魔女は実在する、という言葉を信じるのか
「私、近頃海部の話を聞いてあげているの」羽田はさっきそう言っていた。僕はそのことが気になり始めていた。
海部が生徒会の新聞に連載している「魔女を辿って」には今年度の初め頃からかなり明確な主役が登場していた。アリゼという女の子だ。魔女は十五歳になると修行の旅に出る。海を渡り、山を越え、自分の能力を試すための困難に立ち向かわなければならない。海部はその旅の経過を少しずつ新聞に書いている。旅に出る前のアリゼは海部の家に居候していて、出発の前に魔法の術式を書いたノートを海部のもとに残していった。海部はその中の一つに定められた通り、眠る前枕周りにいくつかの小物を配置することによって夢の中の映像としてアリゼの旅の様子を見ることができた。だから夢ゆえの曖昧さと断片性はあるものの、彼女の物語は完全なる想像ではない、という設定だった。
「アリゼのことって? 海部の魔女語りに出てくる女の子でしょ」
僕がそう訊くと羽田は僕に目を向けたまま缶を呷った。僕から顎の下や三角形の鼻の穴が見えるくらい顔を上げていて、でも彼女の目は酷く見下すような具合に僕を捉えていた。「男ってのは一時に複数の女に愛を配分できる生き物なのかな」
「人によるんじゃないかな。一途か移り気か。女は違う?」僕は言った。
「私は『一時に』って言ったの。移り気っていうのは同時じゃないわね。一時じゃない。例えば、ルックスはこの子の方がいいけど、料理はこの子の方が上手だ、というのは、愛というよりもっと俗な必要性だろうものね」
「まあ」
「海部はアリゼのことをじっと愛していて、そんなふうに背を向けた男にも愛を注ぎ続けられる女の子がいるのかどうか、ちょっと期待をかけて待っているだけなのよね」
「なんだそれ」
「あなたでも変だと思うの?」
「不思議に思っただけだよ。すると君は海部にたぶらかされていたってことになるのか」
「私だけじゃないわよね。他の女の子と二人でいるのも見かけるでしょう?」
「ああ」
「でも私はたぶらかされていただけだとは感じないの。『だけ』だとはね。彼なりにケジメも持ってるのよ」
「どういうことだろう」
「例えば、自分から交際を申し込むことはなくて、ただ帰りの待ち合わせとか昼飯とかの約束を日々取り付けるだけ、煮え切らないふりをして、相手の気が離れるのを待つか、離れたのに言い出せないのがわかると自分から誘うのをやめて関係を解消してやるか、どちらか。どちらにしても、愛してもらうには先に俺が愛さなければならないのだろうけど、どうしてもそれができない。自分はどうしようもなく傲慢な人間なのだと、そういう説明はするの」
「それで納得する女の子はあまりいないと思うけどな。そこは変わってくれと思うと思う」
「そういう子をあいつは求めているんでしょう。そういう子でなければ、自分を変える必要性もまた見出せない」
「今までにそういう子はいなかったってこと?」
「男の基準から見たら女の諦めと立ち直りってよっぽど早いのが実際じゃない? それなら別にいいや、もう冷めたって子がほとんどでしょうね」と羽田。
「さっき、煮え切らないふりって言ったね」
「言った。そう、他の子を本当に好きになってしまったこともあるってこと。だけどアリゼのことを忘れてしまうのが怖くて、余計に冷たくしてしまった」
「その子にも愛していなかったと言ったんだろうか」
「幸い彼女には始めからあまり気がなかったらしいの」
「それって幸いなんだろうか」
「あなた緑蔦の『魔女を辿って』は読んでるのね?」
「うん」緑蔦というのは生徒会が発行している広報誌のことだ。「文才はともかくとして内容は面白いよ」
「彼女は実在なんだって」
「海部がそう言ったの?」
羽田は肯く。「言う以前に書いてるでしょう。『ここには事実しか語らない。アリゼは本当にいたのだ』って緑蔦の連載に本人がそう書いているのに、なぜ驚くの?」
「だって、それは書き手のレトリックであってさ、そこから事実か虚構かを判断することはできないじゃないか」
「……うん、まあ、そうでしょうね」羽田は僕の思考を鑑定するように何秒か見つめた後そう答えた。「魔女の話だからみんな創作だと思うでしょ。でもアリゼがある時から彼の家に匿われて、それからほとんど十年一緒で、それからぱたっと姿を消してしまったって、あの筋書きは全然フィクションじゃなくて、事実なのよ」
「空を飛んだり姿を消したりするのが?」
「信じられる?」
「事実だって念押しされると逆に信憑性がなくなる気がするな。ほら、これがアリゼだよ、魔女だよって見せられたら、それは納得だけど」
「でしょうね。でも完全に存在しないと断定することもできない。人間は一人でそんなに世界の端々まで見通すことはできない」
「それはそうだ」
「つまり、普通の人間は自分の目で見たことのないものが存在するかどうか保留しているのよ。魔女について何ら体験を持たない私たちがここで存在の真偽を云々するのは無意味よね」
「それもそうだ」
「問題はその保留された存在を海部だけが本気で信じているということよ。曰く、俺が信じてやらないと彼女は現実との繋がりを完全に失ってしまうんだ。それがぎりぎりのところで彼女を実在のものにしている。まるで糸一本で吊るされた人形のようにね。どう、健気でしょ?」羽田はそこでにこっと笑う。
