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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第3章 音楽――あるいは愛について
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蛇のブレスレット

 淡水生物館のコンクリートは密林に埋もれたアンコールの遺跡のようにひっそりとしている。ガラスの向こうの水辺に明るい光が降り注いで溜まっている。

「ああいう騒々しい場所は苦手なんだ。気が急かされるから」僕は言った。僕と羽田は水槽の前のベンチに〇・六人分くらいの間を空けて並んで座っていた。

「わかる」羽田は唇を笑わせる。膝の横に手を置いて肘が逆に曲がるくらい腕を突っ張って、尖った肩を首の上に突き出している。「あなた爬虫類館に入った時もきょろきょろしていた。そんなに人目が気になるの」

「人目というより、存在そのものだよ。何かに集中したい時に周りでうろうろされたら仕事にならない。それは別に視線とか音じゃないんだ。気配だよ」

「私は?」

「今は平気だよ。ここは静かだし人の動きもない。それに、別に何かに集中したいってわけでもない」

「じゃあ改めて私のメディアについてなにか言って」

「なにか?」

「感想」

 僕は腕を組んだ。

「君の踊りがとてもよかった」と僕。

「それはもう聞いた」

「メディアは君がやりたいって提案したの?」

「なぜ?」

「君が主役だったし、魔女の話だ」

「そうね、少しは」羽田はそう答えて少し黙った。僕の反応を確かめるでもなく水槽の方をじっと眺めているので僕も待つことにした。「私ギリシャ悲劇があまり好きになれないの。でもカリスマが今度は悲劇をやるって言うから、仕方なく。悲劇って、筋書きはいいのよ。いけないのはセリフ回しというか、特に女の性格が駄目なの。自分は無力だとか子供がかわいそうだとか、とにかく神だか精霊だかに対して嘆きまくるでしょ。それを自分でやるのだと思うと、役との乖離をすごく強く感じるの。苦いものを食べてどうしようもなく吐き気がするみたいに、受け入れられないのよ。それで、カリスマはそれなら私を主役にして舞踏劇にしようって、劇団の中では私が一番バレエができるからね、私がメインになるのは筋だけど、それならメディアにしてくださいってお願いしたの。メディアだって嘆くよ。ただそれを実力で片付けるところだけは特別なの」

「実力をふるうなら嘆きはあった方がいいだろうね。嘆きというか、余韻というのかな。余韻、哀、哀しみ」

「ブルース・リーやランボーみたいにね。実際、メディアはブルース・リーやランボーみたいに強かったのよ。フィジカルは知らないけど、とても強力な魔女だった。召喚や薬術に長けていたの。ヘカテーの娘だものね」

「だから実力行使が可能だった。コリントス王とは呪殺、弟と子供たちは斬殺刺殺」

「肉親は直接手を下してるのよね。遠隔じゃないの。エウリピデスの脚色もあるのだろうけど。子殺しに関しては最も強く憎むべき夫イアソンに対して、死ならぬ死というもっと間接的な死を与えるための儀式でもあるのよ」

「それは魔女でなくても発動できる呪いだろうね」と僕。

「そう。あえて魔女らしからぬ手を使うのよ」

「そこが最も印象的なシーンでもある。ミュシャのメディアもダガーを握っている」

「そうね」羽田は頷いた。やはりミュシャの《メディア》を知っているようだ。それは例によってサラ・ベルナールのために作製したポスターで、メディアは我が子を刺し殺したポーズのまま正面を見下している。その左手首には蛇を象った金のブレスレットが巻きついている。

「そう、衣装と小道具がよくできているのもよかったよ。ドレスと、ブレスレットと、あと役者を知っている人間にしてみれば羽田衣が羽衣を献上するシーンはまた別の意味で印象的だったね」

 羽田は右のグーで僕の肩を小突いた。彼女は読みがハネダ・コロモなので一部界隈ではハゴロモちゃんの渾名で呼ばれていた。彼女はそれがあまり気に入っていないのだろうか。ともかく僕がその渾名で呼んだことはないのだけど。

「ひとつわからないのは、ブレスレット、あるいはメディア自身に蛇のモチーフを与えたのはミュシャなんだろうか。それともエウリピデスなんだろうか」

「ローマで蛇使い術を教えていたって伝承があるのよ」

「ローマ?」

「コリントスでイアソンを見限ったあと、アテネに招かれるでしょ。アテネでも暗殺に加担しかけて、結局長居できなくなるの」

「なるほど」

「蛇使いっていうけど、実際は魔術全般を教えていたんでしょうね」

「なぜそれを魔術ではなく蛇使いと言い伝えたかが問題なんだろうけど」

「蛇使いといえばアスクレピオスよね」

「へびつかい座、ネフシュタン」

「アスクレピオスは蛇が蛇を蘇らせるところを見て蘇生の薬術を大成した。医者たちの守護神」

「メディアも薬術が得意だった」

「そう。たぶんそれを教えていたんだと思う」

「蘇生術というのは、いわば蛇を操ることなのである、と」

「そういうことになるわね」

「メディアはそれまでやった殺人を清算しようとしていたんだろうか」

「改心したのかって?」

「うん」

「それはない。だってそのあとも殺人教唆をやっているし。だいたい、当時って殺人がさほど禁じ手でもないような世界でしょ」

「ただキリスト教化された後世の人々にとっては蛇もメディアもたぶん同じくらい邪悪なモチーフになるんじゃないだろうか。蛇使い術を教えた、というのはあくまで伝承でしょ? ギリシャ時代のイタリアは当然まだキリスト教化してない。でものちのち普及の温床になっていく」

