狼藉
「来てくれたわよ」と深理さんは襖を邪魔していた布団を持ち上げながら言う。部屋の荒れようにはさほど驚いていない。
妹さんは恐る恐る頭を出した。腫れぼったく赤くなった目を余計に細めて僕を睨む。僕が動いてもその目はずっと僕を追尾している。正確に、まるで銃口でも向けるみたいに。顔立ちは深理さんによく似ている。でも全体が痩せている分いくらかシャープで余裕のない印象を与えている。目の周りや鼻の頭が真っ赤でなかったら少し違っていただろうか。青と緑の細かな花柄のワンピースにデニムジャケットを着ている。茨のような雰囲気を感じるが、僕は頑張って深理さんの前に出て畳が露出している一画にしゃがむ。できるだけ愛想よく。動物に近づく時と同じだ。妹さんはすぐに横に向って顔を上げ、少し離れて敷居に立っている深理さんを見上げる。その目が何かを訴える。
「おとこぉ?」と妹さんは遂に言う。スキーのジャンプ台みたいに語尾が持ち上がる。
「そう」深理さんは胸の上で腕を組んで低い声で答える。
「誰?」
「うちのために飛行機のイラストを描いてくれるミシロくん」
「いつから?」
「去年の十月から」
「歳は?」
「十七?」
「まだ十六です。生憎」
「何で白州さんじゃないの?」
その質問には僕も深理さんを振り返った。
「……どうしてそんなこと訊くのよ」深理さんは動転して答える。立場が悪いらしい。
「白州さんが良かったなあ」
「だって、あなたそうとは言わなかったじゃないの。白州くんがいいとは」
「ふぅん」と言って妹さんは僕に監視の目を戻す。「あんたはこっち向いてなさいよ。ゆっくり、手を開いて見せて」
僕は言われた通り掌を見せてホールド・アップの姿勢をとった。何だろう、鎮静剤の注射でも隠し持っていると思ったのだろうか。
「お姉ちゃんはそこを動かないで」彼女は怒鳴った。それから僕に向かって投げつけるみたいに「いいわ、そこに座って」と言う。
僕はもう少し近づいて拳銃を置くみたいに再びゆっくりしゃがみ、それから正座した。
「いい? あなたは今から私の言うことを聞くの」
「君の言うこと?」
「あんたは私を慰めるのよ」
「ふむ」
「どういう意味かわかるでしょう?」
妹さんは僕を睨んだまま布団を脱ぎ、ゆっくり膝の前に両手を突いて獲物を狙うヒョウのように慎重に向かってくる。僕からはワンピースの襟刳りに胸の谷間がしっかりと見える。
彼女は僕を押し倒す。僕の手は彼女を受け止めるか後ろに突くか選べないまま宙を掻く。視界が後方に流れて板張りの天井が見える。自分が倒れているのはわかる。でもどこまで倒れて行くのかまるで見当がつかない。どこまででも落ちて行きそうな気がする。自分ではどうしようもない。ただ落下の恐怖だけがある。そして思ったよりもずっと早く衝撃が来る。後頭部を畳にぶつけた衝撃で頭がくらくらする。
目を開けて首を起こすと僕の鎖骨のあたりに彼女がぴったり頭の横をくっつけているのが見えた。シャンプーの優しい匂いがした。睨まれながら抱きつかれるなんて初めてのことだった。そもそも誰かに抱きつかれるのが初めてじゃないか。いや、初めてではないか。
それからはっとして深理さんを探す。彼女はさっきと同じ立ち位置で、何かに吊り上げられようとしているみたいに肩を縮めて竦み上がっていた。手の施しようのない、取り返しのつかない事態に直面している。顔色が青白い。きっと僕も同じような具合だっただろう。
しかし間もなく妹さんの手が顔面に覆いかぶさって首を反対に向けられてしまった。爪を立てているので抵抗すると引っかかれる。
「何のつもり?」僕は苛々しながら言った。声はほとんど妹さんの掌に当たっている。
「言ったでしょ?」