僕はその珍しい羽田の微笑が何を意味するのか検分しながら海部の心理を考えた。
「どうだろうね。アリゼが実在だとして、海部が本気で信じているならそれを誰かに理解されようとは思わないはずじゃない?」
「なぜ?」
「なにせ魔女なんだから、自分の目で見なければ信じられないようなものをただ言葉だけで話せばかえって魔女の実在を薄めてしまうことになる。そうは思わない?」
「わかる気もする」
「それで『魔女を辿って』を書くってことは、本当は自分でも信じられなくて誰かの賛同が欲しいんじゃないだろうか」
「私も魔女を知っているって人が自分以外にもいないか?」
「そう。だけど、そんな人間が現れるまでは結局逆効果だろうね」
「それがアリゼを救うことにはならないだろうってことね」
「うん」
「海部のアリゼに対する愛って、どういう感情なのかしら」羽田は漠然と訊いた。
僕は体を引いて水筒の蓋を手の中で回す。
「『魔女を辿って』を読む限りではかなり親しいよね。膨大な量の話をして、長い時間を共有して、……だって爪をどんなふうに切るかなんて家族でも妙な観察をしてなきゃ気がつかないと思うけどな」
「でも仲は悪い。言い合いばかりしている。海部自身、あいつのことは好きじゃない、嫌いだったというのね。でも、嫌いだけど愛していたと」
嫌いだけど愛していた。
不思議な言葉だ。
「それは、つまり、仕方なさなのよ。どれだけ厭々でもあいつはアリゼの命綱を放すのが怖いの。見捨てられないのね。もう終わりにしようって言われて、わかったって一言で返せるような相手じゃないのよ。それが心の拠り所を求める恋愛と既に心に巣食った仕方なさの違い」羽田はレストランのガラスに背中を向け、ベンチの上に長座の体勢で両脚を揃え、背中を自然に伸ばしている。太腿の間に缶を置いてそこに目を落とす。膝を左右くっつけていても間にアルミ缶が収まるのが羽田の太腿だった。
「海部はアリゼのことを信じてくれる誰かを探しているんだろうか」僕は訊いた。
「それは違うと思う。彼の心の中にアリゼの占めている敷地があって、それと重ならないように残りの面積をうまく埋めてくれる人を探しているんだよ。アリゼのことは信じなくてもいい。ただ彼が根本的に愛しているのはアリゼなのだということを理解してくれる人でなきゃいけない。性質や形が違っても彼から受けるものが確かに愛だと認められる人でないといけない」
「その理解と、君が彼とメールを続けるのと、何か関係がある?」
「皆無ではないでしょうね。でも私は穴埋めにはなれない。もう普通の男女の付き合いとは別物なの。言ったでしょう、そんな枠組みからは出た方がいいって。それに、たぶん彼を理解しているわけでもない。私はどちらかというと付き合いに積極的であることを要さない立場だから」
「異性の間に本当の共感はないってことなんだろうか」
「飛躍よ、それ。そこまでは言ってない。これは単に私と海部のケースであって」
「まあね」
「でも確かにそんな気はする。両者は根本的にはわかりあえない。だから異性同士のストレートな愛にはある種の虚しさが伴うと思うの。本当に心が孤独で理解を求める時、それを満たせるのは同性であって、異性ではない。結婚した後でも同性同士で集まって自分の配偶者の愚痴を言うの、そうでしょ?」
「なるほど」
「同性愛というのは、本質的には、どうしようもなく宿命的な同性への欲求、肉欲だと思うけれど、理解への欲求もまた理性的な同性愛の起源でありうる」
「その意味においては海部はゲイになるのが一番幸せだったんじゃないか。アリゼはただ特別に大切な人であり、別の誰かを愛することに干渉はしない」
「そうよね。本当にそう。だけど現実には人間は異性にも理解を求め、同性にも肉体を求めようとするのよ。ねえ、私あなたに理解を求めてる?」羽田は缶を振って空になったのを確かめ、サンダルをテーブル側から反対に移して脚を下ろす。サンダルのバックルを留めながら彼女は「可哀そうな海部」と呟いた。
海部は僕にも何かを求めていたのだろうか。「ミシロちゃん」と彼は呼ぶ。たぶん求められていただろう。それは理解だろうか。きっと肉体ではないだろうけど。
我々はライトブイの建物を出てトーチカのような分厚いコンクリートの淡水生物館に入る。内部も打ちっぱなしで幾何学的に構成されている。水は浅く、ガラスの向こうに空が抜けている。こちらにはライトブイの賑わいも人の影も暗闇もなく、ただ澄んだ水の音と静けさと涼しさだけがある。
僕は海部の魔女語りが空想ではないということに関して改めてしばらく考えた。自分を変化させ続けることによって本当の自分が損なわれ消失していく。砕かれたガラスのように取り返しがつかなくなる。もし魔女が他人の記憶に干渉できるなら、大きな変化を経ても何の違和感もなく相手に受け入れさせることができるのかもしれない。そんな存在を相手にして、ああ私はこんなところにいたんだと思わせる、そんな灯台の役割りを務めることなどできるのだろうか。魔女の存在を信じること、記憶に留めておくこと、それはとても難しいことなのではないだろうか。
海部がアリゼについてどんなことを書いてるのか少しくらい説明しておいた方がいいと思ったので冒頭に書き足しました。2019/10/27