「異教の出自で、強力な呪術を操る。中世的な価値観ならほぼなんの疑いもなく魔女狩りの対象よね。なかなか筋が通ってる」

「メディアと蛇を結びつけるのは必然ではないかもしれない。でもしっくりくる」

「そうね。体の中に小さな蛇を住まわせているあなたの知り合いの私がメディアを演じたのが必然とは言えないのと同じように」

 僕は少し考える。メディアの蛇のつながりについてはだいたい決着がついた。でもまだ何かがもやもやしていた。目の前の大きな水槽には太陽光が降り注ぎ、朽ち果てた街のような水中世界を不規則に照らしていた。

「君がメディアを演じたのと、僕にアリゼの話をしたのと、その二つも無関係ではないような気がする。アリゼの存在の不確かさとメディアの居場所の不安定さは似ている」

「アリゼも今頃誰かを呪い殺したり魔法を教えたりしてるのかしら」

「さあ。あるいは龍の二頭立て馬車であちこちを巡っているのかもしれない」

 僕はそう言ってみてから面白くない冗談だと思った。少し後ろめたい感じがした。言わなければよかった。羽田も同じように感じたのかもしれない。少しの間黙っていた。

「本当にメディアの運命を辿るなら、アリゼはきちんと旅から帰ってくるでしょうね。メディアは当時の世界をほとんど隅々まで巡って、何度かは結婚もして、結局コルキスへ戻るのよ。そしてその地を治めることになる」

 羽田は立ち上がった。太腿の裏を擦り、腰を捻って跡がついていないか確かめる。あんまり長い時間座っていたからだ。

「ただ演じるのではなくて、もし君が本当に魔女だったなら、君はのらりくらりとした性別のない生き方、あるいは中性的な生き方を選ぶこともできた」僕はまだ座ったまま言った。

「もし私が本当に魔女だったなら、まず性別についてこんなに深く考えるほど自分の性別を意識していなかったでしょうね」

「それはそれでもったいないかな」

「そうね。自然の摂理というのはね、人間の力では太刀打ちできないからこそ逆らい甲斐があるのよ」

 羽田は踏み出しかけた足を戻して、短いズボンのポケットから出した携帯電話で目の前の水槽を写真に収めた。気に入ったみたいだ。

 次の水槽は渓流を再現していた。滝と滝壺があって、水槽のガラスがその断面図をつくっている。魚は滝の上に上流がないことを知ってしまったのか、流されないように流れの遅いところを探して落ち着いている。自然のあり方に逆らうのが人間の特権だとしたら、川魚は何なのだろう。川に留まり続ける魚もいれば、一度海まで流されやがて遡上する魚もいる。自然の摂理と本能とは必ずしも一致しない。本能が自然の摂理に逆らう苦難の道を選ばせることだってありふれているんじゃないだろうか。僕がそんなふうに気付いたことを言うと「そうかもね」と答えた。そこには、私とあなたは別々の人間で、あなたの意見はあなたのものなのだから私に同意を求める必要なんてないでしょう? というニュアンスが含まれていたかもしれない。

「私さっきあなたのことを知り合いって言ったでしょう?」羽田は訊いた。水槽に顔を近づけたままだった。

「言ったっけ?」

「言った」

「じゃあ、そういうことにしておくよ」

「しておかなくてもいい。そうは言ったけど、もっと精確に言うと少し違うニュアンスの関係だと思っているの。それは友達。私はあなたのことを精確な意味において友達だと思っているの」

「ある二人の込み入った関係を説明するのにその言葉を結論にした小説があった気がするな」

「友達、か」

「ただ、話していて面白いの。抱腹絶倒って意味じゃないのよ。そうじゃなくて、私あなたの考え方を聞いているのが好きなの。新しい見識が得られるのよ。インスパイアがあるの」

「君が僕の意見に感化されているようには見えないけどな」

「そういった押し付けがましさがないからいいんでしょうね」

「そう?」

「メディアのテーマなんか他の団員と散々話したけど、大抵どちらの解釈が正しいかという論争になるのね。私そういうのが好きじゃないのよ。自分の中でせっかく綺麗に作り上げたものをくしゃくしゃにされたり床に叩きつけられたりしているみたいで。だから自分の考えの蓋を閉じておくんだけど、あなたってそういう人の意見を静かにきちんと鑑賞してくれるでしょう、だから蓋を開いていてもいいと思える」

「それは嬉しいね」

「私そういう身分の枠組みってよくわからないのだけど、あなたと話してると、ああ、これが友達ってものなんだなって思えるの。利害がなくて、もっと親しい人に隠していることも話せて。そういうものなのよ、きっと」

書いてあった分を読み直したら、メディアがイアソンに手を下さなかったのはすべて人間が間接的に犯している殺しの風刺だとか、メディアには家をめぐる物語の側面もあるとか、性や魔女のモチーフが行方不明になっていたのでそれなりに書き直しました。直してたら1日空いちゃった。

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