「強引が過ぎるな」
「何、その言葉遣いは」
「どいてほしいんだけど」
「どうして? 慰めてほしいだけなのに」
「僕じゃ駄目なんだろ?」
「よくはないけど、仕方ないじゃん」
「仕方ないって?」
「ここにはあんたしかいないんだから」
「へえ。でも僕は嫌だな。君は僕のことなんか全然尊重してないようだし」
「尊重だって」
「おかしい?」
「そういうプライドみたいなのって要らないのよ」
「軽蔑するよ。僕は君を軽蔑する」
「考えてみなさいよ。あんたは私とセックスできるのよ。それも誘ってもらってるのよ。ホモセクシャル一筋でもなきゃちょっとは考えるでしょ?」
「愚かだ。慰めすなわちセックスあんてあまりに貧しい連想じゃないか」
「こんなに可愛い子がしたいって言ってるのに、もったいないと思わないの?」彼女は深理さんを見ながら言う。
「君とはしたくない」
「嘘だね。早く脱ぎなよ」
「君とはしない」
立て続けに二度拒絶すると妹さんは僕の顔を押さえつけていた手を離した。そしてただ単に僕のことをぎゅっと抱いた。「お願いだから」と打って変わって弱々しい声で言う。心にくすぐったいような痛みを感じた。
心底嫌気がさした。なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだ。こんな出鱈目な激情の嵐に囚われなくちゃならないんだ。乱暴されて、抱きしめられて、これじゃあまるでぬいぐるみしゃないか。帰りたい。早く帰ってアイロンの続きを済ませてしまいたい。そして布団に深く潜り込んでなにものにも邪魔されずにぐっすり昼寝したい。
でも僕は深理さんの顔を見上げた。これは僕に託された問題なのだ。背を向けてはいられない。僕がなんとか処理しなければならないのだ。
「事情がわからないんだよ。納得がいかないんだ。君がどうして僕なんか初対面の奴とセックスなんかしたいのか」
「言ったらしてくれる?」
「君のお姉さんにも教えてないんだろ」
彼女は僕の腕の中に潜り込んで顔の半分だけで深理さんを見つめる。「アイスが食べたい」
「なに?」と僕。
「あんたに言ってんじゃないの」
「アイス?」と深理さん。「チューペットなら冷蔵庫にあるけど」
「あれは嫌だ。あれはシャーベットっていうの。アイスクリームならなんでもいいから。冷たくてやわらかくて甘いもの。他にないの? お姉ちゃん買ってきてよ」
「今、どうしても食べたいの?」
「買ってきてよ」
深理さんは右手で左の手首を握って指で叩いている。「わかった。なんでもいいのね」
「うん、なんでもいい。アイスクリームならね」
僕は深理さんを見上げて彼女の判断を待った。
「少し面倒を見ていて」
僕は肯く。
深理さんは部屋を出ていく。階段を下り、玄関から出たのが音でわかる。深理さんがいなくなっても妹さんはそのまま――どころか鎖骨の辺りにぺったりと頬擦りをしている。頬骨が当たって痛いのだけど。
「もうお姉ちゃんに気を使わなくてもいいんだよ?」
彼女が首元を僕の胸にくっつけているせいでその声はどちらかと言うと僕の体の中を伝って聞こえてきた。
「僕はまだ君の前で嘘は言ってない」
「見上げた忠誠心ね」
妹さんはようやく僕の肩を押さえて下がり、取り澄まして正座する。膝の下には薄いマットレスが敷かれている。
「君だって心の芯からしたいなんて思ってるわけじゃないだろ?」僕も後ろに手を突いて起き上がり、裾を引っ張って髪を直す。
「その言葉遣いなんとかしなさいよ。歳下でしょ?」
「もう無理だよ。いまさら君のことを敬うなんて。敬ってほしいなら君にもそれなりの振る舞いが必要じゃないか」と言いつつ立ち上がって布団の片付けに取り掛かる。どこから手をつけていいかわからないのでとりあえず足元に広がっているブランケットを取り上げて角を合わせる。
