いくつかの埃はわずかな気流に乗って昇っていく。

 体の右を下にして畳に横になって目を瞑ると、頭の闇の中に大地讃頌の間奏が流れていた。ピアノ伴奏が一番ダイナミックなところだ。その曲に合わせてまだ小さなクマノミたちがまるで楽譜の上の音符のような列をなして泳ぎ去っていった。それは白砂の上に緑や赤のサンゴが群れた明るい海なのに、クマノミたちが去っていった方角の水は暗く沈み込んでいて、彼らの後ろ姿はすぐにその闇の中に紛れて見えなくなってしまうのだった。海の中に動くものがなくなると大地讃頌の伴奏も次第にでたらめな音が混じってきてやがて止まってしまった。

 そうしているうちにだんだん涙が出てきた。目の横にハンカチを敷いて畳を濡らさないようにした。喉が震え、肺がやたらめったらに空気を吸い込んだり吐き出したりしていた。あるいは時々固まって空気の流れを押し留めたりする。嗚咽はない。それだけだった。

 涙を拭いて仰向けになり、携帯電話を出してその角を瞼のあちこちに押し当てて冷やす。そのうちきちんと瞼が開くようになる。腕を広げると左手の先がピアニカのケースに触れた。蓋は開いている。もう少し手を伸ばして最初に指の触れた真ん中のシを押した。空気を送っていない。音は出ない。

 中学二年の冬、帰りの歌の時間に僕はくしゃみが止まらなくなって流しで水飲み鳥みたいにうがいを繰り返していた。

 そこに柴谷狭霧がピアニカの吹き口のホースを洗いに出てきた。彼女は蛇口を開いてホースに水を通した。ステンレスのシンクに水が跳ねる音と、僕のうがいと、背後のいくつかの教室から漏れてくる歌の声、キーボードとピアニカの音が廊下の空間にぼんやりと混ざっていた。狭霧は蛇口を閉じて「どうしたの?」と訊いた。僕は水で口が塞がっていたものだからすぐには答えられなくて、シンクの水流の中に吐き出してから「くしゃみが止まらなくなってさ」と返した。

「風邪?」

「かも」

「無理しない方がいいよ」

「うん。無理しないで抜けてきたんだ」

 狭霧は水気を払ってタオルでホースを包みながら頷いて、「お大事に」と言い足す。まるでそれが一番伝えたかったことであるかのように僕の目にきっと目を合わせて。

 そこで記憶が途切れる。狭霧が吹き口を洗っていたのはパートの伴奏だったからだ。ソプラノか、アルトか。どちらだろう。三年の時はアルトだったけれど。

 僕はその頃の世界に戻りたかった。でもそれは完全に過ぎ去った時間であり、二度と繰り返されることはなかった。

2019年12月14日

運営より年齢制限に関する通告を受け、この部分にも「比較的」直接的な性描写があると思い至り一部地の文を削り取りました。作品のオリジナリティを尊重する方はカクヨム当該部分で原作を読んでください。

https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054886979475/episodes/1177354054891964180


誰かが泣くシーンはあとにも先にもこれっきりだったと思います。金工室の狭霧だって泣いちゃいなかった。だいたいにしてこのシーンほど登場人物たちが荒っぽい感情を表に出すことが稀なのです。これでもかなり意識して抑えて描写している。


というのも僕はやたらめったら怒鳴ったり泣き叫んだりするお話が嫌いなのです。(特に近年の邦画ァ、そのCMゥ!)あれはやりずらくなった暴力の代替なのだ、なんて与太話が流布していますが、僕も全くそのとおりだと思います。よほどアメリカン・アクションみたいな静かな暴力の方が好きです。


で、「僕」が涙するのはもちろん手島由海に狼藉されたから、ではありません。クマノミと不可塑のモチーフを示したとおり、「僕」が中性的存在でいられなくなってしまったからです。でもそれも直接的には手島由海の要求によるものではなく、深理さんに男と認められたことによるものでしょう。「僕」を変化させていくのはあくまて深理さんなのです。

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