「じゃあ教えてあげない」
「教えるって、君の事情を?」
「他に何かあんの?」
「君は誤解しているようだけど、僕が君の事情を知りたいんじゃないよ。君が僕に慰めてもらうためには話すことが必要ってだけで、話してもらわなかったところで僕には何の不利益もない」
「それ、理屈を捏ねるのやめたら? 全然セクシィじゃないよ」
「残念だったね」
「何が?」
「白州さんじゃなくて」
「いいのよ別に、あんたでも」
「僕は君のことなんか好きじゃない」
僕は彼女の高圧的で独裁者ぶった感じを拒絶していた。それは独裁者みたいだから嫌だ、なんて論理的なものじゃない。耳の後ろがぞわぞわして悲鳴を上げたい気分だった。
「私だってあんたに嫌われても一向に構わない」
「でも慰めてもらいたい。矛盾してるな」
「私だってね、したいんじゃなくて、しなくちゃならないのよ。わからない? それは必要な儀式なんだって。私はあんたとしなきゃいけない。それに私の言うことをひとつは聞き入れてもらわないと困るの。そのためにあんたを呼んだんだから」
「僕は君のために来たわけじゃない」
「お姉ちゃんのため? だとして彼女は私のことを片付けるためにあんたを呼んだの。同じだわ」
「同じじゃない」
「同じだよ。私の言う通りにしないとあんたは彼女の期待を裏切ることになるんだから」
「彼女の期待は僕が君の言うとおりにすることじゃないよ。君のことを巧く片付けてしまえば言う通りにしなくてもいい」
「また理屈ね」
「この程度が?」
妹さんは舌を出してぎゅっと目を瞑る。捲し立てないところ少し落ち着いてきたようだ。あるいは疲れたのかもしれない。
僕は畳んだ毛布を比較的平らになっている布団の上に置く。
「君はたぶん自分がきれいでありたいだけなんだよ」
「きれいって?」
「嫌なことがあって、思い通りにならないことがあって、そういった不味いものを吐き出すだけ吐き出してしまって、自分の中を整理したいんだ。だからこんなふうに家の中を散々散らかして、お姉さんに当たり散らしている。自分の家も、身内も、好き勝手やるには好都合だからね」
部屋中に放り出された布団から舞い上がった埃や小さな綿毛がまだ空気中に対流して、差し込んだ光の筋の中にふわふわ浮かんでいた。
「それが半分。でもそれだけだったら他人を呼んだり彼女を追い出したりなんかしない。あとは君のプライドの作用だろう。君は確かに見かけだけは美人だ。見かけだけは、ね。だからきっと君をよく知らない男たちからはモテただろう。君だってそう言った。自分は綺麗だという疑いのない自信がそれを言わせたんだ。君は自分があくまでも求愛される存在だということをお姉さんに認めさせたかったんだよ。振られて暴れているだけじゃ君の自尊心は回復しないからね。慣れていないから、受け入れられないんだろ」
「それで、きれいって? 理屈っぽいってのはね、そうやって言葉を投げつけるばっかりで答えを言わないとこを言うんだよ。まったく、苛々させる」
「理解できないのは君に聴く気がないからだと思うよ」僕は妹さんの前に腰を下ろして畳の上に手を置く。「仕方ないから簡潔でわかりにくい言い方をするけど、いいかな、さっき君は自分のことをこんなに可愛い子って言っただろ、きれいっていうのはその気持ちのことだよ」
妹さんは眉間に皺を寄せて考えながらしばらく僕を睨んでいたが、ひとつくしゃみをした後に答えた。「それは違うわ」
「じゃあ僕にはわからない。君が何のためにここに来たか」
「来た? 自分の家に帰ってきただけよ。来たわけじゃない。家に帰る理由をとやかく言われる筋合いなんてない。それに当たり散らしたいんじゃないの。共感してほしいんだよ」
「共感?」
「あんたの良いとこ、ひとつ教えてあげようか」
「何?」
「率直なとこよ。私に気を遣ってないでしょ」
「君が遣わせなかったんだ」
「私はね、彼女の微笑が嫌いなの。微笑って優しさよね。あなたのことを見守っていますって意志表示よね。そうして何でもかんでも済し崩しに丸めこんで、綺麗に慰めてさ。卑怯じゃない? そりゃあね、私だって彼女が狙い澄ましてそんなことをしてるんじゃない、それが彼女の自然な振舞いだって知ってるわよ。だけどそれでも気が滅入ってる時にそんな顔をされるとますます腹が立ってくるのよ。この人は私の痛みを傍で見ているだけで、理解したり痛みを引き受けたりするつもりはないんだって思えてくる。彼女ばっかり上から見物していて私が惨めじゃないの。それが嫌だったの」
「本来的に君の痛みは君のものでしかない」
「事実がどうのって問題じゃないの、わからない?」
「だとして、共感っていうのは究極的には同じ苦しみを味わうことだろ」
「そうよ。あんたと私がセックスしてるんだと思ったら彼女は傷つくでしょう?」
「じゃあそもそも誰かを呼んだのも――」
「男よ」
「――男を呼んだのもそれを奪うためというわけだ。でも白州さんは来なかった。誤算だ」
「いいのよ別に、あんたでも。言ったでしょ」
僕でも? 訊き返しそうになったけれど借りを作ることになりそうで嫌だったので我慢した。
「とにかく、君は外道だ」
「もう何を言われても痛くないってば」妹さんは失笑だった。
「共感してほしいということは、君も何かを奪われたってことだろう?」僕は次の質問に進んだ。
「それは抱いてくれなきゃ話さない」
「僕はまだ君に心を許していないし、聞く必要もない」
「それは建前よ。あんたは私の体に興味を抱かずにいられない。そうでしょう?」彼女はスカートの裾を太腿の付け根に向かって滑らせたり襟を広げて見せたりした。でも僕は黙って瞳を見つめていた。それは結構愉快だった。
「ねえ、あんたのことはいい人だと思うけどさ、好きじゃなくたって体を求めていればセックスくらいできるのよ。気になるんでしょう? 触ってみたいんでしょう? どんな温かさか、どんな柔らかさか、知りたい、喉が渇く、息が上がる。違う?」
「でも君は僕を求めているわけじゃない」
「いいえ、あんたじゃなきゃ駄目なのよ。今、この状況ではね。だから、そうね、こういうのはどう? あなたは彼女のことが好きなわけでしょう。それなら少し私の体を彼女のものだと思って抱いてみればいいのよ。同じ両親から産まれた体よ。この世にある他のどんな女の体よりも彼女のものに近い体なのよ」彼女は童話に出てくる悪い魔女みたいににたりとした口調で言った。
「それは違う。そんなふうには思えない。君は君だ」
「目を閉じてイメージしなさい。ここにいるのは彼女だと」
「そうか、わかったよ。抱いてもいい。だけど僕は何もイメージしない。君は君だ。僕は僕の、君に対する優しさをもって君を抱く。君に屈辱を与えるには優しくするのが一番じゃないか」
「せいぜい言ってなさいよ」彼女は満足そうに言い返した。
第3章は「愛について」と銘打っているものの、より実質的には「性について」です。猫を被っていたのだ。こういうセクシーなシーンのためにこの章では少しずつ性的なモチーフに引きずり込んできたつもりですが、唐突に感じられますか?
それはそうと、このシーンで深理さんが白州さんではなく「僕」を呼んだのが〈天使と肉体のアジール〉で「僕」が深理さんではなく白州さんを呼んだことの応答になっていることにお気づきでしょうか